ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

核保有国は、地球上に住む70億人のために、人類を覆う核兵器の脅威に終止符を打つべく行動せよ!

2014年08月17日 | 日本とわたし
まずは下記の青文字をクリックしてみてください。
↓↓↓
http://www.nuclearzero.org/jp?key=36303569#npt1

これは、Facebookで教えてもらった、マーシャル諸島が起こした訴訟です。
マーシャル諸島は、今年の4月24日、国際司法裁判所とアメリカ合衆国連邦裁判所に対して、画期的な訴訟を起こしました
わたしも今日、声のひとつになりました。

訴訟の内容は、以下の通りです。

9つの核兵器保有国は、世界の核兵器の削減を目的とする、核不拡散条約(NPT)と国際慣習法の下で、
核軍縮の義務を果たしていません

表明しましょう。
世界の指導者は、「核ゼロ」は人類の意志であることを知る必要があります。
「核ゼロ」の支持者となり、あなたの声を加えてください。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

核保有国は、地球上に住む70億人のために、人類を覆う核兵器の脅威に終止符を打つべく、行動すべきです。
私たち全員が関係することです。

核兵器は、この地球上で、私たちが愛し大切にする、あらゆるものを脅かします。
核「ゼロ」の約束の実現を迫り、核兵器のない世界を求めるこの国、マーシャル諸島の勇気を、私たちは人類の未来のために支持します。

だからこそ、核兵器の廃絶に向けた議論を開始するという、道徳的な責任と法的な義務を果たすよう、核保有国に訴えます。

核兵器が「ゼロ」になって初めて、この世界は安全になるのです。
http://www.nuclearzero.org/jp


1946年~1958年
マーシャル諸島は、この期間、アメリカ合衆国の核実験場となっていました。

67
核実験場であった間、マーシャル諸島で67個の核爆弾が爆発しました。

1.7
12年間毎日、広島原爆級の核爆弾1.7個相当分が、爆発していました。

1,000x larger
アメリカが、マーシャル諸島で爆発させた核爆弾のうち、最も大きなキャッスル・ブラボーという核爆弾は、広島の核爆弾の1000倍以上


核保有9カ国
■NPTに加盟している5カ国
アメリカ合衆国
ロシア
イギリス
フランス
中国


■4カ国は、NPTに加盟していませんが、
国際慣習法による義務を守らなければなりません

イスラエル
インド
パキスタン
北朝鮮


数はうそをつかない。


17000発の核兵器。

何度も文明を破壊するに十分な数です。


1000億ドルが、
地球規模で、核軍備に毎年使われています。
それらは、教育、雇用、健康の維持、浄水のために、使うことのできるお金なのです。


ゼロ

これは、世界規模で、軍縮をするための交渉です。


核不拡散条約
核不拡散条約は、核兵器の拡散を防ぎ、核保有国に軍縮交渉を義務付けています。
条約は1970年に発効し、190か国が署名しています。
この数は、あらゆる条約の中で最も多いのです。



誠実な点
核不拡散条約第6条
この条約の締約国は、早期の核軍備競争の停止および核軍縮、並びに、
厳重で効果的な国際的管理のもとでの、全般的で完全な軍縮に関する条約について、誠実に交渉を行う義務があります。

ダメなところ
核保有国は…、
○少なくとも、21世紀の終わりまでずっと、核兵器の配備を積極的に計画しています
○核兵器の、最新化への投資を続けています。
○核兵器を禁止し廃絶させるための必要性について、議論する多角的なフォーラムを無視しています

44年経っても、
交渉は見られない・・・。
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米国『フリーでシビアでジョイフルなジャズコンサート』事情

2014年08月16日 | 音楽とわたし
夏休み最後の日、海から戻ってボォ~ッとしていると、「やっぱ行ってくる!」と言って、旦那は歩いてでも行ける近所の公園に、甥っ子と二人で出かけて行きました。
ずっと前から、いつも行き過ごしていた、町の『ジャズフェスティバル』が、昼から夜の9時まで行われているからです。

う~ん…行きたい気もするけど、もうクタクタだしなあ…などとグズグズしていると、

「今から甥っ子は歩いて帰るって言ってる。まうみはどうする?」と旦那が聞いてきました。
そして、「めっちゃいい感じだけどね」と。
う~んう~ん…やっぱり天気は上々で、こんな夕方に、芝の上に座ってジャズを聞くのはさも気持ち良かろうという気に押され、やっぱり出かけることに決めました。

まずは後ろの方からジワジワと。






どこもかしこも、思い思いの椅子に座って、のんびりジャズを楽しんでる人でいっぱいです。


ミキシングをしている人も、どことな~くのんびり。


ビッグバンドは、JAZZ HOUSE KIDSで勉強してる子どもたち。


ほんとに、それぞれの楽しみ方で過ごしています。


出店も、町で人気のパブレストランが出店をしていたりで、行列ができていました。




なんとなく秋っぽい空。


さてさて、大御所(子どもたちの先生でもある)の登場です。
ギターはJOHN SCOFIELD、ドラムはANTONIO SANCHEZ、そしてベースはCHRISTIAN MCBRIDE。




そして司会は、ロー&オーダーの役者さんであるS. EPATHA MERKERSONさんと、WBGOの名物アナウンサーGARY WALKERさん。
いやはや、なんとも豪華なメンバーです。


こんな贅沢な楽しみを、無料で、しかも気持ちの良い外で味わえるなんて…。


ほんっとに楽しそう。










少しずつ日が暮れて、


ホットドッグをかじりながら、


ウッドベースからエレクトリックに。




これは夏か秋か?




傘おばさん。


これぞジャズの真髄、みたいな演奏中。


いやあ、楽しかったね~。




最後の舞台は、ベボ・バルデスの息子、CHUCHITO VALDES。お父さんと同じく、ピアニストであり、バンドリーダーであり、作曲&編曲家です。




会場は大盛り上がり。あちらこちらでダンスが始まりました。




白熱してきたのでジャケットを脱ぎ~の、


立ち上がり~の、


いやもう、とんでもなく楽しい半日となりました。

さらにもうひとつ、昔教えていた生徒の親御さんたちに会い、いろいろと話しているうちに、
彼はもう19才になって、ヒゲを生やし、ギターを一所懸命に習っていて、しかも子どもたちを教えていることを知り、なんとも嬉しい気持ちに。
コンサートが終って、彼がやって来たのですが、すっかり大きくなって(当たり前か)、すれ違っていただけならまるで分かりません。
どんなことに今、一番熱中しているかを話しながら、「ボクね、今になって、あの時まうみが言ってたことの意味が、いろいろと分かってきたよ」としんみり。
「どうしてもっと早くに気づかなかったんだろう」と言う彼に、
「気づくことが大事で、それがいつだったかは別にいいと思う。なにより、ピアノでなくてもあなたが音楽を続けていること、そのことで楽しんだり苦しんだり考え込んだりしてることが嬉しい」と伝えてハグ!

音楽ってやっぱり、いい!
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米国『大人も子どもも夏休み』事情

2014年08月16日 | 米国○○事情
毎年ほぼ恒例になった、親族そろって海辺に集合〝夏休み〟を過ごしました。
今回は、両親、旦那姉一家+一人娘の親友ちゃん、旦那弟の息子、そして我々一家、という構成でした。
毎回必ず、旦那母が、この合宿っぽい1週間のための、食事と片付けの当番を決めて、それをメールで送ってくるのですが、今年はなぜかシーンとしたまま。
とりあえず、これだけは持ってきて欲しいという物のリストだけが送られてきました。
我々はトイレットペーパーと食用油、そして自分たちが作ろうと思っている料理の食材。
もちろん今年も、お箸とよ~く研いだ包丁、そしておろし器を持参しました。

出発の朝、旦那はアリゾナ州から飛んできた甥っ子を空港まで迎えに行き、わたしは生徒を教え、バタバタと身支度をして(当日までにしておけよ!)出発。
今年の夏は、なんとも気持ちの良い天気が続いているので、日常がずっと日常ではなく、この海行きがいつもよりは特別な感じがしないなどと、なんとも贅沢なことを考えながら、

旦那いわく、世界の3本の指に入るらしいコンビナートを通り過ぎ、


片道8車線の橋を渡り(いくら誰もがバラバラに夏休みを取るからといっても、全国一の人口密度を誇る我が州のこと、要所要所はこんな感じで混み合います)、


なぜか、いっつも写真を撮りたくなる中央分離帯を通り過ぎ、


アバロンに到着。


今回、父が借りてくれた家は、なんと海から3軒目、浜辺に行くのにとっても楽ちん。




今日からみんなが集うダイニングキッチン。


寝室各種。








ここは別格。主寝室。


部屋続きのお風呂。


こちらも部屋続きのリビング。突き当たりの窓辺では、海を見ながらトレーニング。




外回りはというと、






みんなのシーツとタオルセット。


1週間、お世話になります。

たった一晩しか泊まることができないモーレツサラリーマンの次男くん、かき氷屋さんに変身中。


満月の夜。






一夜明けて。皆が歩きやすいように、浜辺をガリガリする車。


やっぱりガラガラ。


甥と伯父。


ミニチュアの海で、ちっちゃい子が無心に遊んでいました。


宣伝セスナ。


監視員が決めた範囲内でしか、遊ぶことが許されなくて、少しでもオーバーすると即「ピィ~!!」と笛を吹いて注意されるので、滅多に使われない救命用ボート。


絶賛食事中!


