「大琉球写真絵巻」を引っさげて、沖縄人の写真家真生さんがマンハッタンにやって来た。
沖縄人の抵抗を撮る 「大琉球写真絵巻」で歴史描く 石川真生さん(写真家)
【東京新聞】2017年3月4日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2017030402000240.html
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石川真生(まお)さん(63)は、全身で沖縄にぶつかってきた写真家だ。
米軍統治下の沖縄で生まれ育ち、本土復帰の翌々年に写真家になった。
以来43年。
ずっと、沖縄で生きる人たちにこだわってきた。
2月下旬、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前。
新基地建設に反対して座り込む、一人の女性を撮影していた。
琉球王国時代から沖縄の歴史を描く「大琉球写真絵巻」を、4年前に始めた。
薩摩藩の琉球侵攻、沖縄戦から、辺野古の埋め立てまで、あらゆる場面を創作写真で表現する。
ストレートな怒りもあれば、風刺の効いたユーモアもあるのが、らしさだ。
「安倍政権になってから、いろんなことが動きだした。
なぜこうなったか、歴史をさかのぼろうと思った。
沖縄人の私が人生体験を総動員した、私の沖縄だよ。
安倍政権と米軍に対する、私なりの抵抗さ」
撮影のモデルとなった、読谷村(よみたんそん)の保育士城間(しろま)真弓さん(38)に、石川さんのことを尋ねると、
「ウチナーンチュ(沖縄の人)でしか撮れない、沖縄の魂を写してくれる人」と教えてくれた。
1971年秋。
米軍基地存続を認めた沖縄返還協定に反対した、10万人デモがあった。
輪の中にいた高校3年の石川さんは、過激派が投げた火炎瓶で、機動隊員が亡くなるのを目撃する。
「どうして沖縄人同士が殺し合うのか」
泣きながら、「沖縄が燃えている」と思った。
そして、「この沖縄を表現したい」と決意した。
1974年、20歳の春、東京で、故東松照明(とうまつしょうめい)さんの教える、写真教室に入った。
まずは米兵を撮ろう。
沖縄に戻った後、向かったのは、コザ市(現沖縄市)や金武町(きんちょう)の外国人バーだった。
22歳から約2年、黒人専用の店で働き、いつしか客と恋に落ちながら、同僚の女性たちを、米兵を、撮った。
デビュー写真集『熱き日々inキャンプハンセン!!』(比嘉豊光さんとの共著)には、内側から見つめたからこそ撮れた、若者たちの当たり前の青春がある。
「ミイラ取りがミイラになる直前の、危うさの中で見た人間の、裸形が投げ出されている」。
東松さんは、豊かな人間描写に驚いた。
ところが、事件が起こる。
東京のマスコミが、「米兵に体を売る女たち」と、スキャンダルに仕立てた。
偏見だ。
だが、被写体となった一部の女性から抗議があり、「友人を傷つけた」と、石川さんは自分を責めた。
全てのネガを手放し、写真集自体を封印した。
2011年の大みそかだった。
大掃除の最中、亡き父がこっそり保管していた大量のプリントが、自宅で見つかった。
「人も歩けば知人にぶち当たるような狭い島で、自由に青春を謳歌(おうか)する彼女たちを、私は大好きだった」という石川さんは、写真を封印した後も、
「なぜ隠さなければいけないのか。黒人だからか。バーの女だからか」と自問していた。
もう存在しないと思っていたプリントの発見を機に、2013年、横浜市内の個展で、約30年ぶりに発表した。
「仲良くならないと、良い写真は撮れないさ」という石川さんは、こんなふうに相手の懐に飛び込み、時間をかけてシャッターを切ってきた。
基地に反対の人だけでなく、賛成の人も撮る。
米兵も自衛官も。
作品からは、安易な固定観念を嫌い、自分の目で事実を見きわめようとする誠実さを感じる。
「相手と話すと相手のことが分かって、どんどん仲良くなる。
その過程が私は好きさ。
お互いに影響し合う。
お互いに刺激し合う。
それが人に会うってこと。
その結果、写真になる。
だから写真も楽しいのさ」。
二度のがんを乗り越え、ほとんど休まず撮り続けてきた。
その石川さんの肋骨(ろっこつ)に、この2月、新たながんが見つかった。
ステージ4。
昨年から胸に痛みがあった。
特に、大きな一眼レフは負担のはずだ。
だが、「カメラを構える時が一番幸せ。この瞬間は痛みが消える」と、いつもの笑顔を見せるのだ。
「大琉球写真絵巻」は、毎年展覧会を開いてきた。
「撮りながら、沖縄の歴史を学んで、沖縄は小さな島だけど、沖縄人はずっと抵抗し続けてきたと知った。
今年も、秋には展示をやる。
来年も再来年も、撮りたいものはたくさんある」。
石川さんの写真を見れば、沖縄は今も燃えているのが分かる。
信じて待ちたい。
(森本智之)
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マンハッタン行きの電車のプラットホームが使えないからと、反対側のプラットホームで待たされる。
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ギリギリで間に合った。
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年の離れた姉妹のような、叔母さんのてい子さん(通訳係)と姪っ子の真生さん。
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この会の紹介文を、もう一度ここに。
沖縄を代表する写真家、石川真生。
1970年代半ば、自らバーガールとして働きながら、基地に近い黒人バーで働く女たちと、時にそのボーイフレンドにもなったGIたちを、生々しく捉えたデビュー作『熱き日々in キャンプハンセン!!』に始まり、
琉球國時代から現在にいたるまでの沖縄の歴史上の場面を、お芝居風に再現し、沖縄が置かれている現状への怒りを、風刺とユーモアたっぷりに表現した、現在進行中のプロジェクト『大琉球写真絵巻』にいたるまで、
被写体やスタイルは変わっても、沖縄が抱える現実に臆することなく真正面から迫り、インパクトあふれる作品にして、発表ごとに話題を呼び、幅広いファンをもつ写真家です。
また、独特の語り口をもつ卓抜なエッセイストであり、鋭い洞察力をもちながら、深い人間愛に満ち、ユーモアあふれるキャラクターで、トークの魅力も満点。
『熱き日々in キャンプハンセン!!』と『大琉球写真絵巻』を見せながら、沖縄を存分に語るこのトーク・イベントには、
アメリカ生活が長く、沖縄県民間大使も務めている、叔母のてい子与那覇トゥーシーもジョイントで登場。
沖縄タイムス紙通信員でもある、これまたパワフルでソウルフルなお人柄。
沖縄の熱い風が吹き荒れそうです。
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ということで、はい、沖縄の熱い風、吹き荒れました!
ほんでもって大いに笑い、涙しました!
この『大琉球写真絵巻』の一枚一枚に込められた、真生さんの気持ち、それは怒りであったり愛であったり悲しみであったり。
彼女は開口一番、こう言ったのです。
「2013年に安倍が復活して、辺野古の新基地建設が再開され、オスプレイが普天間に配備された。
安倍政権と米軍に対する怒りが、この『大琉球写真絵巻』に取り組んだ一番の理由」
辺野古や普天間に関するドキュメントは、世の中にいっぱいある。
だから私は、昔に戻って、歴史を振り返ってみようと思った。
歴史の中にうごめく思想や信条、そういうものを見つめ直して、沖縄を伝えようと思った。
琉球王宮の歴史を、写真で絵巻のように伝えようと思った。
真生さんの言葉を一所懸命に訳して伝えようとする、叔母さんのてい子さん。
そのてい子さんに、「ちゃんと言った?ほんとに?」と、容赦なく問い詰める真生さん。
仲が良い叔母と姪ならではのスピーチに魅了されながら、わたしはまた新たに、沖縄の歴史を学ばせてもらいました。
まず今回のこの写真絵巻のモデルとなった方々は皆、ノーギャラ、衣装は持参、場所の設定や選択を任せられ、名前の公表も良しとする、という条件のもと、引き受けられたそうです。
それもこれも、私の人柄の良さと天才さゆえのことと、胸を張って言い切る真生さん。
それをしっかり英訳するてい子さん。
いいなあ、こういうの。
ではこれから、写真無しの(?)写真の紹介をさせてもらいます。
文章だけでどこまでできるか、わたしの文章や頂いた資料からの抜粋文を元に、想像しながら見ていっていただければと思います。
そしてぜひ、真生さんを応援してください。
『石川真生 大琉球写真絵巻プロジェクト』
写真撮影、プリント制作、展示会場代、その他諸々にとてもお金がかかります。
石川真生を応援しようという方は、ぜひ以下の口座に振込みお願いします。
ただし、お返しに何かプレゼントをする、という事は何もありません。
それでもよろしければ、振込みお願いします。
口座に書かれたカタカナ名だけを公表します。
金額は、展示会終了後に、合計金額を発表します。
パート4の展示会は、今年9月、10月頃を目標にしています。
只今、撮影真っ最中!
