11月3日、東三河に行きました。
家族でどこかに行こうということで、娘が新城にいい温泉があるという情報を聞きつけ、さっそくそこへ行くことになりました。
どうせ東三河に行くなら、ぜひとも長篠の古戦場に行きたいとおもい、途中立ち寄ることにしました。
設楽原歴史資料館

設楽原歴史資料館
「長篠の戦い」は「設楽原の戦い」
長篠の戦いは、小学校の教科書にも出てくる有名な戦いです。織田信長が鉄砲隊を編成し、武田の騎馬隊をやっつけるというもので、織田信長の先見性をアピールし、戦いのあり方の変容を物語る戦いとして紹介されています。

長篠合戦図屏風(Wikipedia)教科書に出てくる有名な上の屏風図は、実は「設楽原の決戦」の様子を表した絵のようです。
私たちは「長篠の戦い」と習っていますが、鉄砲隊が出てくる戦いは、「設楽原の戦い」というそうです。資料館でいただいたパンフレットには、以下のように書かれています。
ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正3年(1575年)5月の戦いを指します。そして、この戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の2つに大きく分けることができます。
鳥居強右衛門の話
長篠城の攻防で、おもしろい話を見つけました。
鳥居強右衛門(すねえもん)の話です。天正3年5月、武田勝頼は長篠城を奪おうと1万5000の兵で城を取り囲みました。城を守っていた奥平貞昌は、兵糧も尽きてきたので援軍が来るかどうかを確かめるために、徳川家康のいる岡崎に使者を送りました。それが鳥居強右衛門です。鳥居強右衛門が岡崎に行くと、家康は織田信長とともに援軍を送ることを約束しました。鳥居強右衛門はそのことを伝えようと長篠城に向かいましが、武田軍に捕らえられてしまいます。武田勢は、鳥居に対して「援軍は来ないから城を明け渡すように伝えれば、命を助け武田の家臣とする」と命令しました。鳥居は命令に従うふりをして、城が見えるところに引き出されると、「2,3日中に援軍が来る。それまでの辛抱だ」と反対のことを伝えました。これをきいた武田軍は、怒り鳥居強右衛門を磔の刑にしたということです。長篠城は、この鳥居強右衛門のおかげで持ちこたえ、武田は長篠城と設楽原に軍勢を分けた状態で、織田・徳川の連合軍と戦うことになったのです。

鳥居強右衛門の磔の図(資料館パンフレットから)
馬防柵
さて資料館の屋上から戦いの中で織田・徳川連合軍が作った馬防柵(ばぼうさく)が見えます。

屋上からみた馬防柵

拡大した写真
馬防柵は、帰りにもう一度立ち寄ることにして、温泉に急ぎました。温泉は、「湯の風HAZU」というところです。
「湯の風」HAZU
出てきた食事を2,3紹介します。


家族でどこかに行こうということで、娘が新城にいい温泉があるという情報を聞きつけ、さっそくそこへ行くことになりました。
どうせ東三河に行くなら、ぜひとも長篠の古戦場に行きたいとおもい、途中立ち寄ることにしました。
設楽原歴史資料館

設楽原歴史資料館
「長篠の戦い」は「設楽原の戦い」
長篠の戦いは、小学校の教科書にも出てくる有名な戦いです。織田信長が鉄砲隊を編成し、武田の騎馬隊をやっつけるというもので、織田信長の先見性をアピールし、戦いのあり方の変容を物語る戦いとして紹介されています。

長篠合戦図屏風(Wikipedia)教科書に出てくる有名な上の屏風図は、実は「設楽原の決戦」の様子を表した絵のようです。
私たちは「長篠の戦い」と習っていますが、鉄砲隊が出てくる戦いは、「設楽原の戦い」というそうです。資料館でいただいたパンフレットには、以下のように書かれています。
ふつう「長篠の戦い」という場合は、天正3年(1575年)5月の戦いを指します。そして、この戦いは前の部分の「長篠城の攻防」と、後の部分の「設楽原の決戦」の2つに大きく分けることができます。
鳥居強右衛門の話
長篠城の攻防で、おもしろい話を見つけました。
鳥居強右衛門(すねえもん)の話です。天正3年5月、武田勝頼は長篠城を奪おうと1万5000の兵で城を取り囲みました。城を守っていた奥平貞昌は、兵糧も尽きてきたので援軍が来るかどうかを確かめるために、徳川家康のいる岡崎に使者を送りました。それが鳥居強右衛門です。鳥居強右衛門が岡崎に行くと、家康は織田信長とともに援軍を送ることを約束しました。鳥居強右衛門はそのことを伝えようと長篠城に向かいましが、武田軍に捕らえられてしまいます。武田勢は、鳥居に対して「援軍は来ないから城を明け渡すように伝えれば、命を助け武田の家臣とする」と命令しました。鳥居は命令に従うふりをして、城が見えるところに引き出されると、「2,3日中に援軍が来る。それまでの辛抱だ」と反対のことを伝えました。これをきいた武田軍は、怒り鳥居強右衛門を磔の刑にしたということです。長篠城は、この鳥居強右衛門のおかげで持ちこたえ、武田は長篠城と設楽原に軍勢を分けた状態で、織田・徳川の連合軍と戦うことになったのです。

鳥居強右衛門の磔の図(資料館パンフレットから)
馬防柵
さて資料館の屋上から戦いの中で織田・徳川連合軍が作った馬防柵(ばぼうさく)が見えます。

屋上からみた馬防柵

拡大した写真
馬防柵は、帰りにもう一度立ち寄ることにして、温泉に急ぎました。温泉は、「湯の風HAZU」というところです。
「湯の風」HAZU
出てきた食事を2,3紹介します。



いつもコメントありがとうございます。
11月4日に投稿した記事に詳しく記載させていただきました。守る会の名和弓雄さんとい方の考えによれば、城歩きマンさんがおっしゃるように堀、柵、土塁の3段構えで鉄砲を撃っていたようです。知られるように3列で途切れなく撃ったという説明はありませんでした。
初めて知りました。勉強になります。
馬防柵の前後ろは、どうですか?写真に向かって右が敵側ですか?
それとも、左ですか?
右側から攻めてくる敵に対して、3段構えで堀、柵、土塁を築いたのでしょうか…?