知多に軍人像
9月14日から3連休。どこかへ行きましょうということで、知多の観光案内をネットで調べていたら、すごいものが出てきました。「軍人像」と呼ばれるものです。場所は、岩屋寺の中之院というところです。
軍人像
さっそく行ってみることにしました。
神秘的な岩屋寺
岩屋寺は、大変立派なお寺でした。軍人像はこのお寺の中之院、細い道が山の方に伸びていて、突き当たりは奥の院というところで、これはこれで神秘的な場所でした。
奥の院にそびえる三重塔。すぐ後ろは山で山肌にくっついて立っている感じでした。
岩には無数の仏像や地蔵像が並んでいて、ああ密教だとつよく感じました。
軍人像があった
この奥の院からしばらく降りたところに中之院があり、軍人像が並んでいました。
軍人像は、100体ほどあるそうです。なぜこんなところに、こんな像があるのか説明版がありました。
中之院 軍人像について
ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った
おかげで像は壊されずにすんだということです。
建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
天台宗 大慈山 中之院
戦争への道に進まない
私たちの親、祖父たちが戦争に行っていたこと、戦後の平和はこうした人たちの礎の上にあること、したがって、こうした尊い犠牲者の死を無駄にしないためにも、再び戦争への道に進まないという思いを改めて感じました。
この軍人像は、私たちにそんなことを語っている気がします。
9月14日から3連休。どこかへ行きましょうということで、知多の観光案内をネットで調べていたら、すごいものが出てきました。「軍人像」と呼ばれるものです。場所は、岩屋寺の中之院というところです。
軍人像
さっそく行ってみることにしました。
神秘的な岩屋寺
岩屋寺は、大変立派なお寺でした。軍人像はこのお寺の中之院、細い道が山の方に伸びていて、突き当たりは奥の院というところで、これはこれで神秘的な場所でした。
奥の院にそびえる三重塔。すぐ後ろは山で山肌にくっついて立っている感じでした。
岩には無数の仏像や地蔵像が並んでいて、ああ密教だとつよく感じました。
軍人像があった
この奥の院からしばらく降りたところに中之院があり、軍人像が並んでいました。
軍人像は、100体ほどあるそうです。なぜこんなところに、こんな像があるのか説明版がありました。
中之院 軍人像について
ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張った
おかげで像は壊されずにすんだということです。
建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
天台宗 大慈山 中之院
戦争への道に進まない
私たちの親、祖父たちが戦争に行っていたこと、戦後の平和はこうした人たちの礎の上にあること、したがって、こうした尊い犠牲者の死を無駄にしないためにも、再び戦争への道に進まないという思いを改めて感じました。
この軍人像は、私たちにそんなことを語っている気がします。
軍人像ですか。こんなものは福井には絶対ないでしょう…。
秦の始皇帝の兵馬俑をイメージしました。
彫って祀った人たちの吐息が聞こえてきそうです。
進駐軍の圧力から守った気骨は見習いたいものです。
コメントありがとうございます。
私も見つけてびっくりしました。
最初見たときにやはり中国秦の始皇帝を思い出しました。しかし、これは皇帝の墓ではなくて、庶民の墓です。
昭和12年なので、まだ太平洋戦争も始まっておらず、日本の勢いがあったころと思われます。ただ、中国戦線はかなり行き詰っていたことがうかがわれます。上海での戦いがどのようなものであったのか、調べてみたいと思います。
この像を壊すなら、自分を射殺してからにしろという僧の話はすごいです。ただ、「国を守る」ということの国とはなんなのか、間違っても国家ではないと、私は思いたいです。