こちらの方も絶賛食事中!


水上ハングライダー。


合宿4日目、週間予報ではこの日だけが雨だというので、車で15分の隣町にゴー!

この、好きなように見なはれ~…な感じが好き。


ドライブ中に発見したすごい事。


出発前から少しずつ、読んでくださる方が増え続けていたのは知っていましたが、本当に驚きました。
読んでくださった方、それを伝えてくださった方に、心から感謝!!

波止場近くのカフェで、ランチのサンドを食べて、


古い家が並ぶ通りを過ぎ、
 

        

お天気が悪い日には大にぎわいの、観光客用の広場に到着。
お土産に、ソルトウォータータフィーをゲット。


タフィー屋さんには、ファッジも必ず売ってます。


いよいよ雨が降りそうなのに、まだまだにぎわう広場。


毎年同じことを書きますが、食事当番はまず、ベジタリアン、甲殻&貝類アレルギー、豆&ナッツ類アレルギー、イチゴ&魚アレルギーの人たち用に、メニューを考えるか、作り方を変えなければなりません。
で、これは、酢豚を作ろうとしているところです。


豚肉を入れないけれども、醤油はオッケーなベジタリアン用、豚肉はいいけれども、醤油は入れられない豆アレルギー用、そしてなんでもオッケー用に分けます。
わたしは日本料理ばかり作るし、皆それを楽しみにしてくれるのですが、醤油や味噌を使えないというのはかなり痛手です。
なので、毎年どうしようかとあれこれ悩んで、結局はなんということもないものを作って終わり…成長ってもんがありません…いやはや。


ボードウォークにも行ってみました。
なんか面白そうだと思って写真を撮ったら、「あかんあかん!」と係員さんに叱られました。
彼らの写真を撮って売るのが商売だったみたいです…「そんなことぐらい解れよ」と横で旦那が呆れ顔。


やっぱボードウォークは夜の方が楽しい。


絶叫マシーンが並ぶ一角。


いっぺんは乗ってみたいと、ずぅっと思っていたわたし…フラフラと近づいて行くと。
フリーショットゲーム実地版。


その横では、フリーシュートゲーム実地版。


恐る恐る「あれ乗ってみたい」と言うと、なんと奇跡が。


一番ユルそうに見えたのに…一振りされただけで、腹の底から後悔しました。
ブランコのでっかいの、ぐらいに考えていたわたしがバカでした。
胃袋が口から出て来ないように、固く唇を閉じ、目ももちろんギュウッと閉じて、ひたすら機械が止まるのを待つしかありません。
旦那が横で「うわぁ~うわぁ~」と叫んでいて、どうしてそんなことができるのか、不思議でなりませんでした。
席から降りると、体がフラフラして、唇全体がジンジンと痺れていました。
40代のうちは、息子たちと一緒に、率先して乗っていた木造のジェットコースター。


大勢のカモメが、その上空を飛んでいました。


ファジー屋さんのデモンストレーション。




歩き疲れた人のための乗りもの。一回3ドルはチト高い。




なぜかこんな所にも教会が…コミック仕立てで若者が語っています。



毎日、きれいな夕焼けが観られました。







姉と弟。


3人並んで話しながら歩いている時、突如右足がズボリッ!?
えっ?!なに?!
最初の10秒ぐらいは、いったい何がどうなったのか分からず、3人ともに呆然と突っ立ったまま。
といっても、わたしは片方が膝上まで埋まっていたので、かなり傾いていたのですが…。
どうしてなのかなあ…「なんでこうなるのっ!」…欽ちゃん風に(古っ!)自分で自分にツッコミ入れながら苦笑い。
広い広~い浜辺の中の、足一本でいっぱいいっぱいになるような穴に、なんでわざわざ…。
この夏は、周りの人たちが全く予想もしない、気づく間もない間に、吹っ飛んだり突っ込んだり…二度ある事は三度あるにならないように気をつけないと。

この穴です。
痛みが少し引いてから写真を撮りに行くと、いつの間にかスコップが差し込まれていました。


もっと早よから突っ込んどいてよ…と、独りゴチながらパチリ。


浜はやっぱりスキスキ。


遠浅できれいです。




まさか…。


まさかではなく、良い波を待っては波乗りしているカモメくん。


こちらでも。


「来ねえなぁ~…」


これは自然でしょうか?


こんなふうに、南北にずぅ~っと続いている浜辺に、ポツンポツンと監視員ベンチが置かれ、彼らの目の届く範囲だけで遊びます。


凧揚げも。


貝集めは楽しみのひとつなのですが、いいのが見つかった!と喜んだら、殻だけではなく、主がいました。




かなり迷った(大人のくせに)けれども、海に戻してあげたら?とみんなに言われ、持ち帰るのをあきらめました。
持ち帰るっていう意味、分かってる?
うん。
どうすんの?
茹でた後、中身を出して…ほんでもってええとええと…。
じぃ~~~。
かなり呆れる長男くん。

もうすぐ10才の可愛い姪っ子。
  


今回の合宿中は、思い存分ゆったりのんびりさせてもらいました。
とはいっても、ついつい台所に立って片付け始めるわたしを、「あ、あ、あ、またまた、まうみは退場!」と追い払う母と旦那姉。
いわゆる姑と小姑ですが、彼女たちはわたしに、なんとかして働かないようにさせようと、二人して見張るのです。

追い出されてベランダに出ると、父も一緒に出てきました。
この家族の仲間入りをさせてもらった日から22年。
幼児だった息子たちも20代後半になりました。
わたしから結婚を迫られ、大いに混乱し、なんとか事無きを得ようと断り続けていた当時の旦那と、同じ年になったわけで、
やっと決心して、というか根負けして、わたしとの結婚を報告しに実家に戻った26才の旦那を前に、いったいどんなことを思ったのか知りたくなって尋ねると、
「う~ん…あんまり覚えてないなあ」と一言。
「えぇ~!そんなはずないでしょ~。だって、自分たちも良く知らない極東の国にプイッと行ってしまったと思ったら、
これまたどこの馬の骨だかもわからない、しかも10才近くも年上の、さらには二人の幼児を抱えてる女と結婚するやなんて、とんでもないことだったんでしょうに?」
「どうして?」
「え?いや、どうしてって言われたら…」
「彼は大丈夫だと信じてるからね、その彼が決めて、そうしようと思ったんだから、僕たちはただ、必要とあらば応援するよと言ったんだ」

う~ん…と唸っていると、母と旦那も出てきて、
今度は父が母に、まうみからこんなことを聞かれたと、同じことを母に尋ねると、「わたしもあんまり覚えてないわ」とあっさり。
マジか…。
なんという信頼。なんという愛。
その後、極貧中の極貧から始まった生活の戦いの中でさえも、彼らから近況を尋ねられるたびに、
「僕たちは大丈夫、ちゃんとできてるよ、だから全然心配しないでいいよ」と答えていた旦那の態度の意味が、少し分かったような気がしました。
今となっては、ですけれども。
だって、その当時は横で、「どこが大丈夫じゃ~!なにが全然心配しないでじゃ~!」と、心の中で叫びまくってましたから。
意地を張っている、というようなことではなかったのかもしれない。
そうやってでも、地べたを這ってでも、ギリギリのギリギリまでは自分たちの力で生きる。
それが、自分が受けている信頼に応えることになる。
その覚悟が、旦那にはあったのかもしれません。
で、今の息子たちが、その年になっていると。
人生ってやっぱり、おもしろいです。

