長久手市大草城(1)
城歩きマンさんのコメントに、「長久手市色金歴史公園の北東に山城がある。大草城という。」とありましたので、出かけることにしました。
大草城縄張り図
図は、大草城の縄張り図です。『愛知の山城ベスト50』に掲載されている図で、ギリシャ数字が書かれている平地Ⅰ~Ⅳが曲輪の跡です。アルファベットのA・Bは土塁、C・Dは堀切を示すようです。この図を見ながら、「探検」しました。
図の南の方に「大草中集会所」がありましたので、そこから出発です。
熊野社
まず、永見寺というお寺があり、そこを左に入っていきました。すると「熊野社」がありました。
この「熊野社」を入っていくと、中に拝殿がありました。
神社には、本殿の前にこのように拝殿がある神社とない神社があります。どういう違いなのか調べたいと思います。
大草城石碑
この拝殿を更に左の方に入っていくと、大草城の石碑がありました。
この石碑の右の支えのところになにやら小さいものが置いてあります。なんだろうかと、よくみてみると、観音様でした。どなたが置いてくれたのでしょう、なんともありがたい気持ちになりました。
さて、この石碑の裏に大草城が紹介されていました。
大草城は、「尾張志」に、「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす右城内東西廿間南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる
平成八年十一月吉日
長久手町教育委員会
土人というのがすごいですね。三河一向一揆の「松平記」でも「土民」というのがありました。おそらく身分的に低く、名主や作人の更に下の耕作者のことかなと思います。
曲輪の跡
この石碑をさらに左に行くと南北に道があり、左側に図の「曲輪Ⅲ」が見えました。
「曲輪Ⅲ」は、平坦な草地でした。さらに、左に行くと「曲輪Ⅰ」です。
「曲輪Ⅰ」は、竹林でした。
城歩きマンさんのコメントに、「長久手市色金歴史公園の北東に山城がある。大草城という。」とありましたので、出かけることにしました。
大草城縄張り図
図は、大草城の縄張り図です。『愛知の山城ベスト50』に掲載されている図で、ギリシャ数字が書かれている平地Ⅰ~Ⅳが曲輪の跡です。アルファベットのA・Bは土塁、C・Dは堀切を示すようです。この図を見ながら、「探検」しました。
図の南の方に「大草中集会所」がありましたので、そこから出発です。
熊野社
まず、永見寺というお寺があり、そこを左に入っていきました。すると「熊野社」がありました。
この「熊野社」を入っていくと、中に拝殿がありました。
神社には、本殿の前にこのように拝殿がある神社とない神社があります。どういう違いなのか調べたいと思います。
大草城石碑
この拝殿を更に左の方に入っていくと、大草城の石碑がありました。
この石碑の右の支えのところになにやら小さいものが置いてあります。なんだろうかと、よくみてみると、観音様でした。どなたが置いてくれたのでしょう、なんともありがたい気持ちになりました。
さて、この石碑の裏に大草城が紹介されていました。
大草城は、「尾張志」に、「大草村西之島といふ地にあり西北二方は山を垣とし東南は二方ともに深谷を境とす右城内東西廿間南北廿間あり城主は福岡新助也と土人いへり此界内も城之内といふなり」とみえる
平成八年十一月吉日
長久手町教育委員会
土人というのがすごいですね。三河一向一揆の「松平記」でも「土民」というのがありました。おそらく身分的に低く、名主や作人の更に下の耕作者のことかなと思います。
曲輪の跡
この石碑をさらに左に行くと南北に道があり、左側に図の「曲輪Ⅲ」が見えました。
「曲輪Ⅲ」は、平坦な草地でした。さらに、左に行くと「曲輪Ⅰ」です。
「曲輪Ⅰ」は、竹林でした。
遺構の図を見ているだけでは、どんなに想像しても、分からないことがあるものです。
純粋な丘陵につくられた山城というよりは、小高い丘の上にあるお城という感じですね。
現地を歩けば、いろいろな思いがよぎってきて、城の持つ個性のようなものを感じてくれたらうれしいです。
続きがありそうなので、楽しみです。
コメントありがとうございます。
後半は熊野神社の裏の探索です。
乞うご期待