愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

妙源寺 岡崎市

2013年12月14日 17時04分08秒 | 岡崎市
家康から「源」をもらい、明眼寺から妙源寺へ
 さらに、家康側についたお寺があります。こちらのほうが有名です。桑子の妙源寺です。もともとは明眼寺という字だったようです。寺内の案内板に三河一向一揆で家康側についたので、家康から「源」(源氏の源という意味でしょうか)の字をいただき、妙源寺と改めたとあります。

妙源寺 本堂

 徳川氏の庇護を受けた証として葵のご紋がありました。



 妙源寺を開いたのは、安藤信平と言うこの地域の在地武士のようです。1235年に親鸞を柳堂に招いて説法を受け、浄土真宗に帰依したそうです。

妙源寺 柳堂 聖徳太子の像があるそうです。

上宮寺を見張る見張り台?
 三河一向一揆当時を偲ばせるような山門がありました。山門と言うより見張り台のように見えました。


桑子と上宮寺(佐々木)は、目と鼻の先です。


 この見張り台から上宮寺の様子を見張り動きがあれば岡崎に知らせていたのではないでしょうか。

真宗でも武士のお墓が
 裏の方にまわりましたら、大きなお墓がありました。

 どれがどれだかはっきり私には分かりませんが、ネットで調べたところ、安藤直次、本多忠豊、本多忠高、高木正清、平岩親吉、長坂血槍九朗のお墓らしいです。先日の講演会で青木馨氏は浄土真宗では菩提寺としての働きはないと言っていて、しかしなお「桑子は例外です。」と言っていました。真宗高田派のお寺ですが、武士のお墓を守ることもしたようです。

見晴台考古資料館 名古屋市南区

2013年12月08日 06時45分19秒 | 名古屋市南区
 以前から一度行ってみたいと思っていた「見晴台考古資料館」に行きました。


パンフの案内図

弥生復元住居
 しかし、失敗続きでした。駐車場はあるのは分かっていましたが、いっぱいかも知れないと思い、近くのコンビニにとめたら、駐車場はがら空きでした。外回りを先に見ましたが、めぼしいものはありませんでした。一番の「売り」と思われる弥生時代住居跡は、「倒壊の危険がるため、休館」ということでした。(これは事前に分かっていました)

弥生時代住居の復元住居が入っていた建物

 窓から見えるかもしれないと思って覗いてみたら、建物は何にもなくて、ただ地面に柱の跡が書き込んであっただけでした。残念。

本当は、中に入って、こんなふうに見ることができるようです。

高射砲台
 外回りは、ほかには戦争中に使われた高射砲台の跡がありました。確かにここは高台で、木がなければけっこう遠くまで見渡すことができるところです。


 後で分かったことですが、この周りは弥生時代には、海だったそうです。ここは、そういう点では海の幸、山の幸に恵まれた場所だったと言えます。

環濠集落
 また、ここは環濠集落でもあったようです。パンフレットにもあったように高台全体を深い溝で囲んでいます。それをほんの一部再現したものがありました。

これで見ると、たしかに鋭利に切り込んでいて、越えることが難しい堀だと思いました。


資料館の中
 資料館の中に入りました。もちろん縄文時代・弥生時代の遺物があると思って期待したのですが、「蓬左を掘る」という企画をしていて、縄文・弥生の遺物はほとんどありませんでした。「蓬左」とは、名古屋城下の別称だそうです。つまり江戸時代の遺物の企画なのです。わたしは古代の遺物を見学に来たのに、残念でした。

 仕方がないので、陳列してあった書籍を買おうと思いましたが、見晴台遺跡について包括的なものはなくて、研究紀要の類がずらりと並んでいました。カラー版で18ページのパンフレットのような冊子がありました。なんと450円。高いのにびっくり。でも初心者にはぴったりの冊子だったので、購入しました。駐車料金、入館料が無料なので、その分と思えばいいかと。

