ここでちょっと四国から離れて愛知県に戻りたいと思います。
11月24日、新城市の宇利城跡を訪れました。
所在地
新城市中宇利字仁田36
宇利城跡は、東三河の東部にあります。宇利城跡の南を通る県道81号線を東に進み、途中県道392号線を東に進めば、静岡県に入り、浜名湖の北、引佐町に行くことができます。また、宇利城跡を南へ行きますと、宇利峠があって、静岡県の三ヶ日町に抜けることができます。
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宇利城跡の所在地(yahoo地図より作成)
関連する武将
熊谷実長 先祖は源平合戦で有名な熊谷直実の末裔らしいです。それまでに東三河は今川氏に与していましたが、松平清康が東三河に攻めてくると、だいたいが清康に従うようになっていました。
しかし、宇利城主熊谷実長は、今川氏への忠節を守り松平に反抗していました。
そこで、享禄2年(1529年)、清康は3千余りの軍勢を率いて、宇利城を攻めました。
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主郭にあった熊谷実長の石碑
宇利城の戦い(現地の案内板)
城郭の前面や側面が沼地で、裏手を山に囲まれた天然の要害であった宇利城での戦況は熾烈を極めた。この時、城の大手で松平右京介親盛(清康のおじ)が討ち死した。清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いに落ち延び、ついに落城した。
「三河物語」から
さて、現地案内板では「宇利城の戦い」の熊谷氏は熊谷実長としていますが、『三河物語』(岩波書店『日本思想史体系』)では熊谷直利と注意書きがしてあります。どっちか分かりませんが、三河物語が詳しいので、引用します。
「其より宇理の熊谷(直利)が城へ御はたらきなり。早其時は、西三河之人数八千有。拾五六手につくり、段々に押させられ、岡崎を打ちださせ給いて、八幡(宝飯郡)に御陣を取らせ給いて、明ければ、宇理より十二里へだたりて、御陣を取らせ給いて、明ければ段々に押させられ、熊谷が城へ押し寄せ給いて、放火して、大手へは松平内膳殿(信定)・同右京(親盛)殿、其の外御一門之衆寄せさせ給う。御旗本は搦手上之嵩(高いところ)へ押し上げさせ給ひ、天地を響かせ、四方鉄砲打ち込み、鬨を上げさせ給う。熊谷も去弓取なれば、事共せずして、大手へ切りて出る。
松平右京殿と申すは、御一門之中にも勝れたる弓取、又は、他人にも右京殿の上こす者は無し。然る間、一足去らずたたかわせ給う所に、ややしばらくたたかい給うが、多くの疵をこうむり、場も去らずして、主従拾二三人打死をし給う。松平右京殿と申すは、武辺第一と申し、一度も逆心之無き人なれば、清康も殊の外おしませ給いて、御落涙中々申しつくしがたし。其の時、内膳殿助けさせ給わば、右京殿打死には有間敷に、内膳殿一円(すこしも)すけさせ給わず。清康は、搦手の山より見下ろさせ給い、「内膳は何とてすけざる」とて、御拳をにぎらせ給い、御眼を見出し、御顔をあからめ、歯噛みをなされ、白泡をかませ給いて突っ立ちて睨めて、汗を流させ給う御有様、やく神・天魔鬼神も面をあわすべく様もなし。余りに御性にすえかねさせ給いて、内膳殿を召されて、「只今、右京仕合せ(不運)に付き、すけられずして叶わざるところをよそに見て、国にも替え間敷右京をば、打たせ給う哉。明日にもご覧ぜよ。弓矢八幡天道大菩薩も御照覧あれ。我等が手前において、一門の者を打たせては見間敷」と仰せけり。内膳殿も異議に及ばず。赤面しておわします。内膳殿は生きての羞、右京殿は今にはじめぬ事なれども、死にての面目、名を上げ給う。」
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松平右京介の墓の標識
信定の助けがなく討ち死にした右京介
松平の軍勢は、八千といっています。宇利城の大手(正面)からは、松平内膳信定、松平右京介親盛が攻め、搦手(裏手)には、清康の本隊が陣取ったようです。熊谷も応戦し、大手では激しい戦いになったようです。松平右京介は戦いに自信があり、一歩も引かずに戦ったが、ついに討ち死にをしてしまったようです。それを搦め手から見ていた清康が、なぜ内膳信定は右京介を助けないのだと怒りをあらわにし、叱責したというのです。
清康と内膳の対立は後々まで続き、最後清康が「守山崩れ」で横死するところまで関係しているようです。
11月24日、新城市の宇利城跡を訪れました。
