海辺での夏休みの直前に、ちょっとしたハプニングがありました。
数ヶ月前に、全くの初心者としてピアノを習いに来るようになった、ニコラス(お兄ちゃん)とソフィア(妹)。
ニコラスは12才、ソフィアは10才、ニコラスは、ハリー・ポッターのハリーそっくり。ソフィアのレッスン中はいつも、分厚い本を読んでいます。
ソフィアは、しばらくの間、いきなり目の前に現れたたくさんの情報に戸惑い、混乱しているようでしたが、すぐにお兄ちゃんに追いつき、今では同じレベルの曲を弾けるようになりました。
ふたりとも、とても賢い子たちで、弾きたいという意欲もあり、努力をすることを惜しみません。
だから、みるみる前に進んでいきました。
教え易い子の典型のような子たちに出会えて、わたしも嬉しく、興奮していました。
さて、アメリカの子どもたちの夏休みは、とても長い(2ヵ月半)上に宿題も無いので、親御さんたちは毎年、知恵とお金を絞り、様々なキャンプに参加させたり、旅行に行ったりします。
こちらに来て間が無い頃は、そんな事情が分からなくて、みんなの予定を聞きながら、とりあえずわたし自身としてはレッスンを続けていたのですが、
数年間、同じようなパターンで夏を過ごした結果、あることが明確になりました。
秋になってぼちぼちと戻ってきた生徒たちが、夏前に習っていたこと、できていたことを、まるで覚えていないのです。
それでまた、一から教え直し、覚え直し、という作業が始まります。
これは何か方策を練らなければと、いろいろ考えた結果、年に一回の発表会を、夏前ではなく、夏後にすることにしました。
夏やからというて、ええ加減に過ごしてしまうと、えらいことになりまっせ、という、少々脅しが入った手紙も渡しました。
じわじわと効果が出てきて、最近では、2ヵ月半全部お休み、という生徒はゼロで、休み中もとりあえず、普段通りに練習をする、ということが当たり前になってきました。
日本なら、そんなん当然やん、と思われるかもしれませんが、こちらではかなり画期的な現象なわけです。
そんなこんなの夏休みレッスン中に、わたしは失敗をしてしまいました。
前出の兄妹たちのレッスンでのことです。
彼らにとっては、今年の発表会が初めてで、だからとても気合いが入っています。
どんな感じの曲を弾きたい?と尋ねると、目をキラキラさせて話してくれました。
ふたりとも、「今と同じレベルのではなくて、3ヵ月後の自分が弾いていそうな曲に挑戦したい」と言うので、
ニコラスにはライザ・ミネリの『New York, New York』を、ソフィアにはショパンの『Prelude』を、
それぞれ少し易しく編曲されてはいますが、彼らにとっては大きな挑戦になる曲を与えました。
曲を与えてから次のレッスンまで、お互いの予定が合わずに間が空きました。
その間に、ソフィアが曲を変えたいと言っているというメールが、母親から送られてきました。
お兄ちゃんのように、誰もが知っている、たくさんの人に愛されている曲を弾きたい。
ということで、久しぶりのレッスンの際に、『Beauty and the Beast』の楽譜をふたりで初読みし、できると思うということで、ソフィアに渡しました。
彼女はとても嬉しそうで、それはそれは張り切っていました。
その1週間後のことです。
その日は、わたしの夏の休暇前の、だから次のレッスンまで丸々2週間空いてしまう、という思いが頭の中にありました。
はじめにニコラスが、前々から手こずっているテーマのリズムをようやく理解し、ホッとしたのも束の間、
♭や♯の臨時記号が1小節の中でずっと生きていることを知らないという彼に、そんなはずはないでしょう?と詰問しました。
その後ソフィアの番になり、彼女がそれは見事に、とんでもなく飛び級した(本で言うとVol.2からVol.5に飛んだ)本の曲を、一音も見逃す事なく弾き通したので、
「すごいね、どんなに大変だったことだろうか。よく頑張ったね」とまず言って、その後すぐに、指遣いに大きなミスがあったので、そのことを直しにかかりました。
すると、彼女が鼻をすすり始めたので、え?と思って彼女を見ると、目に涙がいっぱいたまっています。
驚いて、「どうしたの?」と聞いても、彼女は口を噤んで何も言おうとしません。
