愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

虎御前山(3) 滋賀県長浜市

2020年08月16日 04時39分40秒 | 滋賀県
伝堀秀政陣地跡
この礎石建物復元の次は堀秀政陣地跡でした。

堀秀政陣地跡

堀秀政という武将も初めて知りました。堀秀政は、美濃生まれで父は齋藤道三の家臣だったようです。しかし、秀政は幼いときから信長に仕え、小姓として可愛がられたようです。その後武将としても頭角を現し、豊臣秀吉の家臣となり、最終的には小田原攻めの時に病死したようです。急死だったようです。

伝信長陣地跡
いよいよ信長の陣地跡です。手前に切岸が施されていました。

伝信長陣地跡

この陣地跡の入口は「長枡形虎口」になっていました。こういう名前の虎口は初めてでしたが、枡形虎口が細長くなっているということでしょうか。

信長陣地跡の図(虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会「虎御前山の散歩」長谷川博美氏作)
この図の頂上部分の窪んでいるところが長枡形虎口と思われます。


長枡形虎口

信長の陣地跡だけにこのような厳重警戒の虎口が設けられている気がしました。

伝木下秀吉陣地跡
さらに進むと木下秀吉陣地跡になっていました。

木下秀吉陣地跡

木下は藤吉郎ではないのか? と思い、ネットで豊臣秀吉の名前の変遷を調べたところ、以下のように5回名前を変えていました。秀吉は一貫して変えていないようです。姓がコロコロ変わっています。「平」「藤原」はいかにも権威を金で買ったという印象です。織田信長は「平」、徳川家康は「源」を名乗り、自分が武家の棟梁であることを権威づけています。秀吉は最終的には源氏でも平氏でも藤原氏でもない「豊臣」という姓を天皇に認めさせ、自分とその子孫が歴史上の名門になることをめざしたようです。

【木下藤吉郎秀吉】 信長に仕え始めたころ
【羽柴秀吉】 長浜城を与えられたころ
【平秀吉】 本能寺の変、山崎合戦の後のころ
【藤原秀吉】 関白になったころ
【豊臣秀吉】 太政大臣になったころ

ネット「万屋満載」を参照


木下秀吉陣地跡(虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会「虎御前山の散歩」長谷川博美氏作)

この陣地は小谷城に近いせいか、北側に土塁が幾重にもありました。

木下陣地の土塁

また、中心地のすぐ北側に池のような堀がありました。案内板で「かざし堀」と命名されていました。

木下陣地、かざし掘

このさらに北側に柴田勝家の陣地があるのですが、猛暑のため行くのを断念しました。

虎御前山 おしまい


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