愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

加茂一揆(2)

2017年09月18日 06時22分06秒 | 加茂一揆
2017年1月以降中断していた「鴨の騒立」の続きを書きます。
前回は、天保7年8月に天候不順があり、飢饉になったこと、それもかなり規模の大きい飢饉であったこと、そして、そのことから甲州で一揆が発生したことが描かれました。

前回の「加茂一揆」

今回は、加茂一揆の前哨戦ともいうべき騒擾が九久平で起こったことが述べられています。いわゆる九久平割木騒動です。

渡辺政香「鴨の騒立」第2回 割木騒動

これ(騒擾)は他国のことと思っていたが、三河でも同じことがあった。加茂郡九久平村に、千吉・繁吉という兄弟がいた。大工を家業としていた。この者が騒立の張本人であるが、人柄があまり良くなく、頭も賢くなかった。また、加茂郡下河内村に松平辰蔵という者がいた。
辰蔵は、初め大工を生業としていたが、後には小相撲をとったり、博打を好み、俗に言う道楽者であった。しかしながら、賢くて、口が達者な男であった。去る巳年(天保4年)12月下旬のことであった。下河内・七売(ななうり)・林添(はやしぞえ)・松平・茅原(ちはら)・大田(だいた)・大津・二口(ふたくち)・羽明(はあす)・歌石・椿木(つばやき)・真垣内(まなかいと)・下屋市・提立・二王・正作(しょうさく)・所石(ところいし)・杉木・宮口・上脇・五閑・川田・永嶋の23ヶ村から、割木(1)を年々九牛村問屋(2)へ送っていた。問屋とは、豆腐屋茂七・問屋新左衛門・万屋(よろずや)平八・鍋屋嘉兵衛・横手甚右衛門・輪違屋(わちがいや)等6、7軒のこと(3)で、問屋たちは申し合わせて山より出された割木を安く買い取ったため、23ヶ村の村人は一様に憤った。これを見た下河内村の辰蔵は、知恵をめぐらし大勢を騒ぎ立てさせ、九久平村の問屋を毀そうと企てた。(4)村々の者たちは、斧・まさかり・なた等を携えて、九牛村へ押し寄せた。問屋たちは、この勢いに驚き、慌てふためき、仲間同士で相談して、
「下河内村の辰蔵は、日ごろ小ざかしく口も立つ。争論があれば、内々に話をして事を解決させている。彼に話を持ちかけてこの騒ぎ立てを鎮めよう」
といって、辰蔵に調停を託した。辰蔵は、承知して右の村々に、元の値段で割木を買い取ることを話したので、23ヶ村の人々は引き取ることになった。問屋たちは、危機を逃れたのは全く辰蔵が調停をしたおかげであると、厚く謝礼をしたそうである。(5)

注意書き
(1)割木 細かく割った木。かまど用・炭焼き用等に使っていた木だろうか。
(2)問屋 割木を近隣の村から集め、それを小売商に卸していた問屋のことだろうか。
(3)問屋の名前に、豆腐屋、鍋屋など商売をしていると思われる名前があるので、割木問屋と商売を兼ねていたことがうかがわれる。また、輪違屋とはネットで調べると①京都にあった置屋兼茶屋のこと。つまり芸妓などを置いたところ②「輪違屋 三河」で検索すると、赤坂宿の脇本陣の名前が輪違屋である。また鳴海宿の旅籠屋の名前として登場する。どういう意味合いで使っているか不詳。
(4)割木騒動とは、これを読むと松平辰蔵による計画的な騒動ということになる。
(5)割木騒動では、はじめから辰蔵が仕組み、村人をけしかけて「騒動」を起こし、それを圧力として辰蔵が問屋たちから「謝礼」を受け取ったという構造になる。



天保4年割木騒動をめぐる村々(昭和56年「豊田市史 2巻 近世」より)

 割木は、おそらく矢作川下流域の瓦製造業者、陶器製造業者たちが燃料として使ったもので、松平地域でも生産され、九久平の問屋を通して下流域に運ばれたものと思われます。九久平は巴川の港があり、そこに下流からは塩などの物資が運ばれました。割木騒動は、その問屋が相談して割木の値段を低く抑えたことに始まります。これを見た辰蔵は、憤った百姓たちを煽り、23か村の村から問屋めがけて騒動を起こしました。問屋たちは辰蔵に仲介を頼み、割木の値段をもとの値段にすることで騒動は収まりました。辰蔵は、問屋たちから謝礼をもらったということです。
 
 ここから、当時の三河の百姓たちが米作だけではなく、林業(割木の生産)を営んでいたことが分かります。また、23か村に騒動が広がったことから、そういう形態で生計を営んでいた人たちがたくさんであったことが分かります。そして、23か村の人たちが辰蔵を中心にまとまって行動を起こしたという点です。百姓たちがバラバラではなく、自分の生活を守るために団結できたということは、日ごろからいろいろな接点があったと思われます。

 また、割木騒動は、飢饉→米の不作→年貢が払えない→一揆へ、という単純な構造ではなく、商業的な要素を十分に含んだ一揆であることがうかがえます。多くの百姓は、割木を売ったお金や街道での運送業などで得た金で米を買って生活していたものと考えられます。

 また辰蔵についての記述がありますが、なんとなく「悪い奴」「ずるがしこい奴」という印象で描かれています。これはこの「鴨の騒立」の作者である渡辺政香の神職者という立場を反映したものであると思われます。むしろ「邪智ありて、小ざかしく口きく男子なり」とあるように、商才に長け、交渉がうまく、雄弁な男であったと考えられます。このような資質を持った者であったからこそ23か村の百姓を煽ったり、問屋たちと交渉をしたりすることができたのだと思います。

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