一瞬どうしたものかと思いましたが、このことだけは何が何でも伝えておかないと、彼女はまた同じミスを繰り返すだけではなく、弾きにくいままに手に癖がついてしまうと思ったので、続行することにしました。
でももし、その日が休暇前のレッスンではなかったら、わたしは多分レッスンを中断して、彼女の気持ちが治まるのを待ったでしょう。
そして、どうして泣きたくなったかを聞いた上で、指の番号を守ることの意味や技術について、ていねいに話していたでしょう。
けれども、その日はしませんでした。
とにかく残りの20分の間に、彼女が2週間、自分できちんと学べるように、時間の無駄をしないようにしてあげたい、そのことにこだわって教え続けていました。
すると、母親が立ち上がり、
「もうやめて。娘はとても取り乱しているのに、あなたの言うことなど頭に入るわけがないじゃないの」と言いました。
それを聞いて、それまで抑えていたのか、静かに泣いていたソフィアが、しゃくり上げ始めたのです。
正直に言うと、わたし自身は、生徒が泣き出すことについては、否定的でも肯定的でもなく、泣きたくなったら泣いたらいいと思っています。
ただ、わたしの言動に過ぎたところがあって、そのことで怯えたりショックを受けたりしたと思える場合は、「ごめん、言い過ぎた」と謝り、気持ちが治まるまで待ちます。
(日本で教えていた時は、自分の否を認めて謝る、ということがまるでできていない、ダメ教師でした。
生徒だったみなさん、ほんっとにごめんなさい!)
でも、ちゃんとできたと思ったのに、わたしにミスを指摘されて、それが悲しくて悔しくて泣き出す、というような時は、
「こういうミスは、練習をする時にどんなふうに考えてるか、プランを立てているかで、うんと少なくできることだから」と励まして教え続けます。
悲しくても悔しくても、それで涙が出そうになっても、それを自分でなんとかコントロールできるということも、学びのひとつであって欲しいからです。
まあ、そんなこんなの事柄が重なって、とても後味の悪いレッスンとなってしまいました。
その晩、そして次の晩までずっと、とにかく落ち着いて、第三者の目で見ているつもりで、自分がした事を思い返しました。
とにもかくにも、傷つけたことは明らかなので、言葉を選んで、ソフィアにメールを送りました。
そして、返ってきた母親からのメールには、わたしへの非難の言葉が並んでいて、そのことについてまた、あれこれと考えあぐねていました。
先週の金曜日、久しぶりに、気功瞑想のクラスに行きました。
座式瞑想、立式瞑想が終わり、いつもの『トピックはなんでも』なトークセッションの時間になり、
ミリアムが、「今日はこのことをどうしても伝えておきたいの」と言って、話し始めました。
「Just look at it」
ただそれを見つめる。
感情も思考も抜きで。
それができるようになってほしい。
その言葉が、わたしの心にずんと響きました。
すると、ソフィアの母親からのメールの言葉を、記号のように読み返している自分に気づきました。
その記号の中の『誤解』に当たる部分を、わたしはきちんと釈明しなければならない。
とても穏やかな気持ちで、その釈明に要する文章を、頭の中で組み立てることができました。
母親は、自分の娘が、それはそれは一所懸命に練習し努力していたのを、この目で見てきた証人であり、
さらには、彼女が学校ではとても優秀で、態度も良い生徒であるということを、何度も訴えていました。
わたしは、初めてのレッスンで、それらのことをしっかり見抜いていたこと、それはもう説明ができない、経験が為せる業であること、
さらには、レッスンで正しく弾けなかったぐらいで、その認識が揺らぐことはないし、その直感を疑うこともありません、と伝えました。
それに対する返事は、まだ届いていません。
けれども、やるだけのことをやり、十分に話し合った上で、やはりわたしには習いたくないという結論が出たのなら、それはそれで仕方のない事だと思っています。
気分を変えて。
これは、歩美ちゃん作の『松葉サイダー』。
歩美ちゃんいわく、
「黒糖をお湯で溶かして冷ましたところに、ある教会の裏の、良質の湧き水をたっぷり吸い込んだ松の葉っぱを、ギシギシに詰めただけ」だそうで、
松葉についている酵母が働いて、ブクブクと泡立ってきて、はじめはサイダーになり、それを放っとくと酒になる…ひぇ~!