その翌日、父がわたしを呼び止めて、こんなことを言ってくれました。
「昨日、急にあんなことを聞かれて、あんまり覚えてないって答えたんだけど、あれからずっと考えていたんだよ。
あの日のこと、それから今までのことなんかをね。
で、まうみやまうみの息子たちが、うちの家族になってくれたことがどんなに幸運だったかって、それがしみじみと思えてね、よかったよ」

照れ臭いのと嬉しいのとで、胸がじーんと熱くなりました。
こんなことを言ってもらえる嫁がいるでしょうか?
いや、きっといると思うけれども、まさかこの自分が言ってもらえるとは思ってもいませんでした。


最終日の片付けを済まし、冷蔵庫の余り物を分けんこして、いざいざ我が家へ。
いったいどうして、ここまで来て運動せにゃいかんのだと、ブツブツ言う旦那。


寝ぼけ覚ましのコーヒーを買いに。カフェの前のアスファルトには、海の町らしくこんなものが。
  

  

土曜日は、皆が帰ろうとするので、道がかなり混みます。


大きな橋を渡り、


その橋から見える工場と、


原子力発電所…。



さあ、日常に戻りましょう!
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「ビリョクだけどムリョクじゃない」百万人以上の核兵器廃絶署名を国連に届けた長崎の高校生達の合言葉

2014年08月10日 | 日本とわたし
8月恒例の、海辺での1週間を、旦那の親族4家族といっしょに過ごしています。
バタバタと準備をして出かけてしまったので、いったいどこに消えてしまったのかと心配してくださっている方もいらっしゃると思います。
ごめんなさい。

この、長崎の平和宣言は、出かける直前にここに転載させていただいていたものです。
出先では、インターネットが使いにくく、思い切ってネット無しで過ごそうと決めたのですが、
やはり気になって、携帯でチラチラと、ツィッターだけは読んだりしていました。

すると…二つ前の『焼き場に立つ少年』についての記事を、とてもたくさんの方々が読んでくださり、
またそれとともに、たくさんのコメントをいただいていることが分かり、大変に驚きました。
コメントはひとつひとつ、携帯の小さな画面で読ませていただいています。
記事を読んでくださった方、伝えてくださった方、そして読んだ感想や考えをコメントとして残してくださった方、
ありがとうございました。
ただ、ここまでを記入するにも四苦八苦しているような状況ですので、お返事させていただくことは到底不可能です。
申し訳ありませんが、あの記事のコメント欄の中では、わたし自身のものも含め、たくさんの意見が交わされていますので、
ご面倒をおかけしますが、時間がおありの時にでも、それらに目を通していただけたらと思います。

「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、わたし自身が毎日、呪文のように自分に向かって唱えてる言葉です。
その言葉に偶然出会えて、とても嬉しく、また勇気が出ました。
イケナイと思うこと、オカシイと感じること、イヤだと思うこと、
そこには理屈もへったくれもありません。
こんなふうに言うとまた、感情論だと言われるのでしょうけれども、
人としてどうなのかという疑問や畏怖の念が根底に無い物事が、これ以上増えていくことを黙って見過ごすわけにはいきません。
言いにくくても、考えにくくても、人として生き、人と関わり、未来につなぐという使命を持つ以上、ムリョクでいるわけにはいきません。
「ゼロになにを掛けてもゼロ」
これは、長男が高校生だったかの時に、好きだった言葉です。
彼の机の上の小さな額の中に、マンガのキャラクターと一緒に書かれていました。
長崎の高校生たちが合言葉にしている「ビリョクだけどムリョクじゃない」と、心に響いてくるものがとても似ている、すてきな言葉だと思います。

戦争は政治の外交の一端であると、どなたかがおっしゃっているのを読んだことがあります。
その国その時の政府の、外交においての力量、知識、常識、そして人間性の良し悪しが、戦争を食い止めるか否かの分かれ目めになると。
首長になるような者はだから、時と場合によっては、自分の命をかけなければならないような局面に立たされることを、覚悟しなければなりません。
すでに軍が在り、有り余るほどの武器を持つ国は、まずそれらの効力を試したいし、使用期限が切れてしまう前に使い切りたい。
そしてもっともっと儲けて、もっともっと世界を牛耳りたい。
そのためにはどんな嘘でもつくし、恐ろしい話をたくさん作り、それを信じ込ませるためのお膳立てを、権力とカネに任せてやり続けます。
そこには、人や自然の命、町や文化への配慮などは全く存在せず、武器を使うことのみに執念を燃やす、異常な人たちの異常な思考が有るのみです。
そしてその異常な人たちは、それが最も良いことのように、それしか選択肢が無いかのように洗脳できるシステムを、前もってしっかりと組み立ててあるので、
決めてしまいさえすれば、後は簡単そのもの、あれよあれよという感じで、社会の流れが変わっていってしまいます。
物騒な国がすぐ近くにあるから。
だから自分の家族を守らなければならないから。

戦争は、市民が始めるのではありません。
国とその軍、そしてそれらを陰で操るっている者たちが始めるのだけれども、それでは世間体が良くないので、
市民がうるさくせっつくから、市民がそれを望んでいるからという言い訳ができるよう、市民を巧みに騙します。
戦争をすると決め、市民を戦場に送り出す者たちは誰も、恐ろしい目にも遭わないし、ましてや死ぬこともありません。
態勢が悪化し、危険が身にふりかかるとなったら、真っ先に、家族もろとも、安全なところに逃げられる人たちです。

自分の家族を守るために、などと考えているのは、なにか勘違いをしているように思えてなりません。
いったん戦争というものが起こってしまえば、守るもなにも、市民はただただ逃げることしかできません。
恨みをかってテロを起こされても、ただただ逃げることしかできません。
銃社会のこの国でさえ、テロが起こったからといって、市民が銃を手に町をウロウロしたりしません。
敵が目の前に現れないのだから。
それが現代の戦争でありテロであるのです。
個人的自衛のためなどといって、どんな悲惨な事件が起ころうと、いまだに銃を手放せない。
日本の方々は、それを愚かだと思っていたのではなかったのですか?
個人的にせよ集団的にせよ、武器を手に入れることが愚かであることにかわりはありません。
キリが無くなってしまうのですから。
キリが無い、終わりが見えない未来は、原発事故の処理だけで十分ではないのですか?


平成26年長崎平和宣言
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/appeal/

69年前のこの時刻、この丘から見上げる空は、真っ黒な原子雲で覆われていました。
米軍機から投下された一発の原子爆弾により、家々は吹き飛び、炎に包まれ、
黒焦げの死体が散乱する中を、多くの市民が逃げまどいました。
凄まじい熱線と爆風と放射線は、7万4千人もの尊い命を奪い、7万5千人の負傷者を出し、
かろうじて生き残った人々の心と体に、69年たった今も癒えることのない、深い傷を刻みこみました。

今も世界には、1万6千発以上の核弾頭が存在します。
核兵器の恐ろしさを身をもって知る被爆者は、核兵器は二度と使われてはならない、と必死で警鐘を鳴らし続けてきました。
広島、長崎の原爆以降、戦争で核兵器が使われなかったのは、被爆者の存在とその声があったからです。

もし今、核兵器が戦争で使われたら、世界はどうなるのでしょうか。
 
今年2月、メキシコで開かれた「核兵器の非人道性に関する国際会議」では、
146か国の代表が、人体や経済、環境、気候変動など、さまざまな視点から、
核兵器がいかに非人道的な兵器であるかを、明らかにしました。
その中で、もし核戦争になれば、傷ついた人々を助けることもできず、
「核の冬」の到来で食糧がなくなり、世界の20億人以上が飢餓状態に陥るという、恐るべき予測が発表されました。
 
核兵器の恐怖は、決して過去の広島、長崎だけのものではありません。
まさに、世界がかかえる “今と未来の問題” なのです。
 
こうした核兵器の非人道性に着目する国々の間で、核兵器禁止条約などの検討に向けた動きが、始まっています。
 
しかし一方で、核兵器保有国とその傘の下にいる国々は、核兵器によって国の安全を守ろうとする考えを、依然として手放そうとせず、核兵器の禁止を先送りしようとしています。
 
この対立を越えることができなければ、来年開かれる、5年に一度の核不拡散条約(NPT)再検討会議は、なんの前進もないまま終わるかもしれません。
 
核兵器保有国とその傘の下にいる国々に、呼びかけます。
 
「核兵器のない世界」の実現のために、いつまでに、何をするのかについて、
核兵器の法的禁止を求めている国々と協議ができる場をまずつくり、対立を越える第一歩を踏み出してください。
日本政府は、核兵器の非人道性を一番理解している国として、その先頭に立ってください。
 
