長久手市大草城(2)
長久手の合戦で破れた池田・森の軍が、ここで家康軍と戦った
この長久手大草城と長久手の戦いとどんな関係にあるか、「長久手市郷土史研究会」のHPで次のように書かれていました。
天正12年の長久手の合戦で敗れ、敗走した池田・森の軍兵らが大草城に落ちのびた数は1000人近くもいたという。落ちのびて大草城に入った落ち武者らは、城主福岡新助と、戦場を脱出して来た池田の侍大将伊藤友信らの指揮の下で、徳川勢の攻撃に備えた。家康は、挑むように幟や幡をひるがえす大草城をまのあたりに見て激怒し、ただちに大草城攻撃を命じた。しかし城の守りはかたく攻めあぐむ時、楽田城の秀吉が3万の軍勢で既に楽田を発って進撃して来る、という情報が届き、家康は急遽大草城攻めを中止し、軍勢をまとめて逃げるように小幡城へ引き上げた。
堀切C
さて、話を大草城「探検」に戻しましょう。
「曲輪Ⅰ」から南の方に行くと「堀切C」がありました。
「堀切C」は、まるで崖のようでした。今までの他の山城の見学でも「堀切」を見てきましたが、この堀切は、かなり険しいと思いました。
土塁B
さらに、「堀切C」の南には「土塁」がありました。
これは土塁Bです。画像の左側が盛り上がっているのが確認できると思います。
土塁の西は急な崖
しかし驚いたのは、この土塁の後ろ側です。地図では西(左)側です。急な崖になっていて、これは土塁などつくらなくても、攻め上れないと思いました。
土塁の上から撮影したものです。はるか下の方に道路が見えます。
次は、道を挟んで東(右)側です。
地図の「曲輪Ⅳ」を「曲輪Ⅲ」から撮影しました。中央の木の茂みが「曲輪Ⅳ」と思われます。
曲輪Ⅳ
実際に「曲輪Ⅳ」の辺りに行くと、やはり木の茂みで覆われていました。
この「曲輪Ⅳ」の辺りがこの大草城の中で一番高いので、ここに物見櫓があったのかもしれないと思いました。
堀切D
いよいよ「堀切D」です。「曲輪Ⅳ」から「堀切D」のほうへ上から見に行こうとしましたが、竹林でよく見えません。
そこで、ぐるっと永見寺の方の南から東に向けて回り込むようにして見に行くことにしました。
東の斜面は栄見寺の墓地になっていました。途中、六地蔵もありました。
おそらく、この竹林が「堀切D」かなと思いました。
家康も攻めあぐむ大草城
ということで、地図上の曲輪や土塁、堀切を見つけながら大草城の見学を終えました。
大草城は山全体が一つの城になっていて、観音寺城のように曲輪が幾重にもありました。(ただし、後世に畑などのために作られたかもしれません。私には判別ができません。)また、自然の地形を利用した堀切は険しく、容易には攻めきれない城だと思いました。家康が攻めあぐんだ理由も分かった気がしました。
長久手の合戦で破れた池田・森の軍が、ここで家康軍と戦った
この長久手大草城と長久手の戦いとどんな関係にあるか、「長久手市郷土史研究会」のHPで次のように書かれていました。
天正12年の長久手の合戦で敗れ、敗走した池田・森の軍兵らが大草城に落ちのびた数は1000人近くもいたという。落ちのびて大草城に入った落ち武者らは、城主福岡新助と、戦場を脱出して来た池田の侍大将伊藤友信らの指揮の下で、徳川勢の攻撃に備えた。家康は、挑むように幟や幡をひるがえす大草城をまのあたりに見て激怒し、ただちに大草城攻撃を命じた。しかし城の守りはかたく攻めあぐむ時、楽田城の秀吉が3万の軍勢で既に楽田を発って進撃して来る、という情報が届き、家康は急遽大草城攻めを中止し、軍勢をまとめて逃げるように小幡城へ引き上げた。
堀切C
さて、話を大草城「探検」に戻しましょう。
「曲輪Ⅰ」から南の方に行くと「堀切C」がありました。
「堀切C」は、まるで崖のようでした。今までの他の山城の見学でも「堀切」を見てきましたが、この堀切は、かなり険しいと思いました。
土塁B
さらに、「堀切C」の南には「土塁」がありました。
これは土塁Bです。画像の左側が盛り上がっているのが確認できると思います。
土塁の西は急な崖
しかし驚いたのは、この土塁の後ろ側です。地図では西(左)側です。急な崖になっていて、これは土塁などつくらなくても、攻め上れないと思いました。
土塁の上から撮影したものです。はるか下の方に道路が見えます。
次は、道を挟んで東(右)側です。
地図の「曲輪Ⅳ」を「曲輪Ⅲ」から撮影しました。中央の木の茂みが「曲輪Ⅳ」と思われます。
曲輪Ⅳ
実際に「曲輪Ⅳ」の辺りに行くと、やはり木の茂みで覆われていました。
この「曲輪Ⅳ」の辺りがこの大草城の中で一番高いので、ここに物見櫓があったのかもしれないと思いました。
堀切D
いよいよ「堀切D」です。「曲輪Ⅳ」から「堀切D」のほうへ上から見に行こうとしましたが、竹林でよく見えません。
そこで、ぐるっと永見寺の方の南から東に向けて回り込むようにして見に行くことにしました。
東の斜面は栄見寺の墓地になっていました。途中、六地蔵もありました。
おそらく、この竹林が「堀切D」かなと思いました。
家康も攻めあぐむ大草城
ということで、地図上の曲輪や土塁、堀切を見つけながら大草城の見学を終えました。
大草城は山全体が一つの城になっていて、観音寺城のように曲輪が幾重にもありました。(ただし、後世に畑などのために作られたかもしれません。私には判別ができません。)また、自然の地形を利用した堀切は険しく、容易には攻めきれない城だと思いました。家康が攻めあぐんだ理由も分かった気がしました。
ひとつの丘陵を丸ごと城塞として築く。そして、そこに兵を集め、食料をためて出撃し、また籠城もできる。
こういう場合は詰城というのでしょうか。もっと詳しく、このあたりのことを調べなくてはいけないのですが、おそらくここに城を築いた武将は、拠点として位置付けしていたのかな…。
そんなことがいろいろと想像されて、興味の種は尽きませんね。