満性寺 岡崎市

2013年12月07日 05時49分12秒 | 岡崎市
 一向一揆では、浄土真宗の全てが一揆側についたわけではありません。浄土真宗の中では高田派は、家康側につきました。満性寺は、岡崎城のすぐ近くにあり、家康についたのもうなづけます。満性寺から岡崎城まで1.2キロメートル、徒歩15分です。

地図でAは岡崎城、Bは満性寺です。

山門

 山門です。鐘楼をかねているようです。上に登れるようになっています。一揆のときに、一揆勢が攻めてこないかを見張っていたのでしょうか。

本堂

三河一向一揆講演会 安城市

2013年12月01日 17時45分14秒 | 安城市
戦国本願寺門徒、信仰のかたち

 12月1日、安城市歴史博物館にて三河一向一揆に関する講演会が開かれました。今年は、三河一向一揆から450年に当たるそうです。そこで、安城市がイベントを企画していただけたと言うことです。安城市といえば、今年は新美南吉でけっこう盛り上がっていたので、三河一向一揆は余り盛り上がらないのだろうと思っていましたが、会場は100人程度の小さな部屋でしたが、いっぱいでした。用意した講演会の資料が足りなくて係りの方が増刷をしてくれていました。
 後援者は、青木馨氏です。氏は、同朋大学の先生で、お寺の住職でもあるようです。講演のテーマは、「戦国本願寺門徒、信仰のかたち」ということで、戦国期の浄土真宗、特に本願寺派がどのようなかたちで信仰をしていたかを中心に話されました。

お話の中身(一部)
 お話で、私の印象に残ったことを箇条書きします。
・上宮寺(岡崎、佐々木)は、当時すばらしい勢力を誇っていたこと、特に如光という僧の功績が大きいこと。
・本願寺から本尊(阿弥陀如来の絵)と御文がセットで各地方に配布されたこと。
・御文は、證如の時代になると印刷されて配布されたこと。
・御文は丈夫な紙でできていて、今でも一般の家にあるかもしれないということ。
・本願寺派にとって寺は、「菩提寺」を意味せず、道場の拡大したものであること。
・同時に、道場の縮小したものがお仏壇であること。
・永禄4年の親鸞聖人300回忌あたりが、本願寺派の絶頂期であること。

 今回は三河一向一揆そのものがテーマではなくその前提となる一向宗(浄土真宗本願寺派)とはどのような宗教だったのかという話でした。

一向一揆で自分の昔を振り返りました
 私の実家も浄土真宗だったので、「御道場」は聞いたことがありましたし、「西御御堂(にしおみどう、西本願寺派の道場)」「東御御堂(ひがしおみどう、大谷派の道場)」は、実家の村にきちんと二つありました。「報恩講」も、「ホンコさん」といって親しんでいました。「ホンコさん」は、秋頃に行われていましたが、私の記憶では村で一番のお祭りだったような気がします。春は「蓮如さん」です。蓮如上人が京都から吉崎に下向されたのを記念してできた行事だったように思います。また、オコサマ(御講様?)といって、村の人たちが定期的に御道場に集まって念仏を唱えることも行われていました。
 そうしてかんがえると、三河一向一揆を考えることは、自分の昔を振り替えることにもなると思いました。

朝倉氏遺跡 福井県福井市

2013年12月01日 10時58分51秒 | 福井県
 11月23日(土)、24日(日)に福井に用事があったので、ついでに朝倉氏遺跡を見学しました。
朝倉氏遺跡資料館
 はじめに朝倉氏遺跡資料館を訪ねました。入館料がここだけだと100円と大変格安でした。奥の方にある復原町並の入場料と合わせても230円と大変安かったです。

 到着したのは、1時30分頃でしたが、ちょうどその日は、歴史講座がある日だったようです。11月24日(日)は、「朝倉氏の領国支配」というタイトルの講座でした。時間があれば、ぜひ聞きたいと思いましたが、残念ながら中をぐるっと見て、先を急ぐことにしました。
 館内は撮影禁止なので、何が展示してあったか紹介できませんが、古いお寺に残っていた古文書や出土したお椀や焼き物などがありました。
バンドコ
 「バンドコ」という暖房器具もありました。「へえ、行火のことをバンドコというのね。」と、後ろでおばさんたちが話していたのが聞こえました。バンドコは、福井独自のことばです。

