東京新聞の3つの社説
3・11から3年 まだ知らないフクシマ
2014年3月9日
過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる-。
原発事故にも通ずるかもしれない。
あれから3年。
私たちは、福島原発事故を、実はまだ知らない。
忘却が神話を復活させるのか。
政府のエネルギー基本計画案は、原発をあらためて、「重要なベースロード電源」と位置付けた。
昼夜を問わず、一定量の電力供給を担う、主要な発電設備のことをいう。
一昨年の衆院選で掲げた、脱原発依存の約束に目をつむり、3・11以前に戻したい、という意味だ。
◆忘却とは少し違う
「忘却というのは、ちょっと違うかな…」
写真家の島田恵さんは、少しの間考え込んだ。
核燃料サイクル施設が集中する青森県六ケ所村で、12年間生活し、変わっていく村の様子、変われない村の暮らしを、つぶさに記録し続けたことがある。
3・11の後、六ケ所と福島を結ぶ記録映画『福島 六ヶ所 未来への伝言』を製作し、自主上映会を経て、先月、東京・渋谷の映画館で初公開した。
核燃料サイクルとは、原発で使用済みの核燃料を、再利用する計画だ。
エネルギー政策の根幹ともされてきた。
核のごみが全国から集まる六ケ所村も、福島同様、国策に翻弄(ほんろう)されながら、都市の繁栄を支えてきた。
いわば、入り口と出口の関係だと、島田さんは考える。
巨額の交付金と引き換えに、推進派と反対派に分断された寒村は、列島の縮図にも映る。
この3年、おびただしい活字と映像が、フクシマを伝えてきた。
周囲から、「公開のタイミングを外したのでは」と指摘されたこともある。
それでもなお、映画を見た多くの人が、「知らなかった」という感想を寄せてくる。
◆事故報告書は未完成
私たちは、福島をまだ知らない。
福島原発事故が、どれほど大きな事故だったのか。
もし、偶然の救いがなければ、どれほど巨大な事故になったか。
国民として、もっと正しく知る必要があるだろう。
国会事故調の調査期間は、実質約3カ月だったという。
報告書は、「破損した原子炉の現状は詳しくは判明しておらず、今後の地震、台風などの自然災害に果たして耐えられるのか分からない」などと、
冒頭で、未完成であることを吐露している。
例えば、こんな事実もある。
震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて、使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。
プールの中では、約1500体の核燃料が、高い崩壊熱を発しており、最も危険な状態だったとされている。
放射線量が高く、建屋の中に入ることは不可能だったと、作業員は語っている。
燃料を冷やす手だてがなかった、ということだ。
ところが、貯蔵プールの横にある、「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量の水がたまっていた。
津波か地震の衝撃で、仕切り板がずれ、そこから、貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。
そして皮肉にも、爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。
点検作業の不手際があり、4日前に抜き取られていたはずの水が、そこに残されていた。
もし“不手際”がなかったら-。
私たちは幸運だったのだ。
チェルノブイリ原発事故の原因について、当時のソ連当局は、規則違反の動作試験が行われたため、運転出力が急上昇したことによる、と発表した。
しかし、事故から5年後、「主因は人為的なものではなく、原子炉の構造的な欠陥である」という内容の報告書をまとめている。
米スリーマイル原発事故が起きたのは、作業員が、誤って非常用冷却装置を止めてしまったからだと、調査の結果判明した。
事故原因が解析され、判明し、防止策を講じた上で、原発は再び動き始めた。
しかし、福島の場合はどうか。
世界史にも例がない多重事故は、極めて複雑だ。
原因解明が不十分なまま、再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか。
根源的な疑問は、やっぱり残る。
◆無事故の保証ではない
3・11以前への回帰を目指す、エネルギー基本計画が、間もなく正式に決定される。
政府は、積極的に、再稼働を認める姿勢を隠さない。
だが、原子力規制庁自身が明確に認めているように、世界一の規制基準とは、たとえそうであれ、無事故を保証するものではない。
地震国日本に、安全な場所はない。
なし崩しの再稼働を受け入れるか、受け入れないか。
フクシマを知り、フクシマの今を踏まえて、決めるのは私たち自身である。
3・11から3年 みんなが闘っている
2014年3月10日
原発事故を抱えた町の再起が、どれほど困難であるか。
震災からの3年は、それを思い知らせる時間だった。
闘う人々に、ずっと寄り添わなくてはならない。
それは、静かな時限爆弾のように、胸底に沈み込み、あの戦争から70年を経ても、消えていなかった。
福島県相馬市の診療所「メンタルクリニックなごみ」の精神科医、蟻塚(ありつか)亮二さん(66)は、
沖縄協同病院心療内科部長を務めていた2010年暮れ、長い診療経験にはない「奇妙な不眠」を訴える男性に、立て続けに会った。
◆戦争の心の傷は70年も
海外の論文を読みあさってみると、その不眠は、アウシュビッツ収容所の生存者に見られた、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそっくりだった。
男性に聞くと、太平洋戦争末期の、沖縄戦を生き延びた人だった。
住民を巻き込んだ、米国との激しい地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になった、沖縄の戦闘。
その記憶は、生き延びた者にとって、深い心の傷となったのだ。
20年前からこの問題に取り組んできた、元沖縄県立看護大教授、當山(とうやま)冨士子さん(66)と一緒に、
一昨年、沖縄戦を体験した高齢者400人に調査をしたところ、PTSDを引き起こしかねない重度な心の傷を抱える人が、4割もいた。
