陶芸では、絵を付ける方法に、下絵付け(釉下彩)と、上絵付けの技法があります。
1) 下絵付け(釉下彩)
一般に素焼き後、作品表面に、筆などを用いて、鉄、銅、コバルト等の顔料を用いて、文様を
描き、その上に透明釉を掛けて、本焼きします。
釉の下に、絵を描くので、釉下彩とも言います。
歴史的には、最初に酸化鉄を顔料とした、鉄絵が登場します。中国の南宋の金の時代(12世紀)だと
言われています。14世紀前半には、景徳鎮でこの技法が、盛んに取り入れられていました。
「釉裏紅(ゆうりこう)」は、銅を顔料にした下絵付けで、やはり景徳鎮で、始まったと言われて
います。
・ 現在では、上記三種類以外に、赤、ブルー(明るい青)、黄色、茶色、金茶、オレンジ、ピンク、
各種緑系等、下絵の具は豊富に成っていますが、当時は、本焼きで発色する絵の具は、
限られた色しか、有りませんでした。
2) 青花の出現
「青花」とは、中国語で、「青い模様」を意味し、コバルト顔料が高温で、青藍色に発色する事から、
名付けられた様です。
我が国では、染色の藍染(あいぞめ)に似ている事から、「染付」と呼ばれています。
① 中国の元の時代(13~14世紀)に、イスラム世界より、コバルト顔料が、もたらされます。
景徳鎮では、すでに存在していた鉄絵は、鮮明さが劣り、「釉裏紅」では、高火度焼成では、
発色が不安定でしたが、安定した発色と鮮明な藍色は、瞬く間に、広がって行きます。
) 元青花は、「至正様式」(しせいようしき)が代表的な作品で、それまでの、イスラムの
形や紋様から、脱却して中国的な「青花」が描かれる様に成ります。
即ち、白地が多くなり、力強い筆さばきで、洗練された文様に成って行きます。
3) 中国の「青花」の歴史
① 明の時代(1368~1644年)に成ると、宮廷で使われる、生活用品の焼き物は、
景徳鎮で専用に焼く「官窯」が、設置されます。「官窯」では「青花」が焼かれました。
明の初期の洪武(こうぶ)年間(1368~1398年)の「青花」は、やや暗い色調の作品が、
多いです。これは、イスラム産のコバルトが輸入停止となり、中国の国産を使用した為と
言われています。その為「釉裏紅」が復活し、多くの作品が残っています。
② 明の永楽、宣徳年間(1403~1435年)では、永楽帝が首都を、南京から北京に移し、
大都市を建設します。それに伴い、国威発揚の為、海外貿易が活発化し、陶磁器と、絹織物を
積んだ大船団を組んで、遠くアフリカ方面まで、交易したと、言われています。
又、この時代には、イスラム世界より、再びコバルトが、輸入される様に成り、発色の良い
「青花」が焼かれる様に、成ります。
「大明宣徳年製」「宣徳年製」と記された作品は、宮廷用の器物に作られた物です。
③ 永楽、宣徳年間の景徳鎮では、色々な技術の発展が見られます。格調高い白磁「甜白」
(てんぱく)が作られ、釉も「橘皮文(きっぴもん)」と呼ばれる、微小な気泡を含み、
その気泡が蒸発した痕に残る凹凸が、柑橘類の肌の様になり、光沢が抑えられ、落ち着いた
釉面になります。
又、釉を厚く掛ける事により、コバルトが滲み、味わい深い作品も、作られています。
④ 成化(せいか)年間(1465~1487年)この期間コバルトの輸入が停止し、鮮やかさが失われ
ますが、「甜白」素地が更に洗練され、黄色みを帯び、鮮やかさが失われた青と、良く
マッチした作品を、作り出しています。
又、白地を生かした文様で、一段と洗練された作品に成っています。
⑤ 嘉靖(かせい)年間((1522~1566年)
以下次回に続きます。