核戦争から未来を守る地域的な方法として、「非核兵器地帯」があります。
現在、地球の陸地の半分以上が、既に、非核兵器地帯に属しています。
日本政府には、韓国、北朝鮮、日本が属する北東アジア地域を、核兵器から守る方法の一つとして、
非核三原則の法制化とともに、「北東アジア非核兵器地帯構想」の検討を始めるよう,提言します。
この構想には、わが国の、500人以上の自治体の首長が賛同しており、これからも賛同の輪を広げていきます。


今、わが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方について、さまざまな意見が交わされています。
 
長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。
日本国憲法に込められた、「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
 
被爆者たちが、自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。
日本政府には、この不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。


長崎では、若い世代が、核兵器について自分たちで考え、議論し、新しい活動を始めています。
大学生たちは、海外に、ネットワークを広げ始めました。
高校生たちが国連に届けた、核兵器廃絶を求める署名の数は、すでに100万人を超えました。
 
その高校生たちの合言葉「ビリョクだけどムリョクじゃない」は、
一人ひとりの人々の集まりである市民社会こそが、もっとも大きな力の源泉だ、ということを、私たちに思い起こさせてくれます。
長崎はこれからも、市民社会の一員として、仲間を増やし、NGOと連携し、
目標を同じくする国々や国連と力を合わせて、核兵器のない世界の実現に向けて、行動し続けます。
世界の皆さん、次の世代に、「核兵器のない世界」を引き継ぎましょう。

 
東京電力福島第一原子力発電所の事故から、3年がたちました。
今も多くの方々が、不安な暮らしを強いられています。
長崎は、今後とも、福島の一日も早い復興を願い、さまざまな支援を続けていきます。

 
来年は、被爆からちょうど70年になります。
 
被爆者は、ますます高齢化しており、原爆症の認定制度の改善など、実態に応じた援護の充実を望みます。
 
被爆70年までの一年が、平和への思いを共有する、世界の人たちとともに目指してきた、
「核兵器のない世界」の実現に向けて、大きく前進する一年になることを願い、
原子爆弾により亡くなられた方々に、心から哀悼の意を捧げ、
広島市とともに、核兵器廃絶と恒久平和の実現に努力することを、ここに宣言します。

2014年(平成26年)8月9日
長崎市長 田上 富久
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米国『あなたはだぁれ?』事情

2014年08月07日 | 米国○○事情
今日の主人公さん。


後ろから見たら、


さらに真後ろから見たら、


あなたはいったい…、


このモヤモヤを、蜘蛛の巣かなにかの埃だと勘違いして、お箸で取ろうとしたら…毛の一部だった…。


いい加減にせんかっ!とばかりに、頭を上げて、フリフリしながら怒ってた。



今日もたいへんに良いお天気で、乾いた風が心地良い、なんとも過ごしやすい一日だった。
これがもし今年の夏の特徴ならば、これはもう、冬の超~厳しく、超~長かった寒さに耐えたご褒美か?などと、都合よく考えてしまう。
日中は25℃ぐらい、朝晩は17℃ぐらい。
エアコンはもちろんのこと、扇風機すら要らない。

トマトは今日も順調に育ち、


ちょっとこのトマトは順調過ぎていて、わたしのコブシの二つ分ぐらいある。


そろそろブラックベリーは終焉を迎え、


そのすぐ横では、オクラの花がボチボチ咲き始めた。


リスたちが、両手で抱えて食い荒らす松ぼっくり。この季節、ドライブウェイに食べカスが一面に散らばる。


ショーティの墓守りをしてくれてるカエルの夫婦も、炎天下ではなく心地良さげ。


前庭トマトと裏庭アルゴラのサラダ、そして裏庭コマツナのニンニクショウガさっと炒め。


ごちそうさま。
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あなたはこの、『焼き場に立つ少年』の写真を見てもまだ、戦争はしょうがないと思いますか?(再掲)

2014年08月07日 | 日本とわたし
この記事は、2013年の5月2日に書いたものです。
またあの、ふたつの原子爆弾が、広島と長崎に落とされた8月がやってきて、それと同時に、この記事を読んでくださる人が、ちらほらと現れ始めました。
つい最近まで、ビデオの静止写真をうまく載せることができずにいたので、この記事も他と同じく、言葉のみの文字起こし記事だったのですが、
写真掲載が、以前より何倍も、きちんとできるようになりましたので、今回は写真付きのものにして、ここにもう一度載せておこうと思います。


↓以下、再掲載はじめ

今朝一番に、このビデオと出会った。
50分の、長いものだけども、どうしても記録として残しておきたくて、家事や仕事の合間を縫って、ほぼ一日かかって文字起こしした。
わたしは、この『焼き場に立つ少年』の写真を、先日、迷彩色の軍服を着て、うれしそうに戦車に乗ってた男に突きつけたい。

その男は権力者で、我々を権力(者)から守るために生まれ、権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかける憲法を、いじりたくて必死になっている。
まず、96条をいじり、その後、自分らの都合のいいように変えていくつもりでいる。
特に、平和憲法と呼ばれてる9条は、暴力の連鎖を断ち切り、人類の進むべき道を指し示す、世界にも誇れるもの。
それが、戦争という状況を作り、指揮官をやってみたくてたまらずにいるあの男らのような輩にはだから、9条は邪魔で邪魔でしようがない。

わたしたち主権者にとって、今ほどしっかりしなくてはならない時があるだろうか。
この今を、これまでのようにうっかり過ごしてしまったら、過ちをまたくり返すことになる。
歴史の中には、往々にして、そういう繰り返しが存在しているけれども、
くり返していいことと、絶対にくり返してはいけないことがある。

戦争に向かわされること。
知らないうちに、あるいは知らないふりしているうちに、すっかり巻き込まれてしまうこと。
もうそんな、世にも愚かな、悲しいことにならないよう、『焼き場に立つ少年』の写真を、心に血がにじむまで、刻み込んでほしい。



報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて) 

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。

(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]


ビデオは、残念なことに、この記事の画面に載せることができないので、以下の紫の文字をクリックしてください。
ぜひ、ビデオの中の現実を、みなさんの目で見てください。
お手間をかけてすみませんが、よろしくお願いします。


解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI Dailymotion

NHKスペシャル
解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子


一枚の原爆の写真が今、注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと、その写真について述べられたのです。

宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。



今から63年前、長崎の火葬場で撮影された、ひとりの少年。


背負っているのは、原爆で死んだ弟です。


弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。


歯を食いしばるその唇には、血がにじんでいたといいます。

撮影したのは、アメリカ海兵隊第5師団に属していた、ジョー・オダネル軍曹。


去年の夏、85才でこの世を去りました。

1945年、8月9日、一発の原子爆弾が、長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。


占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き、密かに、30枚の写真を撮影していました。


しかし、写真はその後、長い間公表されることなく、封印されてきました。

写真が隠されていたトランク。


オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し、公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが、今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに、戦争の意味を問いかけています。



オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ』

アメリカ・ネバダ州での収録

長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。


ホテルで働き、写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として、写真を引き継ぐことになりました。

父は、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には、絶対に開けるな、と告げていました。
しかし、アメリカに帰国してから43年後、父は67才の時、突然トランクを開けたのです。


そこには、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。
当時アメリカ軍は、決められたカメラでしか撮影を許していませんでした。
しかし、父オダネルは、密かに持ち込んだ自分のカメラで、撮影を続けていたのです。


残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。

なぜ父は、命令に背いて写真を撮影したのか。


タイグさんは、父の死をきっかけに、その思いに迫ろうとしています。


タイグ氏:
「どうして撮影したのか、なぜ43年間も隠したのか、父は何も話さなかった。僕はその真相を知りたいんです」

今年タイグさんは、遺品の中に、父の肉声を録音したテープを見つけました。


それは5年前、地元の図書館の学芸員が、戦争体験を集めるために聞き取っていたものでした。
長崎で何があったのか。
父オダネルは、軍隊に志願した理由から語り始めていました。

テープより
「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。
日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。

日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。
『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。
とにかくこれで、戦争は終わりだ』


終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。


被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。



テープより
「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」


長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。
爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。


千人を超す従業員が、亡くなっていました。

爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。


オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。

辿り着いた爆心地です。


アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。
新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。