蟻塚さんは、不眠の高齢者を診ると、戦争の影響を疑うようになった。
砲弾の雨の中を逃げた人、家族を失った人、住民が日本兵に殺されるのを目撃した人…。
つらい記憶が、長い年月の後に仕事を辞めたり、家族の死に遭うなど、ふとしたきっかけでよみがえる。
夜中に何度も目覚め、パニックを起こしたりする。
遺体の臭いを思い出す、という人もいた。
◆沖縄の苦難に重なる
戦後20年たって行われた、精神疾患に関する調査で、沖縄は本土に比べて、統合失調症などを発症する割合が高かった、というデータがある。
それは、戦争で負った心の傷が影響している。
本土から切り離された米軍の統治下で、人権を踏みにじられながら貧困に苦しんだことや、今も続く基地と隣り合わせの生活など、
つらい経験を重ねてきたことが、発症のその引き金になった-。
そう蟻塚さんはみている。
沖縄の心の傷は、原発事故で傷ついた、福島の痛みに重なる。
災害後の心のケアの重要性は、阪神大震災や新潟県中越地震などの教訓として残された。
東日本大震災後に、有志の手で開かれた診療所に、昨春、蟻塚さんが所長として招かれたのも、沖縄での経験を頼られてのことだ。
毎月50人の新患を受け入れ、500~600人の患者を診る。
一割に、震災や原発事故による、遅発性のPTSDがみられるという。
震災の日、運転していた車ごと津波に流された男性は、転がった消防車と、泥に埋まった人の姿が、よみがえるようになった。
眠れずイライラし、妻に怒ってばかりいた。
放射能を浴びてしまったと恐れ、息子と一緒に県外避難している母親は、突然不安に襲われるパニック症状に苦しんでいた。
PTSDだけでない。
仮設住宅の生活が長引いて、うつ状態やアルコール依存になる人も急増している。
知らない人間関係の中で刹那的になり、「死んでもいい」と、ふと思う人が目立っているそうだ。
東日本大震災によって、今も27万人が避難生活を送る。
そのうちの14万人を占める福島が、とりわけ厳しいのは、放射能汚染からの回復や、将来の生活の見通しが立たないことだ。
福島はまた、震災関連死が、1671人を数える。
地震や津波で亡くなった直接死の、1603人よりも多く、被災3県の半数を超えている。
長い避難生活で体調を悪化させたり、各地を転々とするうちに、治療が遅れたりしたせいである。
自殺の多発も際立っている。
福島から聞こえるのは、悲鳴のようなシグナルだ。
◆フクシマを忘れない
政府は、低線量被ばくの問題から、目を背けてきた。
年間の被ばく線量について、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで許容できる、と基準を緩め、
原発周辺自治体への早期帰還を、促そうとしている。
東電も、避難指示区域の見直しのたびに、賠償を打ち切っている。
見せ掛けの事故収束と復興を、急いでいるようにしか思えない。
政府や東電の不条理に遭っても、町の再建がどんなに困難であっても、人々は生き抜こうとしている。
本土は戦後、基地の負担を押しつけられる、沖縄の苦難を忘れてしまっていた。
わたしたちは、福島からの悲鳴に耳を傾ける。
寄り添うことを忘れてはならない。
3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
2014年3月11日
津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。
大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて、死者の声に耳を傾けたい。
故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
はるか眼下に海を望む、丘の中腹に立つ民家。
1796年の明治三陸大津波を知る、当時85歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。
◆風化する惨事の記憶
その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が、「ここまで津波が来たとすると…」と、驚きの声をあげたというのである。
この本が、「海の壁」の原題で出版されたのは、1970年。
その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で、2001年に講演した際のエピソードを書き加えている。
「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。
耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について、体験していないことに気づいたのである」
明治の大津波では、羅賀に、50メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、
沿岸市町村から集まった人々の顔に、驚きの色が浮かんだのだという。
羅賀の高台には、明治の大津波で、海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。
2011年3月11日の津波は、その「津波石」と集落を、再びのみ込んだ。
親も子もない。
助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。
「津波てんでんこ」は、三陸の、悲しくも重要な教訓である。
「われわれは明治、昭和の大津波と、同じことをしてしまった」と、3年前を振り返ったのは、
名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた、岩手県釜石市の野田武則市長である。
大きな揺れが収まって30分ほど。
いったん避難した後、家族の安否などを心配して、自宅に戻った大勢の市民が、津波にのみ込まれてしまった。
「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」
◆犠牲多かった市街地
野田市長の率直な講演は、示唆に富む。
「犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった」
「防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ」
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。
平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。
国土強靱(きょうじん)化が、海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
よく知られるようになった、岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の、
「高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
その地では、3年前の大津波で、住宅被害が1戸もなかった。
死者の声を風化させなかったことが、後の人々を守った好例である。
過去に繰り返された津波の被害や、到達地点を伝える石碑や古文書は、
紀伊半島沿岸部など、南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも、数多く残されている。
同じように、関東、東海地方でも、1703年の元禄地震津波の犠牲者を供養する、千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、
房総半島や伊豆半島に、いくつもの津波碑が建てられている。
先人たちが、石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを、再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
その土地で何が起きたのか。
将来、何が起きうるのか。
逃げるべき場所はどこか。
よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
こうした津波碑は、漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで、判読の難しいものが多い。
◆巨大津波に備えよう
例えば、南海トラフ地震の津波想定域にある、三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」。
だれにでも分かるように、地元の自治会が、内容説明の看板を、碑の隣に設置した。
碑には、1854年の安政東海地震の津波で、141戸が流失し、11人が溺死した被害状況とともに、
「後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
人間は、忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。
なぜ、命を救えなかったのか。
悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい。
3・11から3年 まだ知らないフクシマ
2014年3月9日
過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる-。
原発事故にも通ずるかもしれない。
あれから3年。
私たちは、福島原発事故を、実はまだ知らない。
忘却が神話を復活させるのか。
政府のエネルギー基本計画案は、原発をあらためて、「重要なベースロード電源」と位置付けた。
昼夜を問わず、一定量の電力供給を担う、主要な発電設備のことをいう。
一昨年の衆院選で掲げた、脱原発依存の約束に目をつむり、3・11以前に戻したい、という意味だ。
◆忘却とは少し違う
「忘却というのは、ちょっと違うかな…」
写真家の島田恵さんは、少しの間考え込んだ。
核燃料サイクル施設が集中する青森県六ケ所村で、12年間生活し、変わっていく村の様子、変われない村の暮らしを、つぶさに記録し続けたことがある。
3・11の後、六ケ所と福島を結ぶ記録映画『福島 六ヶ所 未来への伝言』を製作し、自主上映会を経て、先月、東京・渋谷の映画館で初公開した。
核燃料サイクルとは、原発で使用済みの核燃料を、再利用する計画だ。
エネルギー政策の根幹ともされてきた。
核のごみが全国から集まる六ケ所村も、福島同様、国策に翻弄(ほんろう)されながら、都市の繁栄を支えてきた。
いわば、入り口と出口の関係だと、島田さんは考える。
巨額の交付金と引き換えに、推進派と反対派に分断された寒村は、列島の縮図にも映る。
この3年、おびただしい活字と映像が、フクシマを伝えてきた。
周囲から、「公開のタイミングを外したのでは」と指摘されたこともある。
それでもなお、映画を見た多くの人が、「知らなかった」という感想を寄せてくる。
◆事故報告書は未完成
私たちは、福島をまだ知らない。
福島原発事故が、どれほど大きな事故だったのか。
もし、偶然の救いがなければ、どれほど巨大な事故になったか。
国民として、もっと正しく知る必要があるだろう。
国会事故調の調査期間は、実質約3カ月だったという。
報告書は、「破損した原子炉の現状は詳しくは判明しておらず、今後の地震、台風などの自然災害に果たして耐えられるのか分からない」などと、
冒頭で、未完成であることを吐露している。
例えば、こんな事実もある。
震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて、使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。
プールの中では、約1500体の核燃料が、高い崩壊熱を発しており、最も危険な状態だったとされている。
放射線量が高く、建屋の中に入ることは不可能だったと、作業員は語っている。
燃料を冷やす手だてがなかった、ということだ。
ところが、貯蔵プールの横にある、「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量の水がたまっていた。
津波か地震の衝撃で、仕切り板がずれ、そこから、貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。