参考文献: 別冊太陽 「中国やきもの入門」(株式会社 平凡社)
1) 下絵付け(釉下彩)
一般に素焼き後、作品表面に、筆などを用いて、鉄、銅、コバルト等の顔料を用いて、文様を
描き、その上に透明釉を掛けて、本焼きします。
釉の下に、絵を描くので、釉下彩とも言います。
歴史的には、最初に酸化鉄を顔料とした、鉄絵が登場します。中国の南宋の金の時代(12世紀)だと
言われています。14世紀前半には、景徳鎮でこの技法が、盛んに取り入れられていました。
「釉裏紅(ゆうりこう)」は、銅を顔料にした下絵付けで、やはり景徳鎮で、始まったと言われて
います。
・ 現在では、上記三種類以外に、赤、ブルー(明るい青)、黄色、茶色、金茶、オレンジ、ピンク、
各種緑系等、下絵の具は豊富に成っていますが、当時は、本焼きで発色する絵の具は、
限られた色しか、有りませんでした。
2) 青花の出現
「青花」とは、中国語で、「青い模様」を意味し、コバルト顔料が高温で、青藍色に発色する事から、
名付けられた様です。
我が国では、染色の藍染(あいぞめ)に似ている事から、「染付」と呼ばれています。
① 中国の元の時代(13~14世紀)に、イスラム世界より、コバルト顔料が、もたらされます。
景徳鎮では、すでに存在していた鉄絵は、鮮明さが劣り、「釉裏紅」では、高火度焼成では、
発色が不安定でしたが、安定した発色と鮮明な藍色は、瞬く間に、広がって行きます。
) 元青花は、「至正様式」(しせいようしき)が代表的な作品で、それまでの、イスラムの
形や紋様から、脱却して中国的な「青花」が描かれる様に成ります。
即ち、白地が多くなり、力強い筆さばきで、洗練された文様に成って行きます。
3) 中国の「青花」の歴史
① 明の時代(1368~1644年)に成ると、宮廷で使われる、生活用品の焼き物は、
景徳鎮で専用に焼く「官窯」が、設置されます。「官窯」では「青花」が焼かれました。
明の初期の洪武(こうぶ)年間(1368~1398年)の「青花」は、やや暗い色調の作品が、
多いです。これは、イスラム産のコバルトが輸入停止となり、中国の国産を使用した為と
言われています。その為「釉裏紅」が復活し、多くの作品が残っています。
② 明の永楽、宣徳年間(1403~1435年)では、永楽帝が首都を、南京から北京に移し、
大都市を建設します。それに伴い、国威発揚の為、海外貿易が活発化し、陶磁器と、絹織物を
積んだ大船団を組んで、遠くアフリカ方面まで、交易したと、言われています。
又、この時代には、イスラム世界より、再びコバルトが、輸入される様に成り、発色の良い
「青花」が焼かれる様に、成ります。
「大明宣徳年製」「宣徳年製」と記された作品は、宮廷用の器物に作られた物です。
③ 永楽、宣徳年間の景徳鎮では、色々な技術の発展が見られます。格調高い白磁「甜白」
(てんぱく)が作られ、釉も「橘皮文(きっぴもん)」と呼ばれる、微小な気泡を含み、
その気泡が蒸発した痕に残る凹凸が、柑橘類の肌の様になり、光沢が抑えられ、落ち着いた
釉面になります。
又、釉を厚く掛ける事により、コバルトが滲み、味わい深い作品も、作られています。
④ 成化(せいか)年間(1465~1487年)この期間コバルトの輸入が停止し、鮮やかさが失われ
ますが、「甜白」素地が更に洗練され、黄色みを帯び、鮮やかさが失われた青と、良く
マッチした作品を、作り出しています。
又、白地を生かした文様で、一段と洗練された作品に成っています。
⑤ 嘉靖(かせい)年間((1522~1566年)
以下次回に続きます。
参考文献: 別冊太陽 「中国やきもの入門」(株式会社 平凡社)