丹野城は、下のような感じでした。
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丹野城スケッチ
特に西側の堀切は見ごたえがありました。
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丹野城西側堀切、北から撮影
さらにこの堀切の向こう側に石積みの跡がありました。
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堀切の石積み
この城ができたのは1469年なので、応仁の乱が始まったばかり、戦国時代が始まったばかりの頃です。その時代にこの363mの山の頂上に石積みが造ってあるのは、すごいと思いました。堀切に石積みということで、若狭国吉城を思い出しました。
この堀切を降りると、そこに標識があり、堀切に向かって左側は住居跡という表示でした。「えっ、ここに住んでたの?」こんな高いところに人が住んでいたとは驚きでした。
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堀切にあった標識
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住居跡の腰曲輪
堀切から左(北側)に広い平らな区域があり、腰曲輪のようですが、人が住んでいたようです。
そして南側の高まりの壁に石積みの跡のようなものが見られました。
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石積みの跡
改めて石碑の銘文を読むと驚愕の内容が書かれていました。
「城郭は山陵を利用した高さ4メートル程の土塁が南東に伸び本丸跡もこの土塁に添って東側に巾約8メートル長さ約50メートルの平地の中にあり、土塁の中央部附近には石積や監視通路が現存する」
土塁は見当たりませんし、平地は腰曲輪状に北側にあります。土塁中央部に石積や監視通路が現存すると言っているので、南側の高まりは曲輪(本丸)ではなく、土塁なのでしょうか。どういうことなのか、さらに検討したいと思います。
丹野城 おしまい
どんな地形に石垣が積まれたのか関心があります。
1400年代の石垣遺構は謎がたくさんですね‼️
コメントありがとうございます。
丹野城の石垣は、斜面上に組まれていました。一つは、堀切に。もう一つは、切岸(住居址の南側、土塁かもしれないと書かれていた)その斜面上です。おそらく、切岸を強固にするためのものと思います。秀吉の時代に造られた石垣は城下に対して、力を誇示するものが多いのですが、これは時代も目的も違うと思いました。