愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

畔田城(2) 豊橋市

2020年04月19日 08時31分00秒 | 豊橋市
道案内
遺構は林の中にすっかり隠れているので、見学路を探すのがちょっと大変でした。
車は、城下公民館に停めました。道の向こうに「老人憩の家」があります。その横の道をまっすぐ進み、左の2本目の道を曲がります。

2本目を左に曲がる

曲がったら、右の方に家があります。1軒目は黒っぽい家、2軒目は白っぽい家。
この白っぽい家の前で右に曲がります。
あとは、山道ですが、一本道です。

2軒目の白っぽい家の前で曲がる

屋敷跡?
畔田城の森の中に入ると、さっそく両側に土塁らしきものが見えます。屋敷跡っぽい遺構です。図に著しましたが、土塁がぐるっと囲んでいる地形があり、いかにも屋敷跡のように見えます。しかし、「調査報告」では、土塁から近世(江戸時代)の遺物が出てきたりするので、慎重に考えるべきと言っています。

屋敷跡の土塁か?


屋敷跡を囲む土塁?

馬出か?
本丸の前に板の橋がありました。おそらくここが本丸の虎口になると思います。木の板の橋が架けてあるだけで、本丸と手前の曲輪の間は堀になっています。いざというときにはこの橋を外してしまうことになっていたのでしょう。

本丸虎口

手前の曲輪は規模も小さく、周りを堀が囲んでいることから「調査報告」では馬出状というふうに評価されています(高田氏)が、この曲輪が本丸と直接つながらず、土橋で外とつながっていることから、馬出と言えるか疑問に思っています。

曲輪を囲む堀

本丸
本丸には小さな祠が2つ並んでいました。

本丸の祠

「調査報告」に、本丸の先に海岸に向かって土塁が延び、虎口があると書いてありましたが、藪がひどくて確認できませんでした。ただ波の音はとても心地よく聞こえました。

最後につけたしです。
いまさらですが、畔田はどう読みましたか。「はんだ」ではなく「くろだ」と読みます。
「畔」は、もともと田んぼのあぜという意味ですが、湖畔(こはん)のように「みずのほとり」とか「ものの近く」という意味があります(湖畔は湖の近くという意味)。愛知県三河地方では、さらに「ぐろ」と言います。「はしっこ」「すみっこ」という意味で使われます。「車が来たで、ぐろに寄って」(車がきたから、道のはしっこに寄りなさい)のように使います。畔柳(くろやなぎ)という姓は三河の岡崎、豊田に多い姓です。ただ、畔田は富山県に多い姓でした。

畔田城 おしまい


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2 コメント

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Unknown (城歩きマン)
2020-04-20 06:59:51
畔田城の見学お疲れ様でした。
この記事を見ていて、福井県の高浜城を思い出しました。位置的に海岸縁にある高台の城、という意味で、とてもよく似た立地ですね。
ただし、高浜城は海に突き出た半島状の高台です。畔田城は海岸段丘そのもので、地形上の違いからも状の立地の面白さが分かり、とても興味がわきます。
また、次の記事楽しみにしています。
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難儀した畔田城 (midorishako)
2020-04-20 07:22:50
城歩きマンさん
コメントありがとうございます。

畔田城は、行きたかったお城ですが、藪がひどくて難儀しました。冬に行くべきでした。本丸から海の方に土塁状の遺構が残っているそうで、それを確認したかったのですが、ちくちくといばらのような植物が生い茂っていて、手や足が擦り傷状態になり、断念しました。
近くの老人憩の家にたまたま近所の方が見え、畔田城への行き方を教えていただけたのは、うれしかったです。
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