インターネットから

 さて、朝倉氏遺跡資料館を後にして、さっそく奥のほうへと進みました。まずは武家屋敷の町並みの復原地です。

武家屋敷復原地図(現地パンフレットより)

武家屋敷

武家屋敷の入り口(門)

 武家屋敷の門には、かんぬきがあり、いざというときに締め切ることができるようになっていました。また、屋敷の周りには塀が廻らせてありました。

屋敷の周りのへい

 道は、南北に走っています。手前が北で、奥が南です。したがって向かって左側が東で、右側が西です。へいの石垣が東側と西側で高さが違います。西側のほうに大きな屋敷があるからでしょうか。
石垣と土塀はどのようになっているか、横から見ました。

石垣の上に家を作るように柱が立っていました。けっこうしっかりしたものでした。


武家屋敷間取り(現地案内板)

 南側の主殿は、人形が配置され、より想像しやすいように展示されていました。

台所

台所の様子
 台所には、女性と男性が一人ずついます。ご飯の用意をしているのでしょうか。男性の前には魚がおかれています。魚の下の台は、まな板でしょうか。また、男性は魚(鯛?)を料理しようとしているのでしょうか。この男性は主人なのか、使用人なのか分かりませんが、たぶん使用人だと思います。
 女性は、腰をかがめておくに並べられた容器(壷?甕?)から、何か取り出そうとしているようです。手前にいろりがあり、そのそばに膳が2つ並べられています。おわんは4つ、何を食べていたのでしょうか。女性の立っているところより奥の方に一つ部屋があります。納戸でした。

主殿

 南向きの部屋です。二人で将棋をさしているようです。客人と主人でしょうか。くつろいでいる感じです。烏帽子をかぶっているのが気になりましたが、当時は、家の中でも烏帽子をかぶっていたようです。

離座敷

離座敷
 ここは、お茶でもたしなむとこかなと思って中を見てみましたが、

そういう雰囲気ではありませんでした。何をするところだったのでしょう。

庶民の姿

 復原武家屋敷に当時の衣装を身に付けた人がいました。失礼ですが、おじさん、おばさんふうで、清洲城や岡崎城などにいた武将隊とは全く趣が違っていました。たいへん落ち着いていて、本当に歴史をタイムスリップした感じでした。パフォーマンスはない方がいいです。

職人の家

染物屋
 しばらくいくと、町並みの南の外れに職人の家がありました。染物屋と鍛冶屋です。城下町に職人も一緒に住んでいたことが分かりました。

鍛冶屋
鍛冶屋の中に入ると、鍛冶屋で作っていたらしい大工道具が展示してありました。

また、それを使って大工仕事をしている職人の絵図がありました。

昔の職人の様子がよく分かりました。
 
 復原武家屋敷を後にして、橋を渡るといよいよ朝倉氏の館跡です。南のほうから見ていくことにしました。

 すぐのところに米津というよころがありました。ただの広場のように見えましたが、朝倉氏城下にとって重要な地で、刀装具などを作るところだったそうです。

諏訪館跡庭園
 米津から北のほうへ行くと、素晴らしい庭園がありました。諏訪館跡庭園です。

 諏訪館跡庭園は、朝倉5代目当主義景が奥方「小少将」のために建てたと伝えられる館の庭園です。ちょうど、木が紅葉し、大変きれいでした。

英林塚
 諏訪館後を山の方に登ると朝倉孝景(初代、英林孝景)の墓所がありました。孝景は二人いて、初代と4代目が同じ名前です。区別するために、初代を英林孝景と呼ぶことがあるそうです。この墓所も「英林塚」とありました。



朝倉氏館跡
 英林塚から降りると、朝倉氏館跡を一望できる場所がありました。





唐門
 最後に有名な朝倉氏遺跡のシンボルともいうべき唐門を見ました。