少し前ですが、1月22日(日)、新城市作手(つくで)地域に行きました。
亀山城は奥平氏の城
「三河国二葉松」では、以下のようなコメントがされています。
設楽郡 市場村亀山城
奥平八郎左衛門築之 同六郎左衛門 同出羽守 同監物 今林成
世治リテ奥代氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返シ又々此城拝領スル則城ヲ取立住居松平下総守旧地トハ雖トモ悪敷処故二御願申上大和国郡山ヘ国替城ハ夫ヨリ掃捨ラル
設楽郡 市場村亀山城
奥平貞俊がこの城を築く。その後、六郎左衛門、出羽守、監物が城主となり、今は林である。
世が治まって、奥平氏は上州の小幡から「昔の領地であるから」ということでこの城を拝領することになった。しかし、松平(奥平)下総守は「旧地といってもよくない土地であるから、国替えをしてほしい」と願い出て、大和国郡山に国替えをした。それからこの城は廃城となった。
奥平氏系図(寛政重修諸家譜より)女子は省略しました。また、これより後にも家系図は続いていますが、省略しました。
奥平氏の系図に照らしますと、
八郎左衛門は貞俊(上野国より作手へ)
六郎左衛門は貞昌
出羽守は系図には見当たりません
監物は3人いますが、六郎左衛門の貞昌を除くと貞久か貞勝ということになります。
監物の後に「今ハ林成」とあるので、4代目の貞勝が監物で、その後の貞能・信昌の時に亀山城からほかの城に移ったのではないかと思われます。
武田側から徳川側に移った代償
5代目の貞能・6代目信昌の時に、武田側から徳川側にかわっています。信昌の嫁に家康の長女亀姫を嫁がせたのです。なお、この時(天正元年1573)武田側に差し出していた人質3人が処刑されました。系図の「千丸」(信昌の弟)もその一人で、14才でした。
下総守忠明の国替え
次に下総守の話ですが、下総守は信昌の四男の忠明のことです。兄の奥平(松平)家治が上州7000石を領有しましたが、早死にをしたため、弟の忠明が継ぎました。その後関ヶ原の戦いを経て、作手に17000石を領有しました。「三河二葉松」はそのあたりのことを書いているようです。
「三河二葉松」では、作手を「悪敷処故」、国替えをお願いし、大和郡山を領有した旨が書かれています。作手を悪しき処とはどういうことでしょうか。さらに、国替えは「作手→大和郡山」と単純ではなく
慶長7年(1602)作手
慶長15年(1610)伊勢亀山
元和元年(1615)摂津大坂
元和5年(1619)大和郡山」
と間に2回国替えが入っています。
「三河二葉松」で、奥平氏について、またひとつ秘密を知ることができました。
亀山城は奥平氏の城
「三河国二葉松」では、以下のようなコメントがされています。
設楽郡 市場村亀山城
奥平八郎左衛門築之 同六郎左衛門 同出羽守 同監物 今林成
世治リテ奥代氏上州小幡ヨリ旧地トテ昔ニ返シ又々此城拝領スル則城ヲ取立住居松平下総守旧地トハ雖トモ悪敷処故二御願申上大和国郡山ヘ国替城ハ夫ヨリ掃捨ラル
設楽郡 市場村亀山城
奥平貞俊がこの城を築く。その後、六郎左衛門、出羽守、監物が城主となり、今は林である。
世が治まって、奥平氏は上州の小幡から「昔の領地であるから」ということでこの城を拝領することになった。しかし、松平(奥平)下総守は「旧地といってもよくない土地であるから、国替えをしてほしい」と願い出て、大和国郡山に国替えをした。それからこの城は廃城となった。
奥平氏系図(寛政重修諸家譜より)女子は省略しました。また、これより後にも家系図は続いていますが、省略しました。
奥平氏の系図に照らしますと、
八郎左衛門は貞俊(上野国より作手へ)
六郎左衛門は貞昌
出羽守は系図には見当たりません
監物は3人いますが、六郎左衛門の貞昌を除くと貞久か貞勝ということになります。
監物の後に「今ハ林成」とあるので、4代目の貞勝が監物で、その後の貞能・信昌の時に亀山城からほかの城に移ったのではないかと思われます。
武田側から徳川側に移った代償
5代目の貞能・6代目信昌の時に、武田側から徳川側にかわっています。信昌の嫁に家康の長女亀姫を嫁がせたのです。なお、この時(天正元年1573)武田側に差し出していた人質3人が処刑されました。系図の「千丸」(信昌の弟)もその一人で、14才でした。
下総守忠明の国替え
次に下総守の話ですが、下総守は信昌の四男の忠明のことです。兄の奥平(松平)家治が上州7000石を領有しましたが、早死にをしたため、弟の忠明が継ぎました。その後関ヶ原の戦いを経て、作手に17000石を領有しました。「三河二葉松」はそのあたりのことを書いているようです。
「三河二葉松」では、作手を「悪敷処故」、国替えをお願いし、大和郡山を領有した旨が書かれています。作手を悪しき処とはどういうことでしょうか。さらに、国替えは「作手→大和郡山」と単純ではなく
慶長7年(1602)作手
慶長15年(1610)伊勢亀山
元和元年(1615)摂津大坂
元和5年(1619)大和郡山」
と間に2回国替えが入っています。
「三河二葉松」で、奥平氏について、またひとつ秘密を知ることができました。
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