振込口座
沖縄銀行 豊見城(とみしろ)支店(店番 207)
普通 1130807
名義 石川真生(イシカワ マオ)
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【大琉球写真絵巻:パート1】
■ 写真絵巻の最初の写真は、平和で穏やかな暮らしが営まれていた、薩摩侵攻(1609年)以前の琉球国時代の一場面です。
『ウミンチュ(漁師)が、魚をいっぱい釣ってきた。(琉球國時代』
漁師の一家に扮した本当の親子3人が、浜辺を横切っています。
父親は、釣った大きな魚を肩に背負い、後ろを歩く母親は、バナナの皮で包んだ魚がいっぱい入ったカゴを頭に乗っけて運んでいます。
その母親の横では、ちっちゃな子どもが波打ち際を歩いていて、なんとも言えないほどに美しい海を背景に、自然の恵みに守られた一家の幸せが、しみじみと伝わってくる作品です。
でも、現実には、この写真の端っこには、辺野古の新基地建設のために設置された、醜いフェンスが張り巡らされていて、真生さんは当初、このフェンスも入れて撮ろうと思ったのだそうです。
けれども、このような権力の暴力支配とは縁の無かった琉球時代の沖縄を、たった一枚の、しかも最初の作品として描こうと思い直し、フェンスを入れずに撮ったのでした。
「母親が頭に掲げているカゴは、やんばるのおじいから借りてきた。
カゴの中には、バナナの皮で包んだ本物の魚をいっぱい入れた。
オールは劇団から借りてきた。
撮影の後、魚は全部夫婦にあげた」と真生さん。
■ 2枚目の写真には、浜辺で刀を構える4人の武士の姿が。
『1609年3月、徳川幕府から『琉球征討』を許された薩摩藩が、3000人の軍勢で琉球に侵略した。
薩摩藩は、奄美群島を次々に制服し、4月には首里城を占拠した。
琉球は降伏し、薩摩藩は幕府から、琉球の支配権を承認され、奄美群島を割譲させ、直轄地とした。
琉球國は、薩摩の支配を受ける一方で、中国との冊封(王の承認)・進貢(中国皇帝に貢ぎ物を捧げる)を続けていた』
この写真には、薩摩藩の武士役が2名、琉球國の武士が2名、計4名の武士が刀を構えています。
でも実際には、沖縄の武士は人を切る必要など無かったために、普段はずっと刀の代わりに扇子を挿していたそうです。
だから、刀を振り回す薩摩の武士には敵うわけもなく、あっという間に制服されてしまったのです。
さて、この武士たちの背後の左端から中央にかけて、辺野古のフェンスがくっきりと写っています。
なぜか?
薩摩藩による支配が始まったこの時から、沖縄はずっと何者かに支配されてきたこと、そして今も米軍によって支配され続けていることを、この写真から伝えたかったのだそうです。
細かいことに、薩摩の武士のちょんまげと琉球国のちょんまげは、形が全く違います。
■ 3枚目の写真は、『琉球処分』の様子です。
明治政府の使いが、左端に直立し、天皇からの命令文を読んでいます。
その横にずらりと並んで座る、4人の琉球國の大臣たちは、一番右端の人を除いて、苦々しい顔でそっぽを向いています。
『1879年3月27日、明治政府の処分官・松田道之が、軍隊や警察など600人を率いて琉球へ。
首里城で、「琉球藩を廃止、沖縄県とする」と不達。
500年に及ぶ琉球國は崩壊し、日本に併合、沖縄県となる。
国王の尚泰は、東京在住を命じられた』
ということで、この写真には、顔が濃いタイプで、しかも演技ができる人が選ばれました。
右端に座った人が着ている衣装のサイズが合わず、座ると膝が割れるので、どうしても下着が見えてしまうので、扇子で隠しています。
琉球藩になった(力づくでならされた)琉球國ですが、国内的には薩摩藩だったそうです。
鎖国の時代だったので、貿易では琉球藩を名乗っていました。
薩摩藩は、琉球藩から物品を安く仕入れ、それらを金を持っているよその藩に売っていました。
■ 4枚目の写真は、民家の屋根に落下したオスプレイ。
普天間基地近辺の写真を撮り歩いていた真生さんに、声をかけてきた女性がいました。
「普天間基地なら、うちの家の屋根の上からよく見えるから、そこから撮らない?」
『「落ちる、危険だ」と言われるオスプレイを、米軍普天間飛行場のフェンスに隣接する、民家の屋根に落としてみた。
パイロット役は、演劇集団FECで「お笑い米軍基地」の脚本を担当する小波津正光(こはつまさみつ)さん。
基地の中にオスプレイの格納庫が見える』
この方の家が、まるで基地の中にあるようにも見えるほどの近さです。
騒音の酷さを思うと、言葉がありません。
この劇団は若い人たちにとても人気があるそうです。
自分の家の屋根に、いきなりオスプレイが落ちてきたという設定で、オスプレイのハリボテを持って構えているパイロット役の小波津さんを見て、笑いこそすれ全く驚いた様子ではないおばさん。
真生さんはとうとう諦めて、何十枚もの写真の中から、とりあえず一番笑っていなさそうに見える写真を選んだのだそうです。
■ 5枚目の写真は、記者会見する自民党の石破幹事長(当時)と、5人の沖縄の国会議員たち。
『2013年11月、自民党本部。
「米軍普天間飛行場は県外へ」と公約して当選した、沖縄の国会議員5人を従え、辺野古移設で(5人と)合意したと記者会見する石破茂幹事長』
この写真の中の石破氏役の人は、石破氏のマスクを被っています。
そして、国会議員の5人の中の、ただ一人の女性島尻氏も、彼女の顔マスクを被った人が演技をしています。
石破氏の顔マスクは、アマゾンで2000円ちょっとで売っているのだそうです。
島尻氏の顔マスクは買えなかったので、友人が作ってくれたのだそうですが、とてもよくできていると思いました。
【大琉球写真絵巻:パート2】
■ 1枚目の写真は、中学生二人に、「あなたは何人ですか?」と聞いている場面です。
『「あなたは何人ですか?」
1. 日本人 2. アメリカ人 3. 中国人 4. 沖縄人
米軍統治下時代の1950〜1960年代に、全琉球のあちこちの小中学校で、アンケート調査が行われた。
先生たちは生徒たちに、
「あなたたちの祖国は日本ですよ。
日本に帰ったら、平和憲法の下、人権も守られるし、米軍の支配からも解放されます。
日本人だという自覚を持ちましょう」と、盛んに日本人教育をしていた。
それでも『4. 沖縄人』に○をつける生徒が多かったという』
この写真に写っている中学生たちは本当の姉妹で、真生さんが、彼女たちにこの質問をしたところ、一人は日本人、一人は沖縄人と答えたそうです。
■ 2枚目の写真は、1970年12月20日の未明に起こった暴動シーン。
『1970年12月20日未明、ゴザ市(現沖縄市)の胡屋付十字路付近(空港のすぐ近く)で、米兵による交通事故が発生。
糸満市で主婦を轢殺した米兵が、軍事裁判で無罪判決が出た直後とあって、事故処理を行っているMP(憲兵)を群衆が取り囲み、
「糸満の二の舞を繰り返すな!」と騒ぎ出した。
MP隊が威嚇発砲したため、米軍統治下で続く人権抑圧に怒る市民感情が一気に爆発し、駐車中のMP車両、および外人車両を横転させ、次々と放火した。
その数82台。
米軍は、カービン銃で武装したMP、約300人を出動させたが、約5000人の群衆と睨み合うなど、騒ぎは朝まで続いた』
真生さんは言います。
1945年の大戦が終わり、沖縄の人々は収容所に押し込められた。
長くて2年の収容後、自分たちが暮らしていた場所に戻ったら、土地はすっかり撤収されてしまっていて、基地に変わっていた。
沖縄の地上戦では、4人に一人の沖縄市民が殺された。
薩摩藩による支配、米軍による支配、沖縄は延々と、支配統治され続けてきた。
その怒りが爆発したこの暴動は、今までとは違い、非常に暴力的なものだった。
私はこの暴動を高く評価している、と。
ライフルは、野鳥ハンターの友人から借りたのだそうです。
■ 3枚目の写真は、2014年の11月に、沖縄県知事に翁長雄志氏が当選した時のものです。
『2014年11月、沖縄県知事に、翁長雄志さんが当選。
喜ぶ稲嶺進名護市長と翁長知事。
負けて悔しがる仲井真弘多知事を、「辺野古の埋め立てを承認しただけで、あなたは立派に役割を果たしましたよ」と慰める安倍晋三首相』
みんなそれぞれ顔マスクを付けていますが、アマゾンから購入できたのは安倍氏のものだけだったのだそうです。
他は友人作。やはりとてもよく似ています。
■ 4枚目の写真は、同じく2014年の12月、翁長知事と共に、米軍基地の新設反対と撤去を訴えた4人の衆議院議員候補全員が当選した時のもの。
『2014年12月、翁長雄志知事と共に、「米軍の新基地建設反対!普天間飛行場は県外へ!」と訴え、『オール沖縄』の4人の衆議院議員候補全員が当選。
糸数慶子参議院議員と共に「ばんざーい!」。
対する「辺野古へ移設すべき」と訴えた自民党の候補者4人全員が落選。
だが、すぐに比例区で全員が当選。
ゾンビが復活した』
万歳をしている6人の議員のうち、糸数議員だけが本人。
トレードマークの赤いスーツを着てもらったのだそうです。
■ 5枚目の写真は、米兵との結婚で生まれた人を、ごく一般的な沖縄の住居で撮りたかったという作品。
『親富祖愛(おやふそあい)さんは、アメリカの黒人兵と沖縄人の母親の間に生まれた。
夫の大輔さんと共に、本部町営市場で、オリジナル洋品店を営んでいる。
愛さんは、3人目の子どもを妊娠中。
家族全員で、辺野古の新基地建設反対運動の現場へも出かけて行く』
■ 6枚目の写真は、蝶の撮影に夢中な宮城秋乃さんの横で、オスプレイのハリボテをまとったパイロットが立っている場面。
宮城さんは、長年に渡り、森の生き物を観察し、記録している女性で、週に5日、昆虫の生態を研究している方です。
『東村高江の森の中、チョウの撮影に夢中な宮城秋乃さん。
頭上をオスプレイが飛んでいる。
森の生き物をずっと観察し、記録している秋乃さんは、オスプレイを含む米軍機の飛行や、ヘリパッド建設に反対だ。
「今でも、建設のために、木々をいっぱい伐採しているので、多くの虫たちが死んでいるのよ」』
■ 7枚目の写真は、辺野古の新基地建設反対の抗議活動をしている人たちに対する、海上保安官による暴力を、島尻議員と安倍首相に受けさせるという皮肉表現です。
『米軍の新基地建設に向け、工事中の海で、抗議船に乗っていた女性が、乗り込んで来た海上保安官に、馬乗りにされる暴行を受けた。
後日、船長の北上田毅さんが、海保に指をひねられる暴行を受けた。
その時の船で、北上田さんが見守る中、海保に馬乗りにされる島尻安伊子参議院議員と、首根っこをつかまれた安倍首相。
暴力団・海保に、二人がやられてみるがいい』
指をねじられた船長の北上田さんは、京都から夫婦で沖縄に移住してきました。
指をねじられ、怪我をしたので訴えましたが、受け取ってもらえなかったそうです。
その船長の船の上で、まさに酷いことばかりをする海保の暴力を、安倍首相と島尻議員に経験させるという、真生さんの皮肉です。
■ 8枚目の写真は、ジュゴンのエサ場でもある美しい沖縄の海に沈められている巨大なコンクリートブロックの下敷きになる安倍首相の姿。
『国際的保護動物、ジュゴンのえさ場でもあるきれいな海に、日本政府は、米軍のために、新たな飛行場を、名護市のキャンプ・シュワブ沖に建設するという。
沖縄県知事や名護市長を始め、県民の反対する声を一切無視し、海を埋め立てるための工事が今、連日強行されている。
2トンから45トンの大きなコンクリートブロックを海中に沈めて、珊瑚を破壊しまくっている。
ならば安倍首相よ、お前が珊瑚の代わりにブロックでつぶされてみるがいい。
沖縄人と海の生き物の苦しみを、味わうがいい』
このコンクリートブロックの45トン級のものは、大型トラック2台分の砂利と同じで、建設予定地のボーダーの浮きを止める重りです。
真生さんは当初、安倍首相とオバマ元大統領の二人を、このブロックで潰そうと思ったのだそうです。
でも考えを変え、10人の安倍首相にして、大学生5人、社会人5人に、それぞれ顔マスクをかぶって下敷きになってもらいました。
学生の一人がハイヒールを履いてきて、どうしよう…と思ったのですが、ええい、そのまま履かせて見せてしまえと思ったのだそうです。
この写真は、糸満の海で撮影されました。
安倍首相を押しつぶしている巨大ブロックのハリボテは、高江の人たちが作ってくださったそうです。
【大琉球写真絵巻:パート3】
■ 1枚目の写真は、1945年の沖縄戦での恐怖と苦しみ、そして悲しみが描かれたもの。
『1945年6月、沖縄戦。
アメリカ軍に追われ、糸満の摩文仁(まぶに)の海岸まで逃げてきた。
途中、一緒だった肉親を次々に殺され、母親と夢中で、死体の上を走って逃げた。
精神科医、蟻塚亮二(ありずかりょうじ)さんは言う。
「若い頃は、必死で仕事や子育てをやってきた。
高齢になり、生活にゆとりが出てきた頃から、戦争の記憶がよみがえってきた。
お母さんと一緒に、死体の上を走って逃げた。
その死体を踏んだときの感覚が蘇ってきて、足が痛いのは、死体の上を歩いたからだと、自分を責めた女性もいる。
戦争が終わって71年。
戦争トラウマ(心的外傷)に苦しんでいる高齢者が、沖縄は他県に比べて多い。
戦争の犠牲者ですよ。
個人の原因ではなく、戦争によるものだっていうことがわかると、救われる人がもっと増えると思う」』
この写真の中で、死体役の方々の横で走っているのは、中村さん親子。
老人施設で働いている中村さんは、入所されている老人たちから、様々な悲惨な話を聞いていたので、演技に気持ちが入ると言っておられたのだそうです。
その横で、頭を掻きむしるようにして泣き叫んでいるのは、元英語教師の女性で、
撮影の際に、最も悲しかったことを思い出して欲しいとお願いすると、次男が水死した時のことを思い出して演技してくださったのだそうです。
■ 2枚目の写真は、キャンプ・シュワブゲート前で抗議活動をする人たちが、機動隊員の暴力を受けている場面。
『名護市の米軍基地、キャンプ・シュワブゲート前で、工事運搬車両を阻止しようとスクラムを組む人々を、機動隊が暴力的に排除している。
参加者は高齢者が多い。
肋骨を折られた人が何人もいる。
元高校教師の宜野座映子さん(左、69歳)は、ボコボコにやられながらも毎日参加していた。
現在は、家族の病のために参加を控えているが、
「何かあったらすぐゲートに駆けつけられるよう、毎日4時半に起きる習慣は続けているのよ」と意気盛んだ』
■ 3枚目の写真は、アメリカの『ベテランズ・フォー・ピース』のメンバーが、辺野古の浜でアピールしている場面。
『アメリカの「ベテランズ・フォー・ピース(平和を求める元軍人の会)」のメンバーが、2015年12月、名護市、キャンプ・シュワブゲート前の座り込み闘争の視察、応援にやって来た。
ベテランズの「新たな戦争につながる基地は造らせない」「米兵よ、アメリカへ帰ろう」という呼びかけがある。
沖縄に駐留経験のある3人、78歳のKenさん、39歳のMikeさん、31歳のWillさんが、辺野古の浜でパフォーマンス』
この写真は、彼らが日本を出る前日に、辺野古の浜で撮影されたものです。
時代は違うけれども、沖縄に駐留していた経験がある3人が、「米兵よ、アメリカへ帰ろう」と訴える意味の深さを、しみじみと考えました。
■ 4枚目の写真は、ゆうパックに『普天間飛行場』を詰め込んで、米国元大統領のオバマ氏に、持って帰りなさい!と突っ返す宜野湾市民の姿です。
『ゆうパックに、米軍の『普天間基地』を入れて、アメリカのオバマ大統領に、「アメリカに持って帰りなさい!」と突っ返す、宜野湾市民の喜友名さん一家。
30代半ばの夫妻は、2人の子育て真っ最中だ。
子どものためにも、住宅密集地のど真ん中にあって、世界一危険な飛行場が、一日も早く無条件撤去されることを望んでいる。
「同じ沖縄県内の名護市に、たらい回しするなんてとんでもない!」』
■ 5枚目の写真は、米兵や軍属による強姦被害者を表したもの。
『「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」制作の、1945年4月〜2016年5月までの「沖縄・米兵による女性たちへの性犯罪」の年表を前に、共同代表の高里鈴代さん(左)と糸数慶子さん。
「米兵や軍属による強姦被害者の数は、復帰前は記録が無い。
復帰後は129人となっているが、他の犯罪と違って親告罪なので、全てを明らかにしたらそんな数ではない。
被害者は決して悪くない。
ナイフで脅され、時にはめった切りにされる、殺される。
それなのに、被害者も悪いと世間が叩く。
裁判になったら、全てが明らかになると恐れて訴えない。
本当に沈黙させられている。
そんな社会を変えないといけない。
沈黙は実質的に、次の被害者を生み出すことにつながっている。
被害届を出す人を、きちんと支える体制を作らないといけない。
米軍犯罪で最も被害者が多い強姦が、最も小さく見積もられて発表されることによって、71年という長期にわたり、米軍は沖縄に駐留し続けることができている。
日米両政府が、地位協定改正なんて必要がない、という態度を取ることにもつながっている』
真生さんの言葉
「戦争中は、日本もひどいことをした。ほかの戦争を仕掛けた国々も、それぞれひどいことをした。
でも、沖縄では、それが今も続いているんです。
強姦された最年少は、生後9ヶ月の赤ん坊なんです」
■ 6枚目の写真は、昨年の5月に、軍属に殺された20歳の女性の両親が、遺体遺棄現場で泣き叫んでいる場面。
『2016年5月、「元米海兵隊員の米軍属による、20歳の女性暴行殺人事件」のニュースが飛び込んできた。
なんてことを!
激しい衝撃を受けた。
大泣きした。
愛する我が子を、無惨に殺された親の無念が、怒りが、真っ直ぐに私の体の中に入ってきた。
この事件は、世間に大きな衝撃を与えた。
犯人は捕まったが、8月19日現在、まだ裁判は開かれていない。
人里離れた山の遺棄現場には、今でも毎日、献花に訪れる人が後を絶たない。
二度とこういう事件があってはならない。
今、沖縄で生きている私たちが止めないと、誰も止める者はいない。
それを肝に銘じたい。
(私の思いを込めて、米軍基地のフェンスのすぐそばを、遺棄現場に見立てて、友人に演じてもらった)』
「いくら作り物でも、一人娘の遺体を、嘆き悲しむ両親の横に置くわけにはいかない」
同じく、一人娘の母親である真生さんは、苦しそうにそう言いました。
殺された女性が遺体となって発見されたのは、恩納村安富祖にある雑木林。
米軍のセントラルトレーニングエリアの一画でした。
遺体は腐敗が進み、すでに白骨化していたそうです。
遺体をトランクの中に入れ、基地の一角に捨てる。
そうすることで、日本の捜査が難航することを知っての上の行動だったと思います。
「治外法権」という不条理な取り決めのために、今回の事件も県民に知らされないまま、闇に葬られかねない危険性がありました。
米軍関係者を保護する日米地位協定が、常に立ちはだかっているからです。
この地位協定によって、米国軍人・軍属が事件や事故を起こしても、被疑者が公務中の場合、捜査権と第1次裁判権は、米軍側にあることから、
県警が仮に、犯人の米軍人を逮捕しても、公務中の事故だったとされれば、検察官は不起訴にせざるを得ないのです。
今回の死体遺棄事件の場合、容疑者は公務外でしたし、住居も基地の外だったので、起訴前でも、米国側が身柄を確保することができず、日本主導の捜査が可能になりました。
でも、本当に理不尽な構造だと思います。
こんなことを、いつまでも続けさせていてはいけないと、強く思います。
■ 最後の写真は、元米海兵隊員で軍属の男による、20歳の女性暴行殺人事件に抗議するメッセージを掲げる、被害者のご両親の姿です。
『元米海兵隊員の米軍属による、20歳の女性暴行殺人事件に抗議する、県民大会に届いたメッセージ。
「ご来場の皆さまへ。
米軍人・軍属による事件、事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。
なぜ娘なのか、なぜ殺されなければならなかったのか。
今まで被害に遭った遺族の思いも、同じだと思います。
被害者の無念は、計り知れない悲しみ、苦しみ、怒りとなっていくのです。
それでも、遺族は、安らかに成仏してくれることだけを願っているのです。
次の被害者を出さないためにも、『全基地撤去』『辺野古新基地建設に反対』。
県民が一つになれば、可能だと思っています。
県民、名護市民として、強く願っています。
ご来場の皆さまには、心より感謝申し上げます。
平成28年6月19日、娘の父より」』
そしてここから、【大琉球写真絵巻:パート4】に続いていくのですが、真生さんは本当は、即刻入院をしなければならない状態なのです。
でも、この写真絵巻を完成させてからでないと入院できないと、痛みを堪え、次々に襲ってくる困難と闘いながら、作業を続けています。
真生さんは、その名の通り、真に生きる人です。
自身を深く愛し、しっかりと見つめることができる人です。
だからこそ、あの、なんとも言えない優しさが、つっけんどんな口調から滲み出てくるのだと思います。
そしてまた、人を愛し、受け入れられるんだと思います。
だから人から愛され、受け入れられるんだと思います。
ステージ4という厳しい状況の癌に加え、二度の癌治療で腸を全摘した真生さんは、一言で言えば満身創痍の状態です。
でも、そんなことは忘れたとばかりに、そこが私の天才たる所以、というセリフをあちこちに散りばめながら、
わたしたちに『真生さんの目と心が見た沖縄』を、たっぷりと見せてくれた真生さん。
「安倍政権になってから、いろんなことが動きだした。
なぜこうなったか、歴史をさかのぼろうと思った。
沖縄人の私が人生体験を総動員した、私の沖縄だよ。
安倍政権と米軍に対する、私なりの抵抗さ」
真生さん、来年も、再来年も、そのまた再来年も、撮りたいものをいっぱい、真生さんが撮りたいだけ撮ってください。
「ウチナーンチュ(沖縄の人)でしか撮れない、沖縄の魂を写してくれる人」
わたしもそう思います、心から。
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一番左端が、若かりし頃の真生さん。
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真生さんのお話が終わり、次にてい子さんが、武の舞を披露してくださいました。
武の舞とは:
1. 「シンカヌチャー」 (諸君よ):
歌は、特に若者たちへ、遠くへ旅発ち《寛大な世界観を抱け》と勇気づける内容です。
2. 扇の型踊り「不死鳥の羽ばたき」:
408年前、1609年に、琉球は日本に侵略され, 現在も統制されています。
島独特の芸能文化, 特に空手の修業、刀などの武器を身に付ける事などが禁止されました。
しかし,、武道者は、森や墓地に隠れて修業を続けました。
美しい扇は、剣、鎌、楷、ヌンチャク等の、古武道の見せかけのシンボルです。
破滅しても復帰する不死鳥の様に、琉球・ウチナーの不屈な魂を、「龍と不死鳥」の舞で表現されます。
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てい子さん(てい子与那覇・トゥーシー):
沖縄生まれ。
第二次世界大戦体験者。
沖縄在モーニングスター英字新聞者勤務。
1964年、国際結婚で渡米。
1968年に、ベトナムから帰還してきた直後の夫が、枯葉剤の影響で毎年入院し、1978年に死去。
当時、3人の子どもたちは、11、13、14歳、てい子は37歳。
その後、母子4人で空手道場へ入門。
同じ頃、琉球音楽に合わせた空手踊り『武の舞』の振り付けと演舞を始め、武道とともに現在も続ける。
2004年まで、ニュージャージー州精神保健福祉センターで、精神疾患の児童・青少年対象のケース・マネジャーなどとして、25年間、福祉員を務める。
元ニューヨーク沖縄県人会会長。2006年以来、沖縄県の任命による、民間大使。
1992年から、沖縄タイムス社の海外通信員。
現在、同時にエッセイ「てい子トゥーシーのユンタクハンタク」を連載中。
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講演が終わり、歩美ちゃん、のんちゃん、金魚さん、ジャーン、そしてわたしが、真生さんにさよならを言いに行きました。
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ピンボケになったけど、真生さんの、それはそれはあったかな笑顔に、心がぐらりと揺れました。
沖縄人の抵抗を撮る 「大琉球写真絵巻」で歴史描く 石川真生さん(写真家)
【東京新聞】2017年3月4日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/culture/doyou/CK2017030402000240.html
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石川真生(まお)さん(63)は、全身で沖縄にぶつかってきた写真家だ。
米軍統治下の沖縄で生まれ育ち、本土復帰の翌々年に写真家になった。
以来43年。
ずっと、沖縄で生きる人たちにこだわってきた。
2月下旬、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前。
新基地建設に反対して座り込む、一人の女性を撮影していた。
琉球王国時代から沖縄の歴史を描く「大琉球写真絵巻」を、4年前に始めた。
薩摩藩の琉球侵攻、沖縄戦から、辺野古の埋め立てまで、あらゆる場面を創作写真で表現する。
ストレートな怒りもあれば、風刺の効いたユーモアもあるのが、らしさだ。
「安倍政権になってから、いろんなことが動きだした。
なぜこうなったか、歴史をさかのぼろうと思った。
沖縄人の私が人生体験を総動員した、私の沖縄だよ。
安倍政権と米軍に対する、私なりの抵抗さ」
撮影のモデルとなった、読谷村(よみたんそん)の保育士城間(しろま)真弓さん(38)に、石川さんのことを尋ねると、
「ウチナーンチュ(沖縄の人)でしか撮れない、沖縄の魂を写してくれる人」と教えてくれた。
1971年秋。
米軍基地存続を認めた沖縄返還協定に反対した、10万人デモがあった。
輪の中にいた高校3年の石川さんは、過激派が投げた火炎瓶で、機動隊員が亡くなるのを目撃する。
「どうして沖縄人同士が殺し合うのか」
泣きながら、「沖縄が燃えている」と思った。
そして、「この沖縄を表現したい」と決意した。
1974年、20歳の春、東京で、故東松照明(とうまつしょうめい)さんの教える、写真教室に入った。
まずは米兵を撮ろう。
沖縄に戻った後、向かったのは、コザ市(現沖縄市)や金武町(きんちょう)の外国人バーだった。
22歳から約2年、黒人専用の店で働き、いつしか客と恋に落ちながら、同僚の女性たちを、米兵を、撮った。
デビュー写真集『熱き日々inキャンプハンセン!!』(比嘉豊光さんとの共著)には、内側から見つめたからこそ撮れた、若者たちの当たり前の青春がある。
「ミイラ取りがミイラになる直前の、危うさの中で見た人間の、裸形が投げ出されている」。
東松さんは、豊かな人間描写に驚いた。
ところが、事件が起こる。
東京のマスコミが、「米兵に体を売る女たち」と、スキャンダルに仕立てた。
偏見だ。
だが、被写体となった一部の女性から抗議があり、「友人を傷つけた」と、石川さんは自分を責めた。
全てのネガを手放し、写真集自体を封印した。
2011年の大みそかだった。
大掃除の最中、亡き父がこっそり保管していた大量のプリントが、自宅で見つかった。
「人も歩けば知人にぶち当たるような狭い島で、自由に青春を謳歌(おうか)する彼女たちを、私は大好きだった」という石川さんは、写真を封印した後も、
「なぜ隠さなければいけないのか。黒人だからか。バーの女だからか」と自問していた。
もう存在しないと思っていたプリントの発見を機に、2013年、横浜市内の個展で、約30年ぶりに発表した。
「仲良くならないと、良い写真は撮れないさ」という石川さんは、こんなふうに相手の懐に飛び込み、時間をかけてシャッターを切ってきた。
基地に反対の人だけでなく、賛成の人も撮る。
米兵も自衛官も。
作品からは、安易な固定観念を嫌い、自分の目で事実を見きわめようとする誠実さを感じる。
「相手と話すと相手のことが分かって、どんどん仲良くなる。
その過程が私は好きさ。
お互いに影響し合う。
お互いに刺激し合う。
それが人に会うってこと。
その結果、写真になる。
だから写真も楽しいのさ」。
二度のがんを乗り越え、ほとんど休まず撮り続けてきた。
その石川さんの肋骨(ろっこつ)に、この2月、新たながんが見つかった。
ステージ4。
昨年から胸に痛みがあった。
特に、大きな一眼レフは負担のはずだ。
だが、「カメラを構える時が一番幸せ。この瞬間は痛みが消える」と、いつもの笑顔を見せるのだ。
「大琉球写真絵巻」は、毎年展覧会を開いてきた。
「撮りながら、沖縄の歴史を学んで、沖縄は小さな島だけど、沖縄人はずっと抵抗し続けてきたと知った。
今年も、秋には展示をやる。
来年も再来年も、撮りたいものはたくさんある」。
石川さんの写真を見れば、沖縄は今も燃えているのが分かる。
信じて待ちたい。
(森本智之)
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マンハッタン行きの電車のプラットホームが使えないからと、反対側のプラットホームで待たされる。
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ギリギリで間に合った。
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年の離れた姉妹のような、叔母さんのてい子さん(通訳係)と姪っ子の真生さん。
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この会の紹介文を、もう一度ここに。
沖縄を代表する写真家、石川真生。
1970年代半ば、自らバーガールとして働きながら、基地に近い黒人バーで働く女たちと、時にそのボーイフレンドにもなったGIたちを、生々しく捉えたデビュー作『熱き日々in キャンプハンセン!!』に始まり、
琉球國時代から現在にいたるまでの沖縄の歴史上の場面を、お芝居風に再現し、沖縄が置かれている現状への怒りを、風刺とユーモアたっぷりに表現した、現在進行中のプロジェクト『大琉球写真絵巻』にいたるまで、
被写体やスタイルは変わっても、沖縄が抱える現実に臆することなく真正面から迫り、インパクトあふれる作品にして、発表ごとに話題を呼び、幅広いファンをもつ写真家です。
また、独特の語り口をもつ卓抜なエッセイストであり、鋭い洞察力をもちながら、深い人間愛に満ち、ユーモアあふれるキャラクターで、トークの魅力も満点。
『熱き日々in キャンプハンセン!!』と『大琉球写真絵巻』を見せながら、沖縄を存分に語るこのトーク・イベントには、
アメリカ生活が長く、沖縄県民間大使も務めている、叔母のてい子与那覇トゥーシーもジョイントで登場。
沖縄タイムス紙通信員でもある、これまたパワフルでソウルフルなお人柄。
沖縄の熱い風が吹き荒れそうです。
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ということで、はい、沖縄の熱い風、吹き荒れました!
ほんでもって大いに笑い、涙しました!
この『大琉球写真絵巻』の一枚一枚に込められた、真生さんの気持ち、それは怒りであったり愛であったり悲しみであったり。
彼女は開口一番、こう言ったのです。
「2013年に安倍が復活して、辺野古の新基地建設が再開され、オスプレイが普天間に配備された。
安倍政権と米軍に対する怒りが、この『大琉球写真絵巻』に取り組んだ一番の理由」
辺野古や普天間に関するドキュメントは、世の中にいっぱいある。
だから私は、昔に戻って、歴史を振り返ってみようと思った。
歴史の中にうごめく思想や信条、そういうものを見つめ直して、沖縄を伝えようと思った。
琉球王宮の歴史を、写真で絵巻のように伝えようと思った。
真生さんの言葉を一所懸命に訳して伝えようとする、叔母さんのてい子さん。
そのてい子さんに、「ちゃんと言った?ほんとに?」と、容赦なく問い詰める真生さん。
仲が良い叔母と姪ならではのスピーチに魅了されながら、わたしはまた新たに、沖縄の歴史を学ばせてもらいました。
まず今回のこの写真絵巻のモデルとなった方々は皆、ノーギャラ、衣装は持参、場所の設定や選択を任せられ、名前の公表も良しとする、という条件のもと、引き受けられたそうです。
それもこれも、私の人柄の良さと天才さゆえのことと、胸を張って言い切る真生さん。
それをしっかり英訳するてい子さん。
いいなあ、こういうの。
ではこれから、写真無しの(?)写真の紹介をさせてもらいます。
文章だけでどこまでできるか、わたしの文章や頂いた資料からの抜粋文を元に、想像しながら見ていっていただければと思います。
そしてぜひ、真生さんを応援してください。
『石川真生 大琉球写真絵巻プロジェクト』
写真撮影、プリント制作、展示会場代、その他諸々にとてもお金がかかります。
石川真生を応援しようという方は、ぜひ以下の口座に振込みお願いします。
ただし、お返しに何かプレゼントをする、という事は何もありません。
それでもよろしければ、振込みお願いします。
口座に書かれたカタカナ名だけを公表します。
金額は、展示会終了後に、合計金額を発表します。
パート4の展示会は、今年9月、10月頃を目標にしています。
只今、撮影真っ最中!
振込口座
沖縄銀行 豊見城(とみしろ)支店(店番 207)
普通 1130807
名義 石川真生(イシカワ マオ)
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【大琉球写真絵巻:パート1】
■ 写真絵巻の最初の写真は、平和で穏やかな暮らしが営まれていた、薩摩侵攻(1609年)以前の琉球国時代の一場面です。
『ウミンチュ(漁師)が、魚をいっぱい釣ってきた。(琉球國時代』
漁師の一家に扮した本当の親子3人が、浜辺を横切っています。
父親は、釣った大きな魚を肩に背負い、後ろを歩く母親は、バナナの皮で包んだ魚がいっぱい入ったカゴを頭に乗っけて運んでいます。
その母親の横では、ちっちゃな子どもが波打ち際を歩いていて、なんとも言えないほどに美しい海を背景に、自然の恵みに守られた一家の幸せが、しみじみと伝わってくる作品です。
でも、現実には、この写真の端っこには、辺野古の新基地建設のために設置された、醜いフェンスが張り巡らされていて、真生さんは当初、このフェンスも入れて撮ろうと思ったのだそうです。
けれども、このような権力の暴力支配とは縁の無かった琉球時代の沖縄を、たった一枚の、しかも最初の作品として描こうと思い直し、フェンスを入れずに撮ったのでした。
「母親が頭に掲げているカゴは、やんばるのおじいから借りてきた。
カゴの中には、バナナの皮で包んだ本物の魚をいっぱい入れた。
オールは劇団から借りてきた。
撮影の後、魚は全部夫婦にあげた」と真生さん。
■ 2枚目の写真には、浜辺で刀を構える4人の武士の姿が。
『1609年3月、徳川幕府から『琉球征討』を許された薩摩藩が、3000人の軍勢で琉球に侵略した。
薩摩藩は、奄美群島を次々に制服し、4月には首里城を占拠した。
琉球は降伏し、薩摩藩は幕府から、琉球の支配権を承認され、奄美群島を割譲させ、直轄地とした。
琉球國は、薩摩の支配を受ける一方で、中国との冊封(王の承認)・進貢(中国皇帝に貢ぎ物を捧げる)を続けていた』
この写真には、薩摩藩の武士役が2名、琉球國の武士が2名、計4名の武士が刀を構えています。
でも実際には、沖縄の武士は人を切る必要など無かったために、普段はずっと刀の代わりに扇子を挿していたそうです。
だから、刀を振り回す薩摩の武士には敵うわけもなく、あっという間に制服されてしまったのです。
さて、この武士たちの背後の左端から中央にかけて、辺野古のフェンスがくっきりと写っています。
なぜか?
薩摩藩による支配が始まったこの時から、沖縄はずっと何者かに支配されてきたこと、そして今も米軍によって支配され続けていることを、この写真から伝えたかったのだそうです。
細かいことに、薩摩の武士のちょんまげと琉球国のちょんまげは、形が全く違います。
■ 3枚目の写真は、『琉球処分』の様子です。
明治政府の使いが、左端に直立し、天皇からの命令文を読んでいます。
その横にずらりと並んで座る、4人の琉球國の大臣たちは、一番右端の人を除いて、苦々しい顔でそっぽを向いています。
『1879年3月27日、明治政府の処分官・松田道之が、軍隊や警察など600人を率いて琉球へ。
首里城で、「琉球藩を廃止、沖縄県とする」と不達。
500年に及ぶ琉球國は崩壊し、日本に併合、沖縄県となる。
国王の尚泰は、東京在住を命じられた』
ということで、この写真には、顔が濃いタイプで、しかも演技ができる人が選ばれました。
右端に座った人が着ている衣装のサイズが合わず、座ると膝が割れるので、どうしても下着が見えてしまうので、扇子で隠しています。
琉球藩になった(力づくでならされた)琉球國ですが、国内的には薩摩藩だったそうです。
鎖国の時代だったので、貿易では琉球藩を名乗っていました。
薩摩藩は、琉球藩から物品を安く仕入れ、それらを金を持っているよその藩に売っていました。
■ 4枚目の写真は、民家の屋根に落下したオスプレイ。
普天間基地近辺の写真を撮り歩いていた真生さんに、声をかけてきた女性がいました。
「普天間基地なら、うちの家の屋根の上からよく見えるから、そこから撮らない?」
『「落ちる、危険だ」と言われるオスプレイを、米軍普天間飛行場のフェンスに隣接する、民家の屋根に落としてみた。
パイロット役は、演劇集団FECで「お笑い米軍基地」の脚本を担当する小波津正光(こはつまさみつ)さん。
基地の中にオスプレイの格納庫が見える』
この方の家が、まるで基地の中にあるようにも見えるほどの近さです。
騒音の酷さを思うと、言葉がありません。
この劇団は若い人たちにとても人気があるそうです。
自分の家の屋根に、いきなりオスプレイが落ちてきたという設定で、オスプレイのハリボテを持って構えているパイロット役の小波津さんを見て、笑いこそすれ全く驚いた様子ではないおばさん。
真生さんはとうとう諦めて、何十枚もの写真の中から、とりあえず一番笑っていなさそうに見える写真を選んだのだそうです。
■ 5枚目の写真は、記者会見する自民党の石破幹事長(当時)と、5人の沖縄の国会議員たち。
『2013年11月、自民党本部。
「米軍普天間飛行場は県外へ」と公約して当選した、沖縄の国会議員5人を従え、辺野古移設で(5人と)合意したと記者会見する石破茂幹事長』
この写真の中の石破氏役の人は、石破氏のマスクを被っています。
そして、国会議員の5人の中の、ただ一人の女性島尻氏も、彼女の顔マスクを被った人が演技をしています。
石破氏の顔マスクは、アマゾンで2000円ちょっとで売っているのだそうです。
島尻氏の顔マスクは買えなかったので、友人が作ってくれたのだそうですが、とてもよくできていると思いました。
【大琉球写真絵巻:パート2】
■ 1枚目の写真は、中学生二人に、「あなたは何人ですか?」と聞いている場面です。
『「あなたは何人ですか?」
1. 日本人 2. アメリカ人 3. 中国人 4. 沖縄人
米軍統治下時代の1950〜1960年代に、全琉球のあちこちの小中学校で、アンケート調査が行われた。
先生たちは生徒たちに、
「あなたたちの祖国は日本ですよ。
日本に帰ったら、平和憲法の下、人権も守られるし、米軍の支配からも解放されます。
日本人だという自覚を持ちましょう」と、盛んに日本人教育をしていた。
それでも『4. 沖縄人』に○をつける生徒が多かったという』
この写真に写っている中学生たちは本当の姉妹で、真生さんが、彼女たちにこの質問をしたところ、一人は日本人、一人は沖縄人と答えたそうです。
■ 2枚目の写真は、1970年12月20日の未明に起こった暴動シーン。
『1970年12月20日未明、ゴザ市(現沖縄市)の胡屋付十字路付近(空港のすぐ近く)で、米兵による交通事故が発生。
糸満市で主婦を轢殺した米兵が、軍事裁判で無罪判決が出た直後とあって、事故処理を行っているMP(憲兵)を群衆が取り囲み、
「糸満の二の舞を繰り返すな!」と騒ぎ出した。
MP隊が威嚇発砲したため、米軍統治下で続く人権抑圧に怒る市民感情が一気に爆発し、駐車中のMP車両、および外人車両を横転させ、次々と放火した。
その数82台。
米軍は、カービン銃で武装したMP、約300人を出動させたが、約5000人の群衆と睨み合うなど、騒ぎは朝まで続いた』
真生さんは言います。
1945年の大戦が終わり、沖縄の人々は収容所に押し込められた。
長くて2年の収容後、自分たちが暮らしていた場所に戻ったら、土地はすっかり撤収されてしまっていて、基地に変わっていた。
沖縄の地上戦では、4人に一人の沖縄市民が殺された。
薩摩藩による支配、米軍による支配、沖縄は延々と、支配統治され続けてきた。
その怒りが爆発したこの暴動は、今までとは違い、非常に暴力的なものだった。
私はこの暴動を高く評価している、と。
ライフルは、野鳥ハンターの友人から借りたのだそうです。
■ 3枚目の写真は、2014年の11月に、沖縄県知事に翁長雄志氏が当選した時のものです。
『2014年11月、沖縄県知事に、翁長雄志さんが当選。
喜ぶ稲嶺進名護市長と翁長知事。
負けて悔しがる仲井真弘多知事を、「辺野古の埋め立てを承認しただけで、あなたは立派に役割を果たしましたよ」と慰める安倍晋三首相』
みんなそれぞれ顔マスクを付けていますが、アマゾンから購入できたのは安倍氏のものだけだったのだそうです。
他は友人作。やはりとてもよく似ています。
■ 4枚目の写真は、同じく2014年の12月、翁長知事と共に、米軍基地の新設反対と撤去を訴えた4人の衆議院議員候補全員が当選した時のもの。
『2014年12月、翁長雄志知事と共に、「米軍の新基地建設反対!普天間飛行場は県外へ!」と訴え、『オール沖縄』の4人の衆議院議員候補全員が当選。
糸数慶子参議院議員と共に「ばんざーい!」。
対する「辺野古へ移設すべき」と訴えた自民党の候補者4人全員が落選。
だが、すぐに比例区で全員が当選。
ゾンビが復活した』
万歳をしている6人の議員のうち、糸数議員だけが本人。
トレードマークの赤いスーツを着てもらったのだそうです。
■ 5枚目の写真は、米兵との結婚で生まれた人を、ごく一般的な沖縄の住居で撮りたかったという作品。
『親富祖愛(おやふそあい)さんは、アメリカの黒人兵と沖縄人の母親の間に生まれた。
夫の大輔さんと共に、本部町営市場で、オリジナル洋品店を営んでいる。
愛さんは、3人目の子どもを妊娠中。
家族全員で、辺野古の新基地建設反対運動の現場へも出かけて行く』
■ 6枚目の写真は、蝶の撮影に夢中な宮城秋乃さんの横で、オスプレイのハリボテをまとったパイロットが立っている場面。
宮城さんは、長年に渡り、森の生き物を観察し、記録している女性で、週に5日、昆虫の生態を研究している方です。
『東村高江の森の中、チョウの撮影に夢中な宮城秋乃さん。
頭上をオスプレイが飛んでいる。
森の生き物をずっと観察し、記録している秋乃さんは、オスプレイを含む米軍機の飛行や、ヘリパッド建設に反対だ。
「今でも、建設のために、木々をいっぱい伐採しているので、多くの虫たちが死んでいるのよ」』
■ 7枚目の写真は、辺野古の新基地建設反対の抗議活動をしている人たちに対する、海上保安官による暴力を、島尻議員と安倍首相に受けさせるという皮肉表現です。
『米軍の新基地建設に向け、工事中の海で、抗議船に乗っていた女性が、乗り込んで来た海上保安官に、馬乗りにされる暴行を受けた。
後日、船長の北上田毅さんが、海保に指をひねられる暴行を受けた。
その時の船で、北上田さんが見守る中、海保に馬乗りにされる島尻安伊子参議院議員と、首根っこをつかまれた安倍首相。
暴力団・海保に、二人がやられてみるがいい』
指をねじられた船長の北上田さんは、京都から夫婦で沖縄に移住してきました。
指をねじられ、怪我をしたので訴えましたが、受け取ってもらえなかったそうです。
その船長の船の上で、まさに酷いことばかりをする海保の暴力を、安倍首相と島尻議員に経験させるという、真生さんの皮肉です。
■ 8枚目の写真は、ジュゴンのエサ場でもある美しい沖縄の海に沈められている巨大なコンクリートブロックの下敷きになる安倍首相の姿。
『国際的保護動物、ジュゴンのえさ場でもあるきれいな海に、日本政府は、米軍のために、新たな飛行場を、名護市のキャンプ・シュワブ沖に建設するという。
沖縄県知事や名護市長を始め、県民の反対する声を一切無視し、海を埋め立てるための工事が今、連日強行されている。
2トンから45トンの大きなコンクリートブロックを海中に沈めて、珊瑚を破壊しまくっている。
ならば安倍首相よ、お前が珊瑚の代わりにブロックでつぶされてみるがいい。
沖縄人と海の生き物の苦しみを、味わうがいい』
このコンクリートブロックの45トン級のものは、大型トラック2台分の砂利と同じで、建設予定地のボーダーの浮きを止める重りです。
真生さんは当初、安倍首相とオバマ元大統領の二人を、このブロックで潰そうと思ったのだそうです。
でも考えを変え、10人の安倍首相にして、大学生5人、社会人5人に、それぞれ顔マスクをかぶって下敷きになってもらいました。
学生の一人がハイヒールを履いてきて、どうしよう…と思ったのですが、ええい、そのまま履かせて見せてしまえと思ったのだそうです。
この写真は、糸満の海で撮影されました。
安倍首相を押しつぶしている巨大ブロックのハリボテは、高江の人たちが作ってくださったそうです。
【大琉球写真絵巻:パート3】
■ 1枚目の写真は、1945年の沖縄戦での恐怖と苦しみ、そして悲しみが描かれたもの。
『1945年6月、沖縄戦。
アメリカ軍に追われ、糸満の摩文仁(まぶに)の海岸まで逃げてきた。
途中、一緒だった肉親を次々に殺され、母親と夢中で、死体の上を走って逃げた。
精神科医、蟻塚亮二(ありずかりょうじ)さんは言う。
「若い頃は、必死で仕事や子育てをやってきた。
高齢になり、生活にゆとりが出てきた頃から、戦争の記憶がよみがえってきた。
お母さんと一緒に、死体の上を走って逃げた。
その死体を踏んだときの感覚が蘇ってきて、足が痛いのは、死体の上を歩いたからだと、自分を責めた女性もいる。
戦争が終わって71年。
戦争トラウマ(心的外傷)に苦しんでいる高齢者が、沖縄は他県に比べて多い。
戦争の犠牲者ですよ。
個人の原因ではなく、戦争によるものだっていうことがわかると、救われる人がもっと増えると思う」』
この写真の中で、死体役の方々の横で走っているのは、中村さん親子。
老人施設で働いている中村さんは、入所されている老人たちから、様々な悲惨な話を聞いていたので、演技に気持ちが入ると言っておられたのだそうです。
その横で、頭を掻きむしるようにして泣き叫んでいるのは、元英語教師の女性で、
撮影の際に、最も悲しかったことを思い出して欲しいとお願いすると、次男が水死した時のことを思い出して演技してくださったのだそうです。
■ 2枚目の写真は、キャンプ・シュワブゲート前で抗議活動をする人たちが、機動隊員の暴力を受けている場面。
『名護市の米軍基地、キャンプ・シュワブゲート前で、工事運搬車両を阻止しようとスクラムを組む人々を、機動隊が暴力的に排除している。
参加者は高齢者が多い。
肋骨を折られた人が何人もいる。
元高校教師の宜野座映子さん(左、69歳)は、ボコボコにやられながらも毎日参加していた。
現在は、家族の病のために参加を控えているが、
「何かあったらすぐゲートに駆けつけられるよう、毎日4時半に起きる習慣は続けているのよ」と意気盛んだ』
■ 3枚目の写真は、アメリカの『ベテランズ・フォー・ピース』のメンバーが、辺野古の浜でアピールしている場面。
『アメリカの「ベテランズ・フォー・ピース(平和を求める元軍人の会)」のメンバーが、2015年12月、名護市、キャンプ・シュワブゲート前の座り込み闘争の視察、応援にやって来た。
ベテランズの「新たな戦争につながる基地は造らせない」「米兵よ、アメリカへ帰ろう」という呼びかけがある。
沖縄に駐留経験のある3人、78歳のKenさん、39歳のMikeさん、31歳のWillさんが、辺野古の浜でパフォーマンス』
この写真は、彼らが日本を出る前日に、辺野古の浜で撮影されたものです。
時代は違うけれども、沖縄に駐留していた経験がある3人が、「米兵よ、アメリカへ帰ろう」と訴える意味の深さを、しみじみと考えました。
■ 4枚目の写真は、ゆうパックに『普天間飛行場』を詰め込んで、米国元大統領のオバマ氏に、持って帰りなさい!と突っ返す宜野湾市民の姿です。
『ゆうパックに、米軍の『普天間基地』を入れて、アメリカのオバマ大統領に、「アメリカに持って帰りなさい!」と突っ返す、宜野湾市民の喜友名さん一家。
30代半ばの夫妻は、2人の子育て真っ最中だ。
子どものためにも、住宅密集地のど真ん中にあって、世界一危険な飛行場が、一日も早く無条件撤去されることを望んでいる。
「同じ沖縄県内の名護市に、たらい回しするなんてとんでもない!」』
■ 5枚目の写真は、米兵や軍属による強姦被害者を表したもの。
『「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」制作の、1945年4月〜2016年5月までの「沖縄・米兵による女性たちへの性犯罪」の年表を前に、共同代表の高里鈴代さん(左)と糸数慶子さん。
「米兵や軍属による強姦被害者の数は、復帰前は記録が無い。
復帰後は129人となっているが、他の犯罪と違って親告罪なので、全てを明らかにしたらそんな数ではない。
被害者は決して悪くない。
ナイフで脅され、時にはめった切りにされる、殺される。
それなのに、被害者も悪いと世間が叩く。
裁判になったら、全てが明らかになると恐れて訴えない。
本当に沈黙させられている。
そんな社会を変えないといけない。
沈黙は実質的に、次の被害者を生み出すことにつながっている。
被害届を出す人を、きちんと支える体制を作らないといけない。
米軍犯罪で最も被害者が多い強姦が、最も小さく見積もられて発表されることによって、71年という長期にわたり、米軍は沖縄に駐留し続けることができている。
日米両政府が、地位協定改正なんて必要がない、という態度を取ることにもつながっている』
真生さんの言葉
「戦争中は、日本もひどいことをした。ほかの戦争を仕掛けた国々も、それぞれひどいことをした。
でも、沖縄では、それが今も続いているんです。
強姦された最年少は、生後9ヶ月の赤ん坊なんです」
■ 6枚目の写真は、昨年の5月に、軍属に殺された20歳の女性の両親が、遺体遺棄現場で泣き叫んでいる場面。
『2016年5月、「元米海兵隊員の米軍属による、20歳の女性暴行殺人事件」のニュースが飛び込んできた。
なんてことを!