所在地
新城市中宇利字仁田36
宇利城跡は、東三河の東部にあります。宇利城跡の南を通る県道81号線を東に進み、途中県道392号線を東に進めば、静岡県に入り、浜名湖の北、引佐町に行くことができます。また、宇利城跡を南へ行きますと、宇利峠があって、静岡県の三ヶ日町に抜けることができます。
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宇利城跡の所在地(yahoo地図より作成)
関連する武将
熊谷実長 先祖は源平合戦で有名な熊谷直実の末裔らしいです。それまでに東三河は今川氏に与していましたが、松平清康が東三河に攻めてくると、だいたいが清康に従うようになっていました。
しかし、宇利城主熊谷実長は、今川氏への忠節を守り松平に反抗していました。
そこで、享禄2年(1529年)、清康は3千余りの軍勢を率いて、宇利城を攻めました。
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主郭にあった熊谷実長の石碑
宇利城の戦い(現地の案内板)
城郭の前面や側面が沼地で、裏手を山に囲まれた天然の要害であった宇利城での戦況は熾烈を極めた。この時、城の大手で松平右京介親盛(清康のおじ)が討ち死した。清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城に火をつけたので、城主実長は裏山伝いに落ち延び、ついに落城した。
「三河物語」から
さて、現地案内板では「宇利城の戦い」の熊谷氏は熊谷実長としていますが、『三河物語』(岩波書店『日本思想史体系』)では熊谷直利と注意書きがしてあります。どっちか分かりませんが、三河物語が詳しいので、引用します。
「其より宇理の熊谷(直利)が城へ御はたらきなり。早其時は、西三河之人数八千有。拾五六手につくり、段々に押させられ、岡崎を打ちださせ給いて、八幡(宝飯郡)に御陣を取らせ給いて、明ければ、宇理より十二里へだたりて、御陣を取らせ給いて、明ければ段々に押させられ、熊谷が城へ押し寄せ給いて、放火して、大手へは松平内膳殿(信定)・同右京(親盛)殿、其の外御一門之衆寄せさせ給う。御旗本は搦手上之嵩(高いところ)へ押し上げさせ給ひ、天地を響かせ、四方鉄砲打ち込み、鬨を上げさせ給う。熊谷も去弓取なれば、事共せずして、大手へ切りて出る。
松平右京殿と申すは、御一門之中にも勝れたる弓取、又は、他人にも右京殿の上こす者は無し。然る間、一足去らずたたかわせ給う所に、ややしばらくたたかい給うが、多くの疵をこうむり、場も去らずして、主従拾二三人打死をし給う。松平右京殿と申すは、武辺第一と申し、一度も逆心之無き人なれば、清康も殊の外おしませ給いて、御落涙中々申しつくしがたし。其の時、内膳殿助けさせ給わば、右京殿打死には有間敷に、内膳殿一円(すこしも)すけさせ給わず。清康は、搦手の山より見下ろさせ給い、「内膳は何とてすけざる」とて、御拳をにぎらせ給い、御眼を見出し、御顔をあからめ、歯噛みをなされ、白泡をかませ給いて突っ立ちて睨めて、汗を流させ給う御有様、やく神・天魔鬼神も面をあわすべく様もなし。余りに御性にすえかねさせ給いて、内膳殿を召されて、「只今、右京仕合せ(不運)に付き、すけられずして叶わざるところをよそに見て、国にも替え間敷右京をば、打たせ給う哉。明日にもご覧ぜよ。弓矢八幡天道大菩薩も御照覧あれ。我等が手前において、一門の者を打たせては見間敷」と仰せけり。内膳殿も異議に及ばず。赤面しておわします。内膳殿は生きての羞、右京殿は今にはじめぬ事なれども、死にての面目、名を上げ給う。」
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松平右京介の墓の標識
信定の助けがなく討ち死にした右京介
松平の軍勢は、八千といっています。宇利城の大手(正面)からは、松平内膳信定、松平右京介親盛が攻め、搦手(裏手)には、清康の本隊が陣取ったようです。熊谷も応戦し、大手では激しい戦いになったようです。松平右京介は戦いに自信があり、一歩も引かずに戦ったが、ついに討ち死にをしてしまったようです。それを搦め手から見ていた清康が、なぜ内膳信定は右京介を助けないのだと怒りをあらわにし、叱責したというのです。
清康と内膳の対立は後々まで続き、最後清康が「守山崩れ」で横死するところまで関係しているようです。
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