東近江市
3月16日(日)「若越城の会」の見学会に参加しました。今回の見学地は、滋賀県東近江市の観音寺城です。東近江市は、米原と大津のちょうど中間の辺りのところです。2005年2月11日に八日市市、神崎郡永源寺町・五個荘町、愛知郡愛東町・湖東町の1市4町が新設合併して誕生した市で、2006年1月1日には神崎郡能登川町・蒲生郡蒲生町を編入したそうです。
A地点が観音寺城です。
目立つお寺 弘誓寺
集合場所は、「三方よし」という観光協会でしたが、予定より早くついたので、近くの「弘誓寺」に行くことにしました。集合場所に近づくとすぐに目に付いたお寺だったからです。お寺は、真宗大谷派でした。
弘誓寺(ぐぜいじ)山門
太鼓楼がありました。
弘誓寺太鼓楼
近江商人の町
寺の周りには、堀がありました。堀には、流れがあり、よく見ると「ウグイの子」が泳いでいました。堀は、お寺だけではなく、このあたりの町並み全体にありました。この町並みは、「近江商人町」というそうです。いわゆる町方の商人街ではなく、村方の商人街だそうです。
10時案内の人の説明を受け、さっそく登城です。案内の方は、松下浩氏(滋賀県安土城城郭研究所)です。先日行われた学習会の講師の方です。
しばらく登ったところで、観音寺城の支城のお話をしていただきました。観音寺城の北の守りとして和田山城と佐生城があったそうです。写真の右が和田山城です。
支城 和田山城
観音寺城は、たくさんの曲輪があります。
伝布施淡路丸 石垣と石塁
図が小さくてわかりにくいのですが、初めに登ったところは、伝布施淡路丸という曲輪です。どうして伝という字がつくというと、確か証拠がなく言い伝えられているだけだからだそうです。布施淡路という家臣の宅地のようです。周りを写真のように石垣で囲んでありました。石垣と石塁は、どうちがうかが話題になりましたが、石垣は、裏込め石といって、面(おもて)の巨石の裏に、それを支えるやや小さめの石があるそうです。それがあるものは石垣で、それがないものは石塁というそうです。観音寺城の石垣には、裏込め石はありませんので、石塁ということでしょうか。
伝布施淡路丸の石塁
佐々木城址の石碑 心無いいたずら
またしばらく登ると、「佐々木城址」という石碑がありました。観音寺城は六角氏のお城です。ただ六角氏は、もともと鎌倉時代は佐々木氏と名乗っていて、そこから分かれて六角氏になったそうです。もともとが佐々木氏なら、観音寺城を初めから佐々木城としたほうがよかったのではないかと皆さんがおっしゃっていました。さらに、この石碑には問題があり、誰が彫ったのか、「へのへのもへじ」のいたずらがありました。
佐々木城址の石碑
心無い人のいたずら
3月16日(日)「若越城の会」の見学会に参加しました。今回の見学地は、滋賀県東近江市の観音寺城です。東近江市は、米原と大津のちょうど中間の辺りのところです。2005年2月11日に八日市市、神崎郡永源寺町・五個荘町、愛知郡愛東町・湖東町の1市4町が新設合併して誕生した市で、2006年1月1日には神崎郡能登川町・蒲生郡蒲生町を編入したそうです。
A地点が観音寺城です。
目立つお寺 弘誓寺
集合場所は、「三方よし」という観光協会でしたが、予定より早くついたので、近くの「弘誓寺」に行くことにしました。集合場所に近づくとすぐに目に付いたお寺だったからです。お寺は、真宗大谷派でした。
弘誓寺(ぐぜいじ)山門
太鼓楼がありました。
弘誓寺太鼓楼
近江商人の町
寺の周りには、堀がありました。堀には、流れがあり、よく見ると「ウグイの子」が泳いでいました。堀は、お寺だけではなく、このあたりの町並み全体にありました。この町並みは、「近江商人町」というそうです。いわゆる町方の商人街ではなく、村方の商人街だそうです。
10時案内の人の説明を受け、さっそく登城です。案内の方は、松下浩氏(滋賀県安土城城郭研究所)です。先日行われた学習会の講師の方です。
しばらく登ったところで、観音寺城の支城のお話をしていただきました。観音寺城の北の守りとして和田山城と佐生城があったそうです。写真の右が和田山城です。
支城 和田山城
観音寺城は、たくさんの曲輪があります。
伝布施淡路丸 石垣と石塁
図が小さくてわかりにくいのですが、初めに登ったところは、伝布施淡路丸という曲輪です。どうして伝という字がつくというと、確か証拠がなく言い伝えられているだけだからだそうです。布施淡路という家臣の宅地のようです。周りを写真のように石垣で囲んでありました。石垣と石塁は、どうちがうかが話題になりましたが、石垣は、裏込め石といって、面(おもて)の巨石の裏に、それを支えるやや小さめの石があるそうです。それがあるものは石垣で、それがないものは石塁というそうです。観音寺城の石垣には、裏込め石はありませんので、石塁ということでしょうか。
伝布施淡路丸の石塁
佐々木城址の石碑 心無いいたずら
またしばらく登ると、「佐々木城址」という石碑がありました。観音寺城は六角氏のお城です。ただ六角氏は、もともと鎌倉時代は佐々木氏と名乗っていて、そこから分かれて六角氏になったそうです。もともとが佐々木氏なら、観音寺城を初めから佐々木城としたほうがよかったのではないかと皆さんがおっしゃっていました。さらに、この石碑には問題があり、誰が彫ったのか、「へのへのもへじ」のいたずらがありました。
佐々木城址の石碑
心無い人のいたずら
佐々木城址碑のいたずら書きは、石鑿のような金具で本格的にやった、確信犯の仕業。
子供とか、愉快犯の仕業ではない、きっと生半可に歴史を知っている変質者の仕業と思えて仕方ない…。
目立たないので、あまり話題にならないが、大変残念に思います。
2年前に城歩きマンが見学した時にはなかったと思うのですが…。
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、全く残念でなりません。
遺跡を見つけ、発掘し、調査し、保存するまでにどれだけの人の手がかかっているのか、また、どんな思いで、その仕事に携わっていたのか、その人は知るべきです。
そうした人たちへの侮辱だと思います。
全く残念。