テープより
「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」



爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。


アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。


父の写真を調べていた息子タイグさん、写真の変化に気づきました。


タイグ氏:
「人が写ってるみたいだ」

アトミック・フィールドの瓦礫の奥に、人影が写っていたのです。
それは、遺骨を抱えた家族の姿でした。


タイグ氏:
「また一人、人が写っている」

許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。
爆心地の近くで撮影された写真です。
この少年は、チョコレートを持っていたオダネルの後を、ついてきました。
周りに親の姿は見当たらず、背中に、傷ついた赤ん坊を背負っていました。



テープより
「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」


オダネルが出会った、幼い兄弟です。
瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルは、持っていたリンゴを差し出しました。


テープより
「年上の子どもが、私の手からりんごをもぎ取った。
彼らは飢えていた。
3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」


オダネルは廃墟の町で、祝いの衣装に身を包んだ少女に出会いました。


写真を撮った後、近づいてきた母親が、オダネルに言いました。
「この子は、爆音で耳が聞こえなくなったのです」


日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。


そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。

日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。


オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について、語っています。

テープより
「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。


彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。


彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」


あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。
ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。


テープより
「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。


あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。


私には理解できない」


父はどのような気持ちで撮影を続けたのか。
息子のタイグさんは、同じ任務についていた、元アメリカ軍のカメラマンを訪ねました。
ノーマン・ハッチさん(アメリカ海兵隊・元少佐)、87才です。
1945年の9月以降、GHQは、原爆報道の規制を強化していました。
記録班は、個人の感情を捨て、記録に徹しなければならなかったといいます。

ハッチ氏:
「私は、撮影対象との接触を避けた。
たとえその人が傷ついていても、死んでいたとしてもだ。
記録班が感傷的になる必要はないのだ。


私用のカメラなど許されない」

タイグ氏:
「あなたは、記録班は感傷的になってはいけないと言ったが、僕は、父は日本人の姿に心が動いたのだと思う。
確かに父は、軍人として失格かもしれない。


でも父は、感情を捨てきれなかった」


爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。


廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。
浦上天主堂です。


原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。

熱線に焼かれた彫像。


オダネルは、その目線の先を追いました。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。


長崎を南北に貫く浦上川。


そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。
少年は、背中に小さな弟の亡骸を背負っていました。

テープより
「ひとりの少年が現れた。
背中に、幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。


彼は黙って立ち続けていた。
まるで、敬礼をしているかのように。


裸足だった。
炎が、彼の頬を赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇を噛みしめていた。


そして何も言わず、立ち去っていった」


オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。
任務として撮影したネガは、軍に提出。
密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。


帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。

テープより
「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。


私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。


眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。


見ないという他に、私にはなにもできなかった」


苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。


アメリカに帰国後、オダネルは、長崎での記憶を語ることなく、新たな生活を始めました。
軍を退役してから結婚、妻エレンさんとの間には、ジェニファーさん、タイグさんという二人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。


タイグ氏:
「優しい父親でした。良い家族を築こうとしていました。
よく、ディズニーランドに連れていってくれた。
いつも家族一緒でした。

その家族が、唯一禁じられていたことがありました。

タイグ氏:
「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」

中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。


帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。
大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。


最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。
アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。

トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。


多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」


核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。
アイドル”ミス原爆”も登場。



日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。
オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。
それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。


テープより
「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』


彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。

『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」


母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。
オダネルは、苦悩を深めていきました。


陸軍!海軍!沿岸警備隊!海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。


退役軍人:
「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」


別の退役軍人:
「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」



オダネルの体を、異変が襲います。


背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。

テープより
「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。


かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。


1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。


その全身には、被爆者の写真が貼られていました。
腰には、爆心地を彷徨うふたり。


右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。


テープより
「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。
それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。


自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」

オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。


トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。

タイグ氏:
「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。
被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。
母にはショックが大き過ぎたんです」


1990年、オダネルは長崎の写真を引き延ばして、アメリカの各地で写真展を試みました。


しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、ほとんどありませんでした。

本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社、すべてに断られました。



終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真の展示も、地元の退役軍人の激しい反対で、中止に追い込まれました。


家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルを批判する投書も目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に、オダネルは孤立を深めていきました。

テープより
「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。


退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。


戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。


1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。


それは、100年経っても、間違いであり続ける。


絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」


封印していた写真と、再び向き合ったオダネル。


70才を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。
息子のタイグさんは、当時父の通訳をしていた人が、アメリカに居ると聞いて訪ねました。
リチャード・ラマーズさん(84)です。
父は長崎を訪れ、撮影した被爆者との再会を果たしていました。


救護所で撮影した少年は、一命をとりとめていたのです。
オダネルは、その少年、谷口稜嘩さんと十年に渡って交流し、共に日本で、原爆の過ちを訴えて回りました。


オダネルが最も気にかけていたのは、焼き場に立つ少年でした。

谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。

ラマーズ氏:
「オダネルは、この写真の少年に、とても思い入れがあった。


あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけたかったと、いつも話していた。
しかし、できなかったと」


日本で写真展を開きながら、オダネルは、少年の行方を探し続けました。


誰か知っている人はいないか、家族は生きていないかと、全国各地を訪ねて回りました。

テープより
「私は、少年を必死に捜した。
日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。


少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。

ついに、彼に会うことができなかった」



行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。
日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。


残されたテープを聞いていく中で、息子タイグさんは、その思いを知ることになります。


テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。


嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。


ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。


その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。


図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』

私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。


けれど父は、目撃してしまった。
その記憶に突き動かされたのだ。
もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」

母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。
その遺志をくみ、タイグさんは去年、全米に向けて、父の写真を公開しました。




写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は、必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』


イラク帰還兵からの声です。
『この写真は、戦争の現実を伝えている。
もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない』


写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。
母、エレンからのものでした。
離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。
『お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。
私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。
しかし私にはまだ、ジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのか、わからないままです。
ただ、これだけは確かです。
彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。
そしてその写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです』


タイグ氏:
「母は、父が遺した写真が、多くの人に何かを感じさせていることは、理解してくれています。
時間が経ち、アメリカは、十年前と少し変わってきています。
写真のような過去を見つめ、違った受け入れ方をする人も、増えているんだと思うんです」


ジョー・オダネルの死から、まもなく1年。


この夏、長崎(長崎原爆資料館)で、初の写真展が開催されました。


タイグさんも、遺族として招かれました。
会場で、被爆者の谷口稜嘩さん(79)と、初めて会うことになりました。
父オダネルが、63年前に撮影した、谷口さんの背中です。
「今現在の背中です。
新しいあとは、去年手術したんです」


タイグ氏:
「まだずっと、手術されているんですね」


タイグさんは父の足跡を辿り、写真に記録された場所を回りました。


(浦上天主堂の)彫像の目線の先に、かつて父は、焼け野原の長崎を目撃しました。




あれから63年。
長崎で、タイグさんは、子どもたちが遊ぶ姿にレンズを向けました。
それは生前、父が願っていた思いを、実現するためでした。

タイグ氏:
「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。
『いつか長崎で、笑顔の子どもを撮りたい』と。
それに応えたいと思ったんです」



原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた、長崎。
30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを、訴えています。

テープより
「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。


それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。


そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」



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「知事に誰がなっても、工事に支障が無い」←これが官邸の声。辺野古だけの戦いにしてていいんですか?

2014年08月05日 | 日本とわたし
沖縄の辺野古で、今まさに起こっている現実をリポートした『報道特集・ついに…緊迫の辺野古と“民意”』の、文字起こしをしました。
ユーチューブの動画は、ここに載せることができるのですが、
先日、動画の切り取り写真の掲載で四苦八苦していたわたしに、macchan211さんがすばらしい知恵を授けてくださり、まずまずの切り取り写真を載せることができるようになりました。
それが嬉しくて、写真付きでの文字起こしをしてみました。



報道特集
『ついに…緊迫の辺野古』

キャスター・金平茂紀
ナレーター・屋良有作


7月25日、沖縄県名護市の辺野古沿岸部。


アメリカ軍普天間飛行場の返還に伴う、新基地建設計画では、この一帯(キャンプ・シュワブ)が埋め立てられる。

「発電機、やっぱ夜にでもやるつもりだな。夜通し、突貫工事」


反対派の市民らが、カヌーなどに乗って監視する。


埋立工事に先立ち、政府は、7月中に、海底ボーリング調査を始める計画を立てていた。


上空から見た、キャンプシュワブ内。


海に張り巡らされるフロート(浮具)が、運び込まれているのが確認できた。


しかし、沖縄防衛局は、(ボーリング)調査をいつ始めるか、(開始の日程を)明らかにしていない


フロートやブイの設置が間近と見られていた夜、突如、シュワブのゲート前に、目隠しのためのフェンスが建てられた。


その奥で、鉄板を溶接しているのが見えた。


「防衛局職員、堂々と前に出て来い!」

政府は今後、埋立て区域のおよそ3.5倍にあたる区域を、ブイなどで囲い、立ち入り禁止とする



そして…。

金平氏;
「えー、キャンプシュワブのゲート前に来ております。
普天間基地の辺野古移設に伴う、様々な作業が、この基地の中でもすでに始まっていますけれども、
警備の方は、こういうふうに続けられています。
で、目につくのは、民間の(例えばALSOK)警備会社のガードマンが、こういうふうに警備の最前線に出ていて、