そして皮肉にも、爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。
点検作業の不手際があり、4日前に抜き取られていたはずの水が、そこに残されていた。
もし“不手際”がなかったら-。
私たちは幸運だったのだ。
チェルノブイリ原発事故の原因について、当時のソ連当局は、規則違反の動作試験が行われたため、運転出力が急上昇したことによる、と発表した。
しかし、事故から5年後、「主因は人為的なものではなく、原子炉の構造的な欠陥である」という内容の報告書をまとめている。
米スリーマイル原発事故が起きたのは、作業員が、誤って非常用冷却装置を止めてしまったからだと、調査の結果判明した。
事故原因が解析され、判明し、防止策を講じた上で、原発は再び動き始めた。
しかし、福島の場合はどうか。
世界史にも例がない多重事故は、極めて複雑だ。
原因解明が不十分なまま、再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか。
根源的な疑問は、やっぱり残る。
◆無事故の保証ではない
3・11以前への回帰を目指す、エネルギー基本計画が、間もなく正式に決定される。
政府は、積極的に、再稼働を認める姿勢を隠さない。
だが、原子力規制庁自身が明確に認めているように、世界一の規制基準とは、たとえそうであれ、無事故を保証するものではない。
地震国日本に、安全な場所はない。
なし崩しの再稼働を受け入れるか、受け入れないか。
フクシマを知り、フクシマの今を踏まえて、決めるのは私たち自身である。
3・11から3年 みんなが闘っている
2014年3月10日
原発事故を抱えた町の再起が、どれほど困難であるか。
震災からの3年は、それを思い知らせる時間だった。
闘う人々に、ずっと寄り添わなくてはならない。
それは、静かな時限爆弾のように、胸底に沈み込み、あの戦争から70年を経ても、消えていなかった。
福島県相馬市の診療所「メンタルクリニックなごみ」の精神科医、蟻塚(ありつか)亮二さん(66)は、
沖縄協同病院心療内科部長を務めていた2010年暮れ、長い診療経験にはない「奇妙な不眠」を訴える男性に、立て続けに会った。
◆戦争の心の傷は70年も
海外の論文を読みあさってみると、その不眠は、アウシュビッツ収容所の生存者に見られた、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそっくりだった。
男性に聞くと、太平洋戦争末期の、沖縄戦を生き延びた人だった。
住民を巻き込んだ、米国との激しい地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になった、沖縄の戦闘。
その記憶は、生き延びた者にとって、深い心の傷となったのだ。
20年前からこの問題に取り組んできた、元沖縄県立看護大教授、當山(とうやま)冨士子さん(66)と一緒に、
一昨年、沖縄戦を体験した高齢者400人に調査をしたところ、PTSDを引き起こしかねない重度な心の傷を抱える人が、4割もいた。
蟻塚さんは、不眠の高齢者を診ると、戦争の影響を疑うようになった。
砲弾の雨の中を逃げた人、家族を失った人、住民が日本兵に殺されるのを目撃した人…。
つらい記憶が、長い年月の後に仕事を辞めたり、家族の死に遭うなど、ふとしたきっかけでよみがえる。
夜中に何度も目覚め、パニックを起こしたりする。
遺体の臭いを思い出す、という人もいた。
◆沖縄の苦難に重なる
戦後20年たって行われた、精神疾患に関する調査で、沖縄は本土に比べて、統合失調症などを発症する割合が高かった、というデータがある。
それは、戦争で負った心の傷が影響している。
本土から切り離された米軍の統治下で、人権を踏みにじられながら貧困に苦しんだことや、今も続く基地と隣り合わせの生活など、
つらい経験を重ねてきたことが、発症のその引き金になった-。
そう蟻塚さんはみている。
沖縄の心の傷は、原発事故で傷ついた、福島の痛みに重なる。
災害後の心のケアの重要性は、阪神大震災や新潟県中越地震などの教訓として残された。
東日本大震災後に、有志の手で開かれた診療所に、昨春、蟻塚さんが所長として招かれたのも、沖縄での経験を頼られてのことだ。
毎月50人の新患を受け入れ、500~600人の患者を診る。
一割に、震災や原発事故による、遅発性のPTSDがみられるという。
震災の日、運転していた車ごと津波に流された男性は、転がった消防車と、泥に埋まった人の姿が、よみがえるようになった。
眠れずイライラし、妻に怒ってばかりいた。
放射能を浴びてしまったと恐れ、息子と一緒に県外避難している母親は、突然不安に襲われるパニック症状に苦しんでいた。
PTSDだけでない。
仮設住宅の生活が長引いて、うつ状態やアルコール依存になる人も急増している。
知らない人間関係の中で刹那的になり、「死んでもいい」と、ふと思う人が目立っているそうだ。
東日本大震災によって、今も27万人が避難生活を送る。
そのうちの14万人を占める福島が、とりわけ厳しいのは、放射能汚染からの回復や、将来の生活の見通しが立たないことだ。
福島はまた、震災関連死が、1671人を数える。
地震や津波で亡くなった直接死の、1603人よりも多く、被災3県の半数を超えている。
長い避難生活で体調を悪化させたり、各地を転々とするうちに、治療が遅れたりしたせいである。
自殺の多発も際立っている。
福島から聞こえるのは、悲鳴のようなシグナルだ。
◆フクシマを忘れない
政府は、低線量被ばくの問題から、目を背けてきた。
年間の被ばく線量について、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで許容できる、と基準を緩め、
原発周辺自治体への早期帰還を、促そうとしている。
東電も、避難指示区域の見直しのたびに、賠償を打ち切っている。
見せ掛けの事故収束と復興を、急いでいるようにしか思えない。
政府や東電の不条理に遭っても、町の再建がどんなに困難であっても、人々は生き抜こうとしている。
本土は戦後、基地の負担を押しつけられる、沖縄の苦難を忘れてしまっていた。
