城の腰城から県道沿いに北東に進んで行きますと、左側に萩城があります。
萩城の位置(地理院地図から作成しました)
萩城は、「参河国二葉松」で「清家右馬允(うまのじょう)嘉吉二年(1442)棟札次内藤十郎市次奥平周防守是奥平七族七人内」と紹介されています。清家、内藤、奥平と受け継がれていったようです。ただし、清家、内藤については調べても分かりませんでした。奥平七族とは、和田奥平家(のちに雨山奥平家)、夏山奥平家、萩奥平家、田代奥平家、中金奥平家、日近奥平家、稲木奥平家の各奥平家です。ただし分割統治をしていたのではなく、五老と呼ばれるやはり親族の武士たちと共に奥平家の一つの武士団として存続していたようです。(ウィキペディア)萩奥平家が他の奥平氏と行動を共にしていたのもこのような事情があったからだと思いました。
萩城全景(東から撮影)
萩城の案内標識 ふもとの小道の脇にひっそりと佇んでいました。うっかりすると見落としそうでした。ここからはものの5分もかからずに城跡にたどり着きました。
萩城のイメージ図
萩城の位置(地理院地図から作成しました)
萩城は、「参河国二葉松」で「清家右馬允(うまのじょう)嘉吉二年(1442)棟札次内藤十郎市次奥平周防守是奥平七族七人内」と紹介されています。清家、内藤、奥平と受け継がれていったようです。ただし、清家、内藤については調べても分かりませんでした。奥平七族とは、和田奥平家(のちに雨山奥平家)、夏山奥平家、萩奥平家、田代奥平家、中金奥平家、日近奥平家、稲木奥平家の各奥平家です。ただし分割統治をしていたのではなく、五老と呼ばれるやはり親族の武士たちと共に奥平家の一つの武士団として存続していたようです。(ウィキペディア)萩奥平家が他の奥平氏と行動を共にしていたのもこのような事情があったからだと思いました。
萩城全景(東から撮影)
萩城の案内標識 ふもとの小道の脇にひっそりと佇んでいました。うっかりすると見落としそうでした。ここからはものの5分もかからずに城跡にたどり着きました。
萩城のイメージ図
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