裏庭のガラスのテーブルの上に置いておくと、
そして次の朝、
歩美ちゃんは、我が家に、いろんな楽しいものを持ち込んでくれます。
これもそのひとつ。
大きめの鉢に植え替えたら、どんどん大きくなってきたよね~などと、イチジクの木を挟んで話していたら、
コロン…。
え?なに?
まるで、ワタシを食べてね、とでも言うように、黄緑のイチジクの実がひとつ、地面に落ちたのです。
え~!まだこんな緑なのに~!と言いながら、歩美ちゃんが拾い上げると、
「あれ?柔らかい!」
ほんま?あ、ほんまや、柔らかい!
ということで、早速3人で分けんこしていただきました。
皮まで一緒に食べられるぐらいに柔らかく、とぉ~っても美味しかったです。
ほいじゃ~ついでに裏の畑も!と勢いづいて、小松菜とアルゴラを。
残りものの茄子と厚揚げの煮浸しに加えて、みんなで美味しくいただきました。
どんな時にもお腹は空く。
だったら、こんな時こそ、太陽の光をいっぱい浴びた新鮮な野菜を食べて、力をつけないと。
などと、贅沢なことが言える環境に、心から感謝しつつ。
数ヶ月前に、全くの初心者としてピアノを習いに来るようになった、ニコラス(お兄ちゃん)とソフィア(妹)。
ニコラスは12才、ソフィアは10才、ニコラスは、ハリー・ポッターのハリーそっくり。ソフィアのレッスン中はいつも、分厚い本を読んでいます。
ソフィアは、しばらくの間、いきなり目の前に現れたたくさんの情報に戸惑い、混乱しているようでしたが、すぐにお兄ちゃんに追いつき、今では同じレベルの曲を弾けるようになりました。
ふたりとも、とても賢い子たちで、弾きたいという意欲もあり、努力をすることを惜しみません。
だから、みるみる前に進んでいきました。
教え易い子の典型のような子たちに出会えて、わたしも嬉しく、興奮していました。
さて、アメリカの子どもたちの夏休みは、とても長い(2ヵ月半)上に宿題も無いので、親御さんたちは毎年、知恵とお金を絞り、様々なキャンプに参加させたり、旅行に行ったりします。
こちらに来て間が無い頃は、そんな事情が分からなくて、みんなの予定を聞きながら、とりあえずわたし自身としてはレッスンを続けていたのですが、
数年間、同じようなパターンで夏を過ごした結果、あることが明確になりました。
秋になってぼちぼちと戻ってきた生徒たちが、夏前に習っていたこと、できていたことを、まるで覚えていないのです。
それでまた、一から教え直し、覚え直し、という作業が始まります。
これは何か方策を練らなければと、いろいろ考えた結果、年に一回の発表会を、夏前ではなく、夏後にすることにしました。
夏やからというて、ええ加減に過ごしてしまうと、えらいことになりまっせ、という、少々脅しが入った手紙も渡しました。
じわじわと効果が出てきて、最近では、2ヵ月半全部お休み、という生徒はゼロで、休み中もとりあえず、普段通りに練習をする、ということが当たり前になってきました。
日本なら、そんなん当然やん、と思われるかもしれませんが、こちらではかなり画期的な現象なわけです。
そんなこんなの夏休みレッスン中に、わたしは失敗をしてしまいました。
前出の兄妹たちのレッスンでのことです。
彼らにとっては、今年の発表会が初めてで、だからとても気合いが入っています。
どんな感じの曲を弾きたい?と尋ねると、目をキラキラさせて話してくれました。