わたしたちは、福島からの悲鳴に耳を傾ける。
寄り添うことを忘れてはならない。
3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
2014年3月11日
津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。
大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて、死者の声に耳を傾けたい。
故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
はるか眼下に海を望む、丘の中腹に立つ民家。
1796年の明治三陸大津波を知る、当時85歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。
◆風化する惨事の記憶
その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が、「ここまで津波が来たとすると…」と、驚きの声をあげたというのである。
この本が、「海の壁」の原題で出版されたのは、1970年。
その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で、2001年に講演した際のエピソードを書き加えている。
「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。
耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について、体験していないことに気づいたのである」
明治の大津波では、羅賀に、50メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、
沿岸市町村から集まった人々の顔に、驚きの色が浮かんだのだという。
羅賀の高台には、明治の大津波で、海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。
2011年3月11日の津波は、その「津波石」と集落を、再びのみ込んだ。
親も子もない。
助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。
「津波てんでんこ」は、三陸の、悲しくも重要な教訓である。
「われわれは明治、昭和の大津波と、同じことをしてしまった」と、3年前を振り返ったのは、
名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた、岩手県釜石市の野田武則市長である。
大きな揺れが収まって30分ほど。
いったん避難した後、家族の安否などを心配して、自宅に戻った大勢の市民が、津波にのみ込まれてしまった。
「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」
◆犠牲多かった市街地
野田市長の率直な講演は、示唆に富む。
「犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった」
「防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ」
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。
平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。
国土強靱(きょうじん)化が、海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
よく知られるようになった、岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の、
「高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
その地では、3年前の大津波で、住宅被害が1戸もなかった。
死者の声を風化させなかったことが、後の人々を守った好例である。
過去に繰り返された津波の被害や、到達地点を伝える石碑や古文書は、
紀伊半島沿岸部など、南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも、数多く残されている。
同じように、関東、東海地方でも、1703年の元禄地震津波の犠牲者を供養する、千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、
房総半島や伊豆半島に、いくつもの津波碑が建てられている。
先人たちが、石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを、再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
その土地で何が起きたのか。
将来、何が起きうるのか。
逃げるべき場所はどこか。
よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
こうした津波碑は、漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで、判読の難しいものが多い。
◆巨大津波に備えよう
例えば、南海トラフ地震の津波想定域にある、三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」。
だれにでも分かるように、地元の自治会が、内容説明の看板を、碑の隣に設置した。
碑には、1854年の安政東海地震の津波で、141戸が流失し、11人が溺死した被害状況とともに、
「後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
人間は、忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。
なぜ、命を救えなかったのか。
悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい。