ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「私たちは福島原発事故を、実はまだ知らない。このままだと悲劇はくり返される。必ずまたどこかで」

2014年03月11日 | 日本とわたし
東京新聞の3つの社説

3・11から3年 まだ知らないフクシマ
2014年3月9日

過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目になる-。
原発事故にも通ずるかもしれない。
あれから3年。
私たちは、福島原発事故を、実はまだ知らない。
 
忘却が神話を復活させるのか。
 
政府のエネルギー基本計画案は、原発をあらためて、「重要なベースロード電源」と位置付けた。
昼夜を問わず、一定量の電力供給を担う、主要な発電設備のことをいう。
 
一昨年の衆院選で掲げた、脱原発依存の約束に目をつむり、3・11以前に戻したい、という意味だ。


◆忘却とは少し違う
 
「忘却というのは、ちょっと違うかな…」
 
写真家の島田恵さんは、少しの間考え込んだ。
核燃料サイクル施設が集中する青森県六ケ所村で、12年間生活し、変わっていく村の様子、変われない村の暮らしを、つぶさに記録し続けたことがある。
 
3・11の後、六ケ所と福島を結ぶ記録映画『福島 六ヶ所 未来への伝言』を製作し、自主上映会を経て、先月、東京・渋谷の映画館で初公開した。
 
核燃料サイクルとは、原発で使用済みの核燃料を、再利用する計画だ。
エネルギー政策の根幹ともされてきた。
 
核のごみが全国から集まる六ケ所村も、福島同様、国策に翻弄(ほんろう)されながら、都市の繁栄を支えてきた。
いわば、入り口と出口の関係
だと、島田さんは考える。
 
巨額の交付金と引き換えに、推進派と反対派に分断された寒村は、列島の縮図にも映る。
 
この3年、おびただしい活字と映像が、フクシマを伝えてきた。
周囲から、「公開のタイミングを外したのでは」と指摘されたこともある。
 
それでもなお、映画を見た多くの人が、「知らなかった」という感想を寄せてくる。


◆事故報告書は未完成
 
私たちは、福島をまだ知らない
 
福島原発事故が、どれほど大きな事故だったのか。
もし、偶然の救いがなければ、どれほど巨大な事故になったか。
国民として、もっと正しく知る必要があるだろう。
 
国会事故調の調査期間は、実質約3カ月だったという。
 
報告書は、「破損した原子炉の現状は詳しくは判明しておらず、今後の地震、台風などの自然災害に果たして耐えられるのか分からない」などと、
冒頭で、未完成であることを吐露している。
 
例えば、こんな事実もある。
 
震災発生当日、福島第一原発4号機は定期点検中で、核燃料はすべて、使用済み燃料の貯蔵プールに移されていた。
 
プールの中では、約1500体の核燃料が、高い崩壊熱を発しており、最も危険な状態だったとされている。
放射線量が高く、建屋の中に入ることは不可能だったと、作業員は語っている。
 