ふたりとも、「今と同じレベルのではなくて、3ヵ月後の自分が弾いていそうな曲に挑戦したい」と言うので、
ニコラスにはライザ・ミネリの『New York, New York』を、ソフィアにはショパンの『Prelude』を、
それぞれ少し易しく編曲されてはいますが、彼らにとっては大きな挑戦になる曲を与えました。
曲を与えてから次のレッスンまで、お互いの予定が合わずに間が空きました。
その間に、ソフィアが曲を変えたいと言っているというメールが、母親から送られてきました。
お兄ちゃんのように、誰もが知っている、たくさんの人に愛されている曲を弾きたい。
ということで、久しぶりのレッスンの際に、『Beauty and the Beast』の楽譜をふたりで初読みし、できると思うということで、ソフィアに渡しました。
彼女はとても嬉しそうで、それはそれは張り切っていました。
その1週間後のことです。
その日は、わたしの夏の休暇前の、だから次のレッスンまで丸々2週間空いてしまう、という思いが頭の中にありました。
はじめにニコラスが、前々から手こずっているテーマのリズムをようやく理解し、ホッとしたのも束の間、
♭や♯の臨時記号が1小節の中でずっと生きていることを知らないという彼に、そんなはずはないでしょう?と詰問しました。
その後ソフィアの番になり、彼女がそれは見事に、とんでもなく飛び級した(本で言うとVol.2からVol.5に飛んだ)本の曲を、一音も見逃す事なく弾き通したので、
「すごいね、どんなに大変だったことだろうか。よく頑張ったね」とまず言って、その後すぐに、指遣いに大きなミスがあったので、そのことを直しにかかりました。
すると、彼女が鼻をすすり始めたので、え?と思って彼女を見ると、目に涙がいっぱいたまっています。
驚いて、「どうしたの?」と聞いても、彼女は口を噤んで何も言おうとしません。
一瞬どうしたものかと思いましたが、このことだけは何が何でも伝えておかないと、彼女はまた同じミスを繰り返すだけではなく、弾きにくいままに手に癖がついてしまうと思ったので、続行することにしました。
でももし、その日が休暇前のレッスンではなかったら、わたしは多分レッスンを中断して、彼女の気持ちが治まるのを待ったでしょう。
そして、どうして泣きたくなったかを聞いた上で、指の番号を守ることの意味や技術について、ていねいに話していたでしょう。
けれども、その日はしませんでした。
とにかく残りの20分の間に、彼女が2週間、自分できちんと学べるように、時間の無駄をしないようにしてあげたい、そのことにこだわって教え続けていました。
すると、母親が立ち上がり、
「もうやめて。娘はとても取り乱しているのに、あなたの言うことなど頭に入るわけがないじゃないの」と言いました。
それを聞いて、それまで抑えていたのか、静かに泣いていたソフィアが、しゃくり上げ始めたのです。
正直に言うと、わたし自身は、生徒が泣き出すことについては、否定的でも肯定的でもなく、泣きたくなったら泣いたらいいと思っています。
ただ、わたしの言動に過ぎたところがあって、そのことで怯えたりショックを受けたりしたと思える場合は、「ごめん、言い過ぎた」と謝り、気持ちが治まるまで待ちます。
(日本で教えていた時は、自分の否を認めて謝る、ということがまるでできていない、ダメ教師でした。
生徒だったみなさん、ほんっとにごめんなさい!)