激しい衝撃を受けた。
大泣きした。
愛する我が子を、無惨に殺された親の無念が、怒りが、真っ直ぐに私の体の中に入ってきた。
この事件は、世間に大きな衝撃を与えた。
犯人は捕まったが、8月19日現在、まだ裁判は開かれていない。
人里離れた山の遺棄現場には、今でも毎日、献花に訪れる人が後を絶たない。
二度とこういう事件があってはならない。
今、沖縄で生きている私たちが止めないと、誰も止める者はいない。
それを肝に銘じたい。
(私の思いを込めて、米軍基地のフェンスのすぐそばを、遺棄現場に見立てて、友人に演じてもらった)』
「いくら作り物でも、一人娘の遺体を、嘆き悲しむ両親の横に置くわけにはいかない」
同じく、一人娘の母親である真生さんは、苦しそうにそう言いました。
殺された女性が遺体となって発見されたのは、恩納村安富祖にある雑木林。
米軍のセントラルトレーニングエリアの一画でした。
遺体は腐敗が進み、すでに白骨化していたそうです。
遺体をトランクの中に入れ、基地の一角に捨てる。
そうすることで、日本の捜査が難航することを知っての上の行動だったと思います。
「治外法権」という不条理な取り決めのために、今回の事件も県民に知らされないまま、闇に葬られかねない危険性がありました。
米軍関係者を保護する日米地位協定が、常に立ちはだかっているからです。
この地位協定によって、米国軍人・軍属が事件や事故を起こしても、被疑者が公務中の場合、捜査権と第1次裁判権は、米軍側にあることから、
県警が仮に、犯人の米軍人を逮捕しても、公務中の事故だったとされれば、検察官は不起訴にせざるを得ないのです。
今回の死体遺棄事件の場合、容疑者は公務外でしたし、住居も基地の外だったので、起訴前でも、米国側が身柄を確保することができず、日本主導の捜査が可能になりました。
でも、本当に理不尽な構造だと思います。
こんなことを、いつまでも続けさせていてはいけないと、強く思います。
■ 最後の写真は、元米海兵隊員で軍属の男による、20歳の女性暴行殺人事件に抗議するメッセージを掲げる、被害者のご両親の姿です。
『元米海兵隊員の米軍属による、20歳の女性暴行殺人事件に抗議する、県民大会に届いたメッセージ。
「ご来場の皆さまへ。
米軍人・軍属による事件、事故が多い中、私の娘も被害者の一人となりました。
なぜ娘なのか、なぜ殺されなければならなかったのか。
今まで被害に遭った遺族の思いも、同じだと思います。
被害者の無念は、計り知れない悲しみ、苦しみ、怒りとなっていくのです。
それでも、遺族は、安らかに成仏してくれることだけを願っているのです。
次の被害者を出さないためにも、『全基地撤去』『辺野古新基地建設に反対』。
県民が一つになれば、可能だと思っています。
県民、名護市民として、強く願っています。
ご来場の皆さまには、心より感謝申し上げます。
平成28年6月19日、娘の父より」』
そしてここから、【大琉球写真絵巻:パート4】に続いていくのですが、真生さんは本当は、即刻入院をしなければならない状態なのです。
でも、この写真絵巻を完成させてからでないと入院できないと、痛みを堪え、次々に襲ってくる困難と闘いながら、作業を続けています。
真生さんは、その名の通り、真に生きる人です。
自身を深く愛し、しっかりと見つめることができる人です。
だからこそ、あの、なんとも言えない優しさが、つっけんどんな口調から滲み出てくるのだと思います。
そしてまた、人を愛し、受け入れられるんだと思います。
だから人から愛され、受け入れられるんだと思います。
ステージ4という厳しい状況の癌に加え、二度の癌治療で腸を全摘した真生さんは、一言で言えば満身創痍の状態です。
でも、そんなことは忘れたとばかりに、そこが私の天才たる所以、というセリフをあちこちに散りばめながら、
わたしたちに『真生さんの目と心が見た沖縄』を、たっぷりと見せてくれた真生さん。
「安倍政権になってから、いろんなことが動きだした。
なぜこうなったか、歴史をさかのぼろうと思った。
沖縄人の私が人生体験を総動員した、私の沖縄だよ。
安倍政権と米軍に対する、私なりの抵抗さ」
真生さん、来年も、再来年も、そのまた再来年も、撮りたいものをいっぱい、真生さんが撮りたいだけ撮ってください。
「ウチナーンチュ(沖縄の人)でしか撮れない、沖縄の魂を写してくれる人」
わたしもそう思います、心から。
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一番左端が、若かりし頃の真生さん。
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真生さんのお話が終わり、次にてい子さんが、武の舞を披露してくださいました。
武の舞とは:
1. 「シンカヌチャー」 (諸君よ):
歌は、特に若者たちへ、遠くへ旅発ち《寛大な世界観を抱け》と勇気づける内容です。
2. 扇の型踊り「不死鳥の羽ばたき」:
408年前、1609年に、琉球は日本に侵略され, 現在も統制されています。
島独特の芸能文化, 特に空手の修業、刀などの武器を身に付ける事などが禁止されました。
しかし,、武道者は、森や墓地に隠れて修業を続けました。
美しい扇は、剣、鎌、楷、ヌンチャク等の、古武道の見せかけのシンボルです。
破滅しても復帰する不死鳥の様に、琉球・ウチナーの不屈な魂を、「龍と不死鳥」の舞で表現されます。
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てい子さん(てい子与那覇・トゥーシー):
沖縄生まれ。
第二次世界大戦体験者。
沖縄在モーニングスター英字新聞者勤務。
1964年、国際結婚で渡米。
1968年に、ベトナムから帰還してきた直後の夫が、枯葉剤の影響で毎年入院し、1978年に死去。
当時、3人の子どもたちは、11、13、14歳、てい子は37歳。
その後、母子4人で空手道場へ入門。
同じ頃、琉球音楽に合わせた空手踊り『武の舞』の振り付けと演舞を始め、武道とともに現在も続ける。
2004年まで、ニュージャージー州精神保健福祉センターで、精神疾患の児童・青少年対象のケース・マネジャーなどとして、25年間、福祉員を務める。
元ニューヨーク沖縄県人会会長。2006年以来、沖縄県の任命による、民間大使。
1992年から、沖縄タイムス社の海外通信員。
現在、同時にエッセイ「てい子トゥーシーのユンタクハンタク」を連載中。
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講演が終わり、歩美ちゃん、のんちゃん、金魚さん、ジャーン、そしてわたしが、真生さんにさよならを言いに行きました。
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ピンボケになったけど、真生さんの、それはそれはあったかな笑顔に、心がぐらりと揺れました。
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