燃料を冷やす手だてがなかった、ということだ。
 
ところが、貯蔵プールの横にある、「原子炉ウェル」と呼ばれる縦穴に、大量の水がたまっていた。
 
津波か地震の衝撃で、仕切り板がずれ、そこから、貯蔵プールに水が流れて冷やしてくれた。

そして皮肉にも、爆発で建屋の屋根が飛び、外部からの注水が可能になった。
 
点検作業の不手際があり、4日前に抜き取られていたはずの水が、そこに残されていた。
もし“不手際”がなかったら-。
私たちは幸運だったのだ。
 
チェルノブイリ原発事故の原因について、当時のソ連当局は、規則違反の動作試験が行われたため、運転出力が急上昇したことによる、と発表した。
 
しかし、事故から5年後、「主因は人為的なものではなく、原子炉の構造的な欠陥である」という内容の報告書をまとめている。
 
米スリーマイル原発事故が起きたのは、作業員が、誤って非常用冷却装置を止めてしまったからだと、調査の結果判明した。
 
事故原因が解析され、判明し、防止策を講じた上で、原発は再び動き始めた。
しかし、福島の場合はどうか。
世界史にも例がない多重事故は、極めて複雑だ。
 
原因解明が不十分なまま、再稼働だけを急いで、本当に大丈夫なのだろうか
根源的な疑問は、やっぱり残る。


◆無事故の保証ではない
 
3・11以前への回帰を目指す、エネルギー基本計画が、間もなく正式に決定される。
 
政府は、積極的に、再稼働を認める姿勢を隠さない
 
だが、原子力規制庁自身が明確に認めているように、世界一の規制基準とは、たとえそうであれ、無事故を保証するものではない。 
地震国日本に、安全な場所はない。
なし崩しの再稼働を受け入れるか、受け入れないか。
フクシマを知り、フクシマの今を踏まえて、決めるのは私たち自身である。



3・11から3年 みんなが闘っている
2014年3月10日

原発事故を抱えた町の再起が、どれほど困難であるか。
震災からの3年は、それを思い知らせる時間だった。
闘う人々に、ずっと寄り添わなくてはならない。
 
それは、静かな時限爆弾のように、胸底に沈み込み、あの戦争から70年を経ても、消えていなかった。
 
福島県相馬市の診療所「メンタルクリニックなごみ」の精神科医、蟻塚(ありつか)亮二さん(66)は、
沖縄協同病院心療内科部長を務めていた2010年暮れ、長い診療経験にはない「奇妙な不眠」を訴える男性に、立て続けに会った。


◆戦争の心の傷は70年も
 
海外の論文を読みあさってみると、その不眠は、アウシュビッツ収容所の生存者に見られた、心的外傷後ストレス障害(PTSD)とそっくりだった。
男性に聞くと、太平洋戦争末期の、沖縄戦を生き延びた人だった。
 
住民を巻き込んだ、米国との激しい地上戦で、県民の4人に1人が犠牲になった、沖縄の戦闘
その記憶は、生き延びた者にとって、深い心の傷となったのだ。
 
20年前からこの問題に取り組んできた、元沖縄県立看護大教授、當山(とうやま)冨士子さん(66)と一緒に、
一昨年、沖縄戦を体験した高齢者400人に調査をしたところ、PTSDを引き起こしかねない重度な心の傷を抱える人が、4割もいた
 
蟻塚さんは、不眠の高齢者を診ると、戦争の影響を疑うようになった。
 
砲弾の雨の中を逃げた人、家族を失った人、住民が日本兵に殺されるのを目撃した人…。
つらい記憶が、長い年月の後に仕事を辞めたり、家族の死に遭うなど、ふとしたきっかけでよみがえる。
 
夜中に何度も目覚め、パニックを起こしたりする。
遺体の臭いを思い出す、という人もいた。


◆沖縄の苦難に重なる
 
戦後20年たって行われた、精神疾患に関する調査で、沖縄は本土に比べて、統合失調症などを発症する割合が高かった、というデータがある。
 
それは、戦争で負った心の傷が影響している。
本土から切り離された米軍の統治下で、人権を踏みにじられながら貧困に苦しんだことや、今も続く基地と隣り合わせの生活など、
つらい経験を重ねてきたことが、発症のその引き金になった-。
そう蟻塚さんはみている。
 
沖縄の心の傷は、原発事故で傷ついた、福島の痛みに重なる。
 
災害後の心のケアの重要性は、阪神大震災や新潟県中越地震などの教訓として残された。
 
東日本大震災後に、有志の手で開かれた診療所に、昨春、蟻塚さんが所長として招かれたのも、沖縄での経験を頼られてのことだ。
 
毎月50人の新患を受け入れ、500~600人の患者を診る。
一割に、震災や原発事故による、遅発性のPTSDがみられるという。
 
震災の日、運転していた車ごと津波に流された男性は、転がった消防車と、泥に埋まった人の姿が、よみがえるようになった。
眠れずイライラし、妻に怒ってばかりいた。
 
放射能を浴びてしまったと恐れ、息子と一緒に県外避難している母親は、突然不安に襲われるパニック症状に苦しんでいた。
 
PTSDだけでない。
仮設住宅の生活が長引いて、うつ状態やアルコール依存になる人も急増している。
 
知らない人間関係の中で刹那的になり、「死んでもいい」と、ふと思う人が目立っているそうだ。

 
東日本大震災によって、今も27万人が避難生活を送る。
そのうちの14万人を占める福島が、とりわけ厳しいのは、放射能汚染からの回復や、将来の生活の見通しが立たないことだ。
 
福島はまた、震災関連死が、1671人を数える。
地震や津波で亡くなった直接死の、1603人よりも多く、被災3県の半数を超えている。

 
長い避難生活で体調を悪化させたり、各地を転々とするうちに、治療が遅れたりしたせいである。
 
自殺の多発も際立っている
 
福島から聞こえるのは、悲鳴のようなシグナルだ。


◆フクシマを忘れない
 
政府は、低線量被ばくの問題から、目を背けてきた
 
年間の被ばく線量について、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトまで許容できる、と基準を緩め、
原発周辺自治体への早期帰還を、促そうとしている。
東電も、避難指示区域の見直しのたびに、賠償を打ち切っている。

見せ掛けの事故収束と復興を、急いでいるようにしか思えない
 
政府や東電の不条理に遭っても、町の再建がどんなに困難であっても、人々は生き抜こうとしている。
 
本土は戦後、基地の負担を押しつけられる、沖縄の苦難を忘れてしまっていた。
わたしたちは、福島からの悲鳴に耳を傾ける。
寄り添うことを忘れてはならない。


3・11から3年 死者の声に耳傾けよ
2014年3月11日

津波の国に住みながら、われわれは、先人の経験を風化させてはいなかったか。
大震災の悲しみを忘れず、未来に向けて、死者の声に耳を傾けたい。
 
故・吉村昭さんの著書「三陸海岸大津波」(文春文庫)に、印象に残る一節がある。
 
三陸海岸の羅賀(らが)(岩手県田野畑村)での出来事である。
 
はるか眼下に海を望む、丘の中腹に立つ民家。
1796年の明治三陸大津波を知る、当時85歳の古老は、家の中に漂流物があふれていた、と振り返った。


◆風化する惨事の記憶
 
その話を聞き、取材に同行していた田野畑村長が、「ここまで津波が来たとすると…」と、驚きの声をあげたというのである。
 
この本が、「海の壁」の原題で出版されたのは、1970年。
その時すでに、地元でも、惨事の記憶は風化しつつあったのだろうか。
 
文庫版のあとがきとして、吉村さんは、その羅賀で、2001年に講演した際のエピソードを書き加えている。
 
「話をしている間、奇妙な思いにとらわれた。
耳をかたむけている方々のほとんどが、この沿岸を襲った津波について、体験していないことに気づいたのである」
 
明治の大津波では、羅賀に、50メートルもある津波が押し寄せた、という話をしたところ、
沿岸市町村から集まった人々の顔に、驚きの色が浮かんだのだという。
 
羅賀の高台には、明治の大津波で、海岸から運ばれたと伝えられる巨石があった。
2011年3月11日の津波は、その「津波石」と集落を、再びのみ込んだ。
 
親も子もない。
助けを求められても、立ち止まらずに逃げろ…。
「津波てんでんこ」は、三陸の、悲しくも重要な教訓
である。
 
われわれは明治、昭和の大津波と、同じことをしてしまった」と、3年前を振り返ったのは、
名古屋市で先月開かれたシンポジウムに招かれた、岩手県釜石市の野田武則市長である。
 
大きな揺れが収まって30分ほど。
いったん避難した後、家族の安否などを心配して、自宅に戻った大勢の市民が、津波にのみ込まれてしまった。
「平時には冷酷に聞こえる『てんでんこ』だが、その教えは実に正しかった」


◆犠牲多かった市街地
 
野田市長の率直な講演は、示唆に富む。

犠牲者が多かったのは、沿岸部ではなく、海の存在を忘れがちな市街地だった
防潮堤や防波堤は高くなるほど危ない。海が見えなくなるからだ
 
守るよりも、まず、迷わず逃げよ。
平成の三陸大津波の犠牲者が残した教訓も、結局は、明治、昭和と変わらぬ「てんでんこ」だったのではないか。

国土強靱(きょうじん)化が、海の脅威を視界から遮ることにつながるとすれば、このまま突き進んで大丈夫なのだろうか。
 
よく知られるようになった、岩手県宮古市重茂姉吉(おもえあねよし)地区の、
高き住居は児孫の和楽/想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)/此処(ここ)より下に家を建てるな」と刻まれた古い石碑。
 