その、はるか後方に、沖縄県警の車が待機しているというような。


で、はるか向こうの方に、沖縄防衛局の人たちが控えている、というような、非常にまあ、不可思議な光景が広がっています。



ゲート前の歩道には、山型の突起がついた鉄板が敷かれていた


夜、設置していたのは、これだった。
沖縄防衛局は、
「道路の舗装の保護のためや、トラックの泥を落とすためのもの」と説明する。


しかし、反対派の人々は、
「座り込みなどをしにくくし、抗議行動を排除するためだ」と反発する。



7月28日。

ブイが設置されるのでは、と見られていた今週月曜日。
海上には、浮き桟橋が設置されていた。


警備に当たる海上保安庁のゴムボートが、停留されている。


反対派の舟と、海上保安庁による、にらみ合いが続いた。



一方、ゲート前でも…。

「お願いしますよ。帰ってください!」


資材を積んだトラックが来るたび、反対派の人々が止めようとしていた。


「普天間小学校、見てください。
子どもたちは、怯えながら勉強してるんですよ。わかります?」


工事を進める側、反対する側で、連日緊張が続く。


政府が、海底のボーリング調査に向けた作業を、本格化させる中で、抗議行動が激しさを増している。
「法律守れ!法律守れ!」


これは、そのボーリング調査に関し、沖縄防衛局が沖縄県に提出した資料。


情報開示された中には、ボーリング調査をどこで行うか、具体的な位置が分かる地図は入っていない


防衛局が、
「事業の適正な遂行に、支障を及ぼすおそれがある」として、
県に、
「不開示にするべき」と伝えているからだ。


政府は、2004年にも、辺野古沖で、海底ボーリング調査に着手したことがある。
その時は、反対派の激しい抗議活動により、中止に追い込まれた






情報を開示しないのは、そうした事態を避けるためなのか


今年1月、辺野古の海を抱える名護市長選で、市民が選んだのは、基地建設反対を訴える、稲嶺進氏だった。


「名護市の未来は、守られました」


しかし政府は、その後も、工事の動きを進めている


稲嶺進・名護市長:
選挙を通して、市民の意思がはっきりと表されたにもかかわらず、そりゃ全く無視ですよね。
ていねいな説明どころか、情報の開示ということも全く為されていない。

金平氏:
ある種の、(政府からの)情報提供というかね、情報開示みたいなものは、地元の首長にはあるんですか?


稲嶺市長:
いやいや、そりゃもう一切ありません。
ある日突然始まって、しかもそれは、「一体どうなってるんだ」というふうに尋ねると、「いやこりゃ県からちゃんと許可を得てるんだ」


住民たちはどんな思いを持っているのか。
基地建設予定地の対岸に暮らす、元小学校教師の、松田ふじ子さん(74)。


これまで、政治的なことには関わってこなかった。
地域のしがらみが強い中で、基地について発言することは難しかったのだ。

しかし、今、基地建設反対の先頭に立つ。

松田氏:
地域の主人公は私たち…これを前面に出して」


6月には、地区のおよそ7割に当たる人々から、署名を集め、防衛局や県に提出した。


松田さんを突き動かしたのは、これまで県外移設を訴えていた仲井真知事が、去年末、埋め立てを承認したこと
そして、市長選で示された民意が、無意味なものであるかのように扱われたことへの憤りだった。


松田氏:
沖縄の心に寄り添って、とかね、理解をしてもらうって言うんですけど、だって、こちらに、一度もいらっしゃらないでしょ
賛成派のところにだけ向いてやってますので、許されないでしょ、こんなことは。
何の説明も無くて。


今日の海もきれい…。



基地ができれば、対岸に滑走路ができる。
静かな日常は、今後どうなるのか。
今、声を上げなければ、本当に基地ができてしまうと、焦りを覚える。


さらにこの動きは、経済界にも波及している。
沖縄で、ハム製造会社を経営する長濱徳松会長は、経済界の有志が、翁長氏を支援するために立ち上げた団体の中心人物だ。


長濱会長らの団体は、「基地はむしろ、経済発展の阻害要因だ」として、県内移設の断念を求めている

長濱氏:
これまではね、まあ保守対革新といえば、経済界はだいたい右手を挙げたが、そうじゃないと。
今度は、生活権の獲得のため、生きるために戦おうと。


先週日曜日、普天間基地の閉鎖と、県内移設の断念を求め、保守と革新の枠を超えて呼びかけられた集会に、およそ2千人が参加


壇上では、翁長氏を推す自民党議員や野党の議員が、肩を並べた


従来の枠組みを超えた、翁長氏への支持。


金平氏:
名護市のキャンプシュワブにね、あそこに今朝まで居たんですけど、
山型の鉄板というのがね、あれが敷かれた場所っていうのはまさに、座り込みが行われていた場所で、
あれが置かれたってことは、抗議行動の人たちから見ると、絶対に座り込みはもうさせないぞ、というようなね、
露骨な意思表示ではないか、といったふうに捉えられてもしょうがないな、という思いがしましたけれども、
あと、安全じゃないですね。
あれが置かれると、何かあった時にすごく危険だな、というふうに思ったんですが。


それから、民間のガードマンが、一番最前列に、基地の警備にですよ、そこに出てるっていうのは、僕は見たことがない光景でね、
その後ろに県警が居て、で、その抗議行動とか僕らを撮影したりしてますよね。


その一番後ろに、防衛局の人たちが居るっていう構図も、なんか不思議だなって思ったんですけども、

VTRで、官邸の声として、「知事に誰がなっても、工事に支障が無い」なんてこと言ってましたですけどもね、
地元に対して、何の説明も無いままに、問答無用っていうか、聞く耳を持たないっていうようなことで工事を進めるっていうのは、
民主主義の原理に照らしてどうなんだ、というような非常に強い疑問を持たざるを得ないですけどね。
コメント (4)
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「報告を受けていながら対策を指示せず事故を起こし、死傷者を出した責任は問われるべき」

2014年08月04日 | 日本とわたし
この日本地図は、今年の5月のはじめ、NHKの『クローズアップ現代』の、人口減少問題を取り上げた番組の中で、スタジオの床に置かれていたものです。



福島県が真っ黒に塗りつぶされていて、そのことが当時、ネットの中で騒がれていました。

どうしてだったのか。
それは、福島県が、データを出せなかったことが原因だということでした。



こんなふうに、どのような理由であれ、自分が今暮らしている、あるいは暮らしていた町や村や市が、真っ黒に塗りつぶされるのはたまらない。
こんなふうに、データが出せなくなる地域がまたどこかにできて、真っ黒に塗りつぶされてはたまらない。

でも、重大事故から3年半近く経った今でもなお、国と電力会社は、再稼働は当たり前だと言わんばかり。
事故を起こした東電は、黒字を出し、それをマスコミはそのまま報じています。

こんなトンチンカンで間違ったシステムが、どうして今も生き残ることができるのか。
こんな酷い環境にして、人を苦しめている側の人間や会社が、どうして今も、普通に暮らし、儲けていられるのか。

それは、どんなことが起こり、どんなことになっても、その責任を問われないよう、万全の装備を整えているからです。
そのことが、わたしには理解し難く、また悔しくてならないことでした。
ところが今朝、こんなニュースを目にして、少しだけ光が見えてきたような気がします。

「報告を受けていながら対策を指示せず事故を起こし、死傷者を出した責任は問われるべき」

その通りだと思います。至極最もなことだと思います。
第一次安倍内閣の時に、警告を受けたにも関わらず、オウムのように同じ言葉を使い、ナメきった態度で返答していた安倍首相。
これまでにも、何度も、報告や警告を受けていたにも関わらず、聞き流し、しっかりした対策を講じてこなかった電力会社。