でも、ちゃんとできたと思ったのに、わたしにミスを指摘されて、それが悲しくて悔しくて泣き出す、というような時は、
「こういうミスは、練習をする時にどんなふうに考えてるか、プランを立てているかで、うんと少なくできることだから」と励まして教え続けます。
悲しくても悔しくても、それで涙が出そうになっても、それを自分でなんとかコントロールできるということも、学びのひとつであって欲しいからです。
まあ、そんなこんなの事柄が重なって、とても後味の悪いレッスンとなってしまいました。
その晩、そして次の晩までずっと、とにかく落ち着いて、第三者の目で見ているつもりで、自分がした事を思い返しました。
とにもかくにも、傷つけたことは明らかなので、言葉を選んで、ソフィアにメールを送りました。
そして、返ってきた母親からのメールには、わたしへの非難の言葉が並んでいて、そのことについてまた、あれこれと考えあぐねていました。
先週の金曜日、久しぶりに、気功瞑想のクラスに行きました。
座式瞑想、立式瞑想が終わり、いつもの『トピックはなんでも』なトークセッションの時間になり、
ミリアムが、「今日はこのことをどうしても伝えておきたいの」と言って、話し始めました。
「Just look at it」
ただそれを見つめる。
感情も思考も抜きで。
それができるようになってほしい。
その言葉が、わたしの心にずんと響きました。
すると、ソフィアの母親からのメールの言葉を、記号のように読み返している自分に気づきました。
その記号の中の『誤解』に当たる部分を、わたしはきちんと釈明しなければならない。
とても穏やかな気持ちで、その釈明に要する文章を、頭の中で組み立てることができました。
母親は、自分の娘が、それはそれは一所懸命に練習し努力していたのを、この目で見てきた証人であり、
さらには、彼女が学校ではとても優秀で、態度も良い生徒であるということを、何度も訴えていました。
わたしは、初めてのレッスンで、それらのことをしっかり見抜いていたこと、それはもう説明ができない、経験が為せる業であること、
さらには、レッスンで正しく弾けなかったぐらいで、その認識が揺らぐことはないし、その直感を疑うこともありません、と伝えました。
それに対する返事は、まだ届いていません。
けれども、やるだけのことをやり、十分に話し合った上で、やはりわたしには習いたくないという結論が出たのなら、それはそれで仕方のない事だと思っています。
気分を変えて。
これは、歩美ちゃん作の『松葉サイダー』。
歩美ちゃんいわく、
「黒糖をお湯で溶かして冷ましたところに、ある教会の裏の、良質の湧き水をたっぷり吸い込んだ松の葉っぱを、ギシギシに詰めただけ」だそうで、
松葉についている酵母が働いて、ブクブクと泡立ってきて、はじめはサイダーになり、それを放っとくと酒になる…ひぇ~!
裏庭のガラスのテーブルの上に置いておくと、
そして次の朝、
歩美ちゃんは、我が家に、いろんな楽しいものを持ち込んでくれます。
これもそのひとつ。
大きめの鉢に植え替えたら、どんどん大きくなってきたよね~などと、イチジクの木を挟んで話していたら、
コロン…。
え?なに?
まるで、ワタシを食べてね、とでも言うように、黄緑のイチジクの実がひとつ、地面に落ちたのです。
え~!まだこんな緑なのに~!と言いながら、歩美ちゃんが拾い上げると、
「あれ?柔らかい!」
ほんま?あ、ほんまや、柔らかい!
ということで、早速3人で分けんこしていただきました。
皮まで一緒に食べられるぐらいに柔らかく、とぉ~っても美味しかったです。
ほいじゃ~ついでに裏の畑も!と勢いづいて、小松菜とアルゴラを。
残りものの茄子と厚揚げの煮浸しに加えて、みんなで美味しくいただきました。
どんな時にもお腹は空く。
だったら、こんな時こそ、太陽の光をいっぱい浴びた新鮮な野菜を食べて、力をつけないと。
などと、贅沢なことが言える環境に、心から感謝しつつ。