その地では、3年前の大津波で、住宅被害が1戸もなかった。
死者の声を風化させなかったことが、後の人々を守った好例である。
 
過去に繰り返された津波の被害や、到達地点を伝える石碑や古文書は、
紀伊半島沿岸部など、南海トラフ巨大地震の大津波が予想される地域にも、数多く残されている
 
同じように、関東、東海地方でも、1703年の元禄地震津波の犠牲者を供養する、千葉県山武(さんむ)市の「百人塚」など、
房総半島や伊豆半島に、いくつもの津波碑が建てられている
 
先人たちが、石に刻んで後世に残そうとしたメッセージを、再確認する試みが、東日本大震災を機に、各地で始まっている。
 
その土地で何が起きたのか。
将来、何が起きうるのか。
逃げるべき場所はどこか。

よそから移り住んだ人にも、一時的に立ち寄る人にも、先人の経験を共有できるようにする工夫を歓迎したい。
 
こうした津波碑は、漢文など古い文体で書かれている上、物理的に風化していたり、こけむしていたりで、判読の難しいものが多い。


◆巨大津波に備えよう
 
例えば、南海トラフ地震の津波想定域にある、三重県志摩市阿児(あご)町の「津波遺戒碑」
だれにでも分かるように、地元の自治会が、内容説明の看板を、碑の隣に設置した。
碑には、1854年の安政東海地震の津波で、141戸が流失し、11人が溺死した被害状況とともに、
後世の人が地震に遭った際は、速やかに老人、子どもを連れて高台に逃げよ」と刻まれていた。
 
人間は、忘れるからこそ前進できるという考え方もあるが、東日本大震災で、また多くの犠牲者を出してしまった事実は重い。
なぜ、命を救えなかったのか
悲しみを忘れることなく、死者の声にあらためて耳を傾けたい
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伊吹衆議院議長の脱原発への言及に不快感を出す首相周辺さん、わたしゃあんたらに不快感出まくりです!

2014年03月11日 | 日本とわたし
3年が経ちました。
3年も経ちました。
その間に、本当にいろいろなことが起こりました。
毎日、自分の心にとまったものを選んで書いてきました。

良いことはとても少なく、嬉しかったことやホッとしたことなどは、指で数えられるほどしかありません。
次から次へと、信じられないほどに愚かしい、どう考えても間違っていると思われることを、言ったりしたりする人たちを、
わたしたちはまだ、どうすることもできずに、やったとしても後手後手で、悔しい思いを何度も味わってきました。

ここに、政府が開催した、東日本大震災三周年追悼式での、天皇陛下のお言葉と、衆議院議長・伊吹文明氏の追悼の辞を、載せさせていただきます。

この天皇のお言葉を、NHKの報道では、
『さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、
多くの人々が、住み慣れた地域から離れることを、余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます』

↑上記の部分が完全にカットされていたと、ツィートでは流れていました。
本当なのでしょうか?

それはさておき、わたしは伊吹氏の、人間味のある、これまで聞いたことのないようなまともな言葉を読んで、
これまで感じることがとても少なかった、大きな喜びを感じています。
なので、ついつい、太文字で大きくさせていただきました。

そしてこの言葉に対して、不快だと言う人間が、首相周辺に居るというニュースが流れてきました。

↓以下、転載はじめ

伊吹議長が脱原発に言及 首相周辺から不快感
【共同通信】2014/03/11
伊吹文明衆院議長は11日、東京都内で開かれた政府主催の東日本大震災3周年追悼式の式辞で、エネルギー政策に関し、
将来の脱原発を見据えて議論を尽くしたい」と述べた。
議長就任に伴い、自民党会派を離脱しているが、
「脱原発は無責任」(安倍晋三首相)との党の主張と、一線を画した形だ。
首相周辺から不快感が出ており、波紋を広げそうだ。

伊吹氏は、東京電力福島第1原発事故を受け、長期の避難生活を余儀なくされている現状に触れた上で、
電力を無尽蔵に使えるとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、省エネルギーの暮らしにかじを切らねばならない」と強調し、脱原発に言及した。

転載おわり

いやもう、こんな真っ当な意見に不快感を出すあんたらに、不快感が出まくりですわっ!!