そのどちらも、事故と被害に対する責任を問われなければなりません。
そうでないと、日本の社会には、倫理も正義も存在しないことになります。

↓以下、転載はじめ

河北新報 Online Newshttp://www.kahoku.co.jp

東電幹部起訴相当/責任追及は教訓を残す一歩

福島第1原発事故の発生は、回避できたのではないか。
 
多くの国民が抱くそうした疑念が晴れておらず、刑事責任の追及を求める声が根強いことを、象徴する判断が示された
 
事故に関連し、業務上過失致死傷容疑などで告訴・告発され、東京地検が不起訴処分としていた、
東京電力の勝俣恒久元会長ら元幹部3人について、検察審査会が、「起訴相当」と議決した。
 
不起訴処分の時点から、ある程度は予測され、検審制度の在り方が問われる中での、1度目の議決でもあることから、過大な評価は避けなければならないが、
事故責任を曖昧にしてはならないという議決の意思表示は、重く受け止める必要がある。
 
「想定外の事態発生を、以前から認識していたのに、危機管理が不十分だった」との議決書の指摘に無理はなく、
具体的な経営陣の関わり方を、詳細に捜査し尽くす手続きは欠かせない。
 
東電は2008年、巨大地震を警告する、文部科学省地震調査研究推進本部の長期評価に基づいて、社内で、
「福島第1原発に最大15.7メートルの津波が来て、4号機の原子炉周辺は2.6メートル浸水する」という予測を立てた。
 
それが、必要な対策に結び付かなかったのはなぜか。

検審の議決書は、
原発停止のリスクが生じるとして、長期評価の採用を見送った」と断じ、
勝俣元会長について、
最高経営責任者として、巨大津波襲来の可能性について報告を受けていたと考えられ、安全確保を第一とする指示が必要だった」と判断した。
 
ほかの幹部も含め、
やるべきことをやっていれば事故は回避できたのだから、
対策を指示しなかったことで事故を起こし、死傷者を出した責任は問われるべき
だ、という結論である。
 
「巨大津波を、具体的に予測できたとは言えない」として、不起訴にした検察当局には、
津波予測の報告に対して、経営陣の誰が、どの時点で、どんな判断を下したのかを、もう一度綿密に突き止める捜査が求められる
 
多くの訴訟でも争点になっているように、巨大津波の予見可能性は、難しい問題だ。
トップの責任まで問えるのかどうか、慎重な扱いが予想される。
 
検察側が、再度不起訴にしても、検審の再審査で起訴の議決が下れば、強制起訴され、裁判に移る仕組みではあるが、
同じように、経営トップが業務上過失致死傷罪に問われた、尼崎JR脱線事故のケースをはじめ、強制起訴では無罪判決が続く

 
検審制度は、市民感覚反映の仕組みとされながら、成果が問われる現状にある。
今回も、再捜査を含めて、手続きを踏むだけの流れになる恐れがある
 
しかし、広範で深刻な被害を及ぼしている事故の重大性を考えれば、それで済むはずはない
 
震災当時の対応、揺れ自体の影響など、福島第1事故の詳細は、まだまだ不明な点が多い。
事前の津波対策の不備は焦点であり、真相究明は、これからの事故対策にも大きな意味を持つ。
責任追及は、教訓を残すための一歩であることを、強調しておく。


↑以上、転載おわり
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『この国の「戦争を許さない闘い」の最前線は、今、辺野古にある』by 三上智恵監督

2014年08月03日 | 日本とわたし
日本の本土メディアが伝えない「今、何が沖縄で起こっているのか」を、連載コラムにして、『マガジン9』さんが掲載してくださることになりました。
『マガジン9』⇒http://www.magazine9.jp/

わたしはこの『マガジン9』の大ファンで、常々お世話になっているので、何度かカンパをしようと試みているのですが、
PayPalとの相性が悪くて、今もまだ一度として、成功していません…。
そんなわたしですが、ぜひぜひみなさんに、この『マガジン9』の支援を、お願いしたいと思い、ちょっとここで紹介させてもらいます。
↓この、キリンの絵の部分をクリックしてください。カンパの仕方についてのページに移動します。


さて、この連載コラム、書いてくださるのは三上智恵監督です。
三上監督が撮られたドキュメンタリー映画『標的の村』を、わたしは近所の教会で、アメリカ市民と一緒に観ました。
三上監督は、辺野古や高江の現状を引き続き記録するべく、今も現場でカメラを回し続けておられます。

「空に一機の戦闘機も飛ばない。 海に一隻の戦艦も浮かばない。 陸に一台の戦車も走らない」
沖縄人・中村文子さんが理想とする世界。

その理想を、悲願を、打ち消すように、沖縄の基地拡張が、権力と金の暴力的な使い方によって、日々実行されています。
そして辺野古のキャンプ第1ゲート前には、こんなとんでもない物が敷き詰められています。


泥落としの鉄板…などと言って。
座れない、歩くこともままならない、もしこの上でバランスを崩して転けるようなことがあったら大怪我をします。
当たりどころによっては、死んでしまうかもしれません。

前置きが長くなりました。
それでは、マガジン9連載コラム『三上智恵の沖縄撮影日記〈辺野古•高江〉』を転載させていただきます。

↓以下、転載はじめ

第1回
この国の「戦争を許さない闘い」の最前線は、今、辺野古にある

これほどの物量、人員、年月で、地域に襲い掛かってくる国家事業があっただろうか。
 
それに対し、民衆が抗い続け、18年も建設を許していない。
ここまで人々の抵抗が、権力を食い止めてきた事例はほかにあるだろうか。

 
今、着々と進められている、沖縄県名護市辺野古の基地建設
 
これから整備する滑走路の建設費用は3000億円とされるが、
1996年の日米合意で普天間基地を東海岸に移すことになってから18年、2年に及ぶ海の上の反対運動で着工できなかった当初の沖合計画を含めれば、
海兵隊が移転して使用を開始するまでには、軽く2兆円を超える税金が投入される
 
工事関係だけではない。
前回の海上闘争も、後半は、海上保安庁の船団が、毎日、辺野古崎周辺に展開された
あろうことか、海上自衛隊の掃海艇「ぶんご」まで、国内初の治安維持活動として投入された
 
今、埋め立て作業が迫るこのひと月、ゲート前に、毎日ずらりと整列している機動隊、警察官、ガードマン…。
その人件費はいったい、今後どこまで膨れ上がるのだろうか

 
物量、人員、年月、どれをとっても、なりふり構わず牙をむく日本政府
なんとしてでも辺野古の海に、軍港を備えた新しい基地を造りたいのだ。
その、沖縄にだけ見せる政府の恐ろしい顔を、全国のみなさんは、どこまで知っているのだろうか。
 
そんな「辺野古の基地建設」の実態と、「それを止めてきた力の正体」

それはいずれも、全国に伝えられていないと思う。
 
19年間、私は毎日、沖縄のローカルニュースを読んできた。
そのうちたぶん7割以上、トップニュースは、基地問題だった。
 
毎日の1分ニュースでは伝わらない
だから5分企画を作る
取材してみると、とても5分では表現できない
だからドキュメンタリーにする
しかし、それはなかなか全国ネットにならない
 
そのジレンマの連鎖を何とか打破したいと、去年TVドキュメンタリー番組だった『標的の村』を、映画という形に持って行った
 
上映会の現場を、50か所以上回った。
 
私は、今年の春に、放送局をやめるまで28年間、「視聴者」という、顔の見えない集団に向き合ってきた。
 
しかし、会場でお会いする方々は、アンテナを張り、上映会の情報を聞きつけて足を運ぶ、「意識を持って行動する」ひとびとだった。
 
当然、偶然にチャンネルをあわせた「視聴者」とは違う。
目を見開いて、心で受け止めようとする熱気に、会場の空気が前のめりになっていく。
番組の作り手としては、実感することのなかった場の振動を味わった。
 
そして、何が人の心に届き、また届いていなかったのか。
それを思い知らされた。
 
ローカルニュースのキャスターとして、警鐘を鳴らし、ドキュメンタリーをこれまで通りに作っていては、間に合わない
これまで通りでは限界を打破できない、という結論に至った。
 
カメラ機材も、車両も、製作費どころか賃金さえ失うが、まだ体力があるうちに、「放送」という枠を出なくてはいけない。
 
名護市東海岸には、1997年の、名護の住民投票のころから通っている。
 
この、過疎と基地の町が同居する地域と、彼らを、先祖からずっと潤し続けてきた大浦湾の海が、私は大好きだ。
ここから伝えないといけないことが、いっぱいある。
 
この地域の自然の豊かさも、共同体の素晴らしさも、もっと多くの人に知ってもらい、
その結果、窮地にある人々の生活や自然環境を、救うことができるなら、私は何でもできる。
なんでもしたい。
 
