「青花」の話を続けます。
「青花」の技術が広がったのは、白い肌の白磁に描かれた、青い模様の美しさと、清々しさが、
大きな魅力に成っているからです。
4) 我が国への影響
中国の陶磁器は、宮廷や、中国国内の需要だけでなく、輸出(貿易)をも念頭において、作られて
いました。 東南アジア、インド、イスラム世界、西洋(ヨーロッパ)、アフリカ、朝鮮、日本など、
世界各地に作品が、輸出されています。
当然、作品と共に、その絵付けの技術も少しずつ、世界各地に伝わって行きます。
(尚、輸出先に応じて、作品の種類や、文様も違って、作られています。)
① 「古染付」
明代末期(1620年代)に、呉須で、絵付けされた、日用品である小皿等が、日本に伝わります。
薄手の作りで、略筆ながら、趣ある味わい深い、文様が描かれています。
② 「茶器古染付」
この絵柄や文様に着目し、我が国より中国へ、茶道具が発注されます。
中国に無い、富士山型の器や、動物や魚介類を形取った、懐石料理用の、鉢や皿や、意図的に、
変形させた器などですが、陶器風に厚手に作られています。一説によれば、古田織部好みの
影響と言われています。
③ 「祥瑞(しょんずい)」: 明代末に、焼かれた染付けの、色絵磁器で、丸文と幾何学模様の
組み合わせに、特徴があります。
これも、我が国からの注文による作品で、素地の質の違い、コバルトの発色の違い、更には、
艶の有る釉、幾何学文様を組み合わせた、的確な表現方法など、「古染付」とは、まったく
異なる作品です。当時の景徳鎮における、一級品と見てよいでしょう。
これらは、茶人の小堀遠州が指導した、遠州好みと言われています。
④ 「呉須手」
明代末~清朝始めにかけて、福建省の窯で、景徳鎮の「芙蓉手」の文様を模倣した、作品が
作られます。これが我が国にもたらされ、「呉須手」と呼ばれた、染付け作品で、いかにも我が国の
好みに合った作品になっています。古くから、大いに愛好されている作品です。
即ち、素地は粗く、成型もおおらかで、文様も粗雑ながら、自由闊達に表現され、施釉も簡略
されています。
更に作品の底裏には、砂粒が付着しています。これは窯詰めの際、砂床を使用した為です。
⑤ 我が国で、最初に染付の作品が、焼成されたのは、17世紀初めの、初期伊万里(有田焼き)と
言われています。但し、色調も不安定(色がくすんでいる)で、文様も素朴な物でした。
やがて、良質の磁土の発見により、滑らかな肌の磁器が焼かれ、コバルトで絵付けされた、
染付磁器、更には、藍の下絵と、赤、黄、緑、紫などの上絵と併用した、染錦手が発明されます。
) 明代末~清代初めにかけて、動乱が続いた為、景徳鎮の生産は大幅に落ち込みます。
その為、ヨーロッパ向けの陶磁器は、オランダの東インド会社を通じて、我が国に大量注文が
なされます。
) 柿右衛門様式に代表される、有田焼きが、伊万里港から大量に、輸出されます。
作品の種類は、皿、鉢、壺を中心で、ヨーロッパの王侯貴族の、室内装飾品として、人気を
博します。ウイーンのシェーンブルン宮殿や、ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿の
「磁器の間」が有名です。
尚、景徳鎮製の磁器では、リスボン(ポルトガル)のサントス宮殿の「磁器の間」が著名です。
更に、柿右衛門様式は、ドイツのマイセンでコピーされる様に成ります。
) 染付けは、本来白磁に施されるものですが、我が国では、陶器にも描く様に成ります。
即ち、京焼の野々村仁清や、尾形乾山なども、染付けを手がけています。
以下次回に続きます。
「青花」の技術が広がったのは、白い肌の白磁に描かれた、青い模様の美しさと、清々しさが、
大きな魅力に成っているからです。
4) 我が国への影響
中国の陶磁器は、宮廷や、中国国内の需要だけでなく、輸出(貿易)をも念頭において、作られて
いました。 東南アジア、インド、イスラム世界、西洋(ヨーロッパ)、アフリカ、朝鮮、日本など、
世界各地に作品が、輸出されています。
当然、作品と共に、その絵付けの技術も少しずつ、世界各地に伝わって行きます。
(尚、輸出先に応じて、作品の種類や、文様も違って、作られています。)
① 「古染付」
明代末期(1620年代)に、呉須で、絵付けされた、日用品である小皿等が、日本に伝わります。
薄手の作りで、略筆ながら、趣ある味わい深い、文様が描かれています。
② 「茶器古染付」
この絵柄や文様に着目し、我が国より中国へ、茶道具が発注されます。
中国に無い、富士山型の器や、動物や魚介類を形取った、懐石料理用の、鉢や皿や、意図的に、
変形させた器などですが、陶器風に厚手に作られています。一説によれば、古田織部好みの
影響と言われています。
③ 「祥瑞(しょんずい)」: 明代末に、焼かれた染付けの、色絵磁器で、丸文と幾何学模様の
組み合わせに、特徴があります。
これも、我が国からの注文による作品で、素地の質の違い、コバルトの発色の違い、更には、
艶の有る釉、幾何学文様を組み合わせた、的確な表現方法など、「古染付」とは、まったく
異なる作品です。当時の景徳鎮における、一級品と見てよいでしょう。
これらは、茶人の小堀遠州が指導した、遠州好みと言われています。
④ 「呉須手」
明代末~清朝始めにかけて、福建省の窯で、景徳鎮の「芙蓉手」の文様を模倣した、作品が
作られます。これが我が国にもたらされ、「呉須手」と呼ばれた、染付け作品で、いかにも我が国の
好みに合った作品になっています。古くから、大いに愛好されている作品です。
即ち、素地は粗く、成型もおおらかで、文様も粗雑ながら、自由闊達に表現され、施釉も簡略
されています。
更に作品の底裏には、砂粒が付着しています。これは窯詰めの際、砂床を使用した為です。
⑤ 我が国で、最初に染付の作品が、焼成されたのは、17世紀初めの、初期伊万里(有田焼き)と
言われています。但し、色調も不安定(色がくすんでいる)で、文様も素朴な物でした。
やがて、良質の磁土の発見により、滑らかな肌の磁器が焼かれ、コバルトで絵付けされた、
染付磁器、更には、藍の下絵と、赤、黄、緑、紫などの上絵と併用した、染錦手が発明されます。
) 明代末~清代初めにかけて、動乱が続いた為、景徳鎮の生産は大幅に落ち込みます。
その為、ヨーロッパ向けの陶磁器は、オランダの東インド会社を通じて、我が国に大量注文が
なされます。
) 柿右衛門様式に代表される、有田焼きが、伊万里港から大量に、輸出されます。
作品の種類は、皿、鉢、壺を中心で、ヨーロッパの王侯貴族の、室内装飾品として、人気を
博します。ウイーンのシェーンブルン宮殿や、ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿の
「磁器の間」が有名です。
尚、景徳鎮製の磁器では、リスボン(ポルトガル)のサントス宮殿の「磁器の間」が著名です。
更に、柿右衛門様式は、ドイツのマイセンでコピーされる様に成ります。
) 染付けは、本来白磁に施されるものですが、我が国では、陶器にも描く様に成ります。
即ち、京焼の野々村仁清や、尾形乾山なども、染付けを手がけています。
以下次回に続きます。