天皇陛下のお言葉(全文)

本日、東日本大震災から3周年を迎え、ここに一同と共に、震災によって失われた人々とその遺族に対し、改めて深く哀悼の意を表します。

3年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は、2万人を超す死者、行方不明者を生じました。
今なお多くの被災者が、被災地で、また、避難先で、困難な暮らしを続けています。
さらにこの震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、
多くの人々が、住み慣れた地域から離れることを、余儀なくされています。
いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます。


この3年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、
幾多の困難を乗り越え、復興に向けて、懸命に努力を続けてきました。
また、国内外の人々が、こうした努力を支援するため、引き続き様々な形で尽力していることを、心強く思っています。

被災した人々の上には、今も、様々な苦労があることと察しています。
この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、
長きにわたって、国民皆が、心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。
そして、この大震災の記憶を決して忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、
安全な国土を築くことを目指して、進んでいくこと
を期待しています。

被災地に、一日も早く、安らかな日々の戻ることを、一同と共に願い、
御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


伊吹文明衆議院議長(追悼の辞)

天皇・皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災三周年の追悼式が行なわれるにあたり、謹んで追悼の言葉を申し述べます。

3年前のきょう、東日本を襲った大地震と津波により、東日本の国土は破壊され、多くの尊い命が失われました。
犠牲となられた方々と、ご遺族のみなさまに、改めてお悔やみを申し上げます。

そして被災された方々、また、福島での原子力発電所の事故により、避難を余儀なくされた方々のお気持ちを思うとき、
月並みなお見舞いの言葉を申し上げることすら憚られるのが、率直な心境
です。

多くの関係者のご努力により、復興に向けた歩みは、着実に進んでいます。
震災後、被災地の惨状に心を痛めた方々が、被災地を支援するボランティア活動に参加して下さり、
多くの、今日お見えの諸外国からの温かいご支援を頂いたことは、物心両面で、復興の大きな助けとなりました。
ご支援いただいた皆様に対し、深く感謝申し上げたいと存じます。

一方で、震災から3年が経過し、被災地以外では、大震災以前とほぼ変わらぬ日々の暮らしが営まれております。
しかし、被災地では、仮設住宅等で、ご不自由な生活を余儀なくされている方々もなお多く、
震災前の生活を取り戻すことは、容易ではありません。
特に、原子力発電所事故のあった福島県では、住み慣れたふるさとに戻ることができず、
今なお、放射性物質による汚染に苦しんでいる方々が、多くおられる現状を、私たちは忘れるべきではないでしょう。

そういった方々の事を思うと、電力を湯水の如く使い、物質的に快適な生活を、当然のように送っていた我々一人一人の責任を、
全て、福島の被災者の方々に負わせてしまったのではないかという気持ちだけは、持ち続けなりません。


思えば、私たちの祖先は、自然の恵みである太陽と水のおかげで、作物を育て、命をつないできました。
それゆえ、自分たちではどうすることもできない、自然への畏敬と、感謝という、謙虚さが受け継がれてきたのが、日本人の心根、文化の根底にあったはず
です。

科学技術の進歩により、私たちの暮らしは、確かに豊かになりましたが、
他方で、人間が自然を支配できるという、驕りが生じたのではないでしょうか。
そのことが、核兵器による悲劇を生み、福島の原発事故を生んだのだと思います。


3年目の『3.11』を迎えるに際し、私たち一人一人が、電力は無尽蔵に使えるものとの前提に立ったライフスタイルを見直し、反省し、
日本人として、言行一致の姿勢で、省エネルギーと省電力の暮らしに、舵を切らねばなりません。

主権者たる国民より、選挙を通じて主権を委ねられている我々国会議員は、被災地の復興に全力で取り組むとともに、
震災で得た教訓を元に、エネルギー政策の在り方について、現実社会を混乱させることなく、
将来の脱原発を見据えて、議論を尽くしてまいりたい
と存じます。

結びに、震災で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りし、追悼の言葉と致します。

平成26年3月11日 衆議院議長 伊吹文明
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