だから、来年夏に公開する次のドキュメンタリー映画も、ここが舞台になる。
 
撮影はまだ始まったばかり。
主人公やストーリーも、まだこれからだが、
これだけの国策に抗い続ける地域の力、揺らぎ続けながらも消されることを拒んできた信念の灯とは、どういうものなのか。
 
たとえ、今後は、基地が造られていくことになったとしても、それでも踏みにじられることを拒み続ける人間の尊厳とは、なんなのか。
 
「たとえ結果がどうあろうとも。闘った事実が子孫に手渡せる唯一の財産だ」
 
そう言い続けた、沖縄のおじいおばあたちの言葉を北極星に、描いていけたらと思う。

               *
 
昨日とおととい、映画の主人公の一人である島袋文子さん(85)が、悪い足をかばいながら、ついにコンクリートミキサーの前に立ちはだかった
 
毎日、炎天下、キャンプシュワブの前で、抗議の声を上げ、工事車両に向かって「建設に協力しないで!」と訴え続ける人たちを、
そばのテントから、身を乗り出して見守り続けた文子さん。
反戦おばあの文子さんについて、詳しいことは次回に譲りたい。
 
巨大な政府の計画を止め続けた力
 
その一つは、確実に、彼女のような、沖縄戦を体験した方々の、尋常ではない精神力である。
彼女は、私を轢き殺してから行け、と啖呵を切る
 
それだけではない。
 
「見ててごらん。また海が荒れるよ。風も波も起こしてくださいと、私は神さまに言ったんだ」
 
彼女の言葉通り、今朝、二つの台風が、くっきりと天気図に載った。
先週、大攻防の末設置された桟橋は、今朝から撤去作業に入っている。




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三上智恵監督新作製作のための、製作協力金カンパのお願い
沖縄の基地問題を描く、三上智恵監督新作の製作を、来年の2015 年完成を目標に開始します。



決意表明

オスプレイ配備をめぐる抵抗と、東村高江の住民たちの闘いを描いた、ドキュメンタリー映画『標的の村』は、
おかげさまで劇場動員24,000人、自主上映会300箇所(14年7月現在)と、想像を超えた拡がりを見せ、
制作者一同、驚きとともに、感謝の気持ちでいっぱいです。
 
しかしながら、沖縄の状況は、今も、なに一つ好転していません。
高江では、ヘリパッドが二つ完成し、オスプレイが、住宅の真上を低空飛行し、7月から、残り3箇所の工事に入ります。
辺野古では、お年寄りたちが17年間座り込んで、海の新基地建設を止めてきましたが、7月から新たに、海上作業がはじまる予定です。
 
高江や普天間封鎖の現実が、世の中に伝わらなかったように、これから沖縄で起きることが、皆さんにちゃんと届くのか。
届くなら、助けにも来てくれるだろう、国民的な議論を呼ぶだろう、
しかしまた伝わらなかったら?

私は、とても不安です。
だから、放送局員でなくなった今も、一人でカメラを廻しています。
 
全国で進む上映会に参加すると、「今どうなってるの?」「続編はみられるの?」と声をかけられ、
私一人で何ができるのか、いつも逡巡していました。
そして、とにかく、県民の記録を撮り続けること、それを伝えることを、やめるつもりのない自分自身を再確認しました。
 
私は、新作を作ることを決意しました。
どのようなかたちで、いつまでにスクリーンに投影することができるのか、今はまだ具体的にお伝えできませんが、
できるだけ間をおかずに、沖縄の現状を映像記録にし、皆さんに観ていただくため、全力でスタートします。
ぜひ、みなさんのお気持ち、お力をかしてください。
どうぞよろしくお願いいたします。

2014年7月1日 三上智恵(映画『標的の村』監督)


三上智恵監督新作製作のための製作協力金カンパのお願い

『三上智恵監督・新作(タイトル未定)』(2015年完成予定)

沖縄の基地問題を描く、三上智恵監督新作の製作を、来年の2015年完成を目標に開始します。
製作費確保のため、皆様のお力を貸してください。
いただいた製作協力金は、三上智恵監督新作の製作費として、活用させていただきます。

◎製作協力金10,000円以上、ご協力いただいた方(もしくは団体)は、映画HPに、お名前を掲載させていただきます。
◎製作協力金30,000円以上、ご協力いただいた方(もしくは団体)は、映画エンドロール及び、映画HPに、お名前を掲載させていただきます。
※掲載を希望されない方は、お申し込みの際にお知らせ下さい。

■振込先
郵便振替口座 00190-8-513577 名義:三上智恵監督・沖縄記録映画を応援する会


※ お振り込みの際は、振替用紙に、
① HPやエンドロールへの掲載の可否
② 掲載希望のお名前もしくは団体名
③ お名前
④ ご住所・ご連絡先 (お電話またはE-mail アドレス)可能な範囲で、ご記入をお願いします。

※ 銀行口座やゆうちょ銀行口座からのお振り込みの際は、
東風(Eメール:info@tongpoo-films.jp またはFAX:03-5919-1543)まで、上記の、お振り込みされた方の情報をご連絡下さい。

※ ご連絡先が無く、お振り込みされた方の情報に不備があった場合には、お名前をご掲載出来ないこともございます。
よくご確認の上、ご記入いただけますようお願いいたします。


三上智恵(みかみ・ちえ)
ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。
大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。
95年、琉球朝日放送(QAB)の開局 と共に、沖縄に移り住む。
夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、
「海にすわる~沖縄・辺野古 反基地600日の 闘い」
「1945~島は戦場だった オキナワ365日」
「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判」
など、多数の番組を制作。
2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。
初監督映画「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~」は、
ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。
現在300回を超える自主上映活動が続いている。
現在、次回作の準備を進めている。→http://okinawakiroku.com/
(プロフィール写真/吉崎貴幸)
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気づかないうちに隣り合わせているもの

2014年08月03日 | ひとりごと
台所の窓の方を見ていた旦那が、
「あ、オトモダチが来てる」と言った。

えぇえぇ、わかってますとも。トイレの窓から、わたしも見てましたから。


もうちょっとズーム。


ばくばくムシャムシャ、まあ、ちょっと味は落ちるが…むむ、見られてる気配…。


え、おいらのこと?あ、お呼びでない、さよか~。


この後すぐに、とっとと走り去っていきましたとさ。

二日続きの雨で、むせ返るような緑。けれどもまだ肌寒い。半袖だと冷える。


冷夏ともいえそうなここ最近の天気。
花も草も、うだるような暑さが無くて、いつもより元気っぽい。


前庭の畑のトマトも鈴なり。


黄色いけれど、甘いトマト。


ブラックベリーも毎日、4人で楽しめるほどに。ありがたやありがたや。


オクラの赤ちゃん。



さて、裏の方の畑の育ち具合を見に、仕事帰りの歩美ちゃんが、突如裏庭に現れる。
小松菜とアルゴラ、そして、グラウンドホッグに食い荒らされても、根性で蘇ってきてくれたキュウリくんの様子を見て、ひとまず安心。

ところが彼女が全然大丈夫でないことが分かり、急きょ旦那が診察をした。
この、膝の裏の腫れようったら…なんでここまで…。


何かに刺されて、丸く赤みがかった腫れものができ、そのあとリンパに沿ってちょっと上に上がったかと思ったら、今度は両横がどんどん腫れてきて…、

あかんじゃないか~!

とりあえず、応急処置として、腫れとカユミを緩和するための治療を受けた彼女。
その晩は、久しぶりによく眠れたと、彼女からメールが届き、ひとまずホッとした。
それまでの一週間、多分ひとりでいろいろ悩んでただろうし、なんとかして自力で治したかっただろう。

翌日、やっと見つけた病院に行ったけれども、案の定、刺したモノが何かは分からなくて、なので抗生物質の飲み薬と塗り薬などを処方してもらい、
「もしも、ふくらはぎの方に赤みが下りてきたり、息苦しさや不快感が出てきたら、救急に行け」と言われたそうで、ちょっとビビっていた。
彼女に限ったことではなく、この国の医療保険の酷さゆえに、虫刺されや風邪ひきぐらいで、医者になんぞ行ってられるか、というのが庶民の常識なのだから、
このような、小さいように見えて、実はとても恐ろしかったりする事態は、もう数え切れないぐらいに、わたしたちの周りでは存在する。
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