未熟なカメラマン さてものひとりごと

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井伏鱒二の小説「黒い雨」の舞台を行く。映画を見て私が気になってしょうがなかったこととは!

2020-09-15 22:33:24 | 歴史
(黒い雨とは?)
黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物の一種です。核分裂で生成される物質は水溶性ですが、火炎や強風にによって舞い上がった煙の中の泥やほこり、すすの成分が雨滴に吸着して黒い色になったものです。

(黒い雨訴訟)
戦後75年、いまだに原爆と戦っている人たちがいます。広島地裁は、令和2年7月29日、原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を国の援護対象区域外で浴びた原告84人全員を被爆者として認めました。しかし、広島県、広島市、国は控訴しました。過去の最高裁判断や、健康被害を黒い雨の影響とする新たな科学的知見がないことをその理由としています。また、県や市が求める援護対象区域の拡大に関し、区域の拡大も視野に入れた再検討を行うため、これまでに蓄積されてきたデータを最大限に活用し、最新の科学技術を用いて、可能な限りの検証を行うとしています。今後の展開を注視していきたいと思います。

(映画のロケ地、岡山県八塔寺ふるさと村)
そんな折、先月の初め、映画やテレビドラマのロケ地としても知られる、岡山県備前市吉永町の「八塔寺ふるさと村」を久しぶりに訪ねました。美しい田園風景には心を癒されましたが、その茅葺民家の象徴的な1棟が、八塔寺国際交流ヴィラでした。もともと村のはずれにあったものを、わざわざ映画「黒い雨」のために今の場所に移転させたそうです。
今村昌平監督は、撮影の候補地としてその実際の舞台である小畠(現広島県神石高原町)を訪ねたそうです。しかし当時の状況から随分様変わりしているので、当地での撮影をあきらめ別の候補地を探していたところ、八塔寺の存在を知り決めたそうです。


八塔寺ふるさと村 岡山県備前市吉永町加賀美 撮影日:2020.8.11


小畠村の閑間重松宅に使用された、八塔寺国際交流ヴィラ

(映画「黒い雨」を見て気になったこと)
実際に八塔寺のロケシーンが銀幕でどのように映っているかとても興味がありました。その物語のラスト、矢須子(田中好子さん)が倒れ、救急のトラックで運ばれるシーンがありました。私が気になっていたのは、その後の矢須子のことです。突然終わった感じがして、気になって仕方ありません。
DVDのデジタルニューマスター版では、矢須子が生き延びて原爆投下から20年後に四国の霊場をヤケドの四十男と共に巡礼として歩く原作には無いエピソードが19分のカラー映像として描かれているそうです。しかし映画で、今村監督は最後まで迷ったあげくそのシーンは採用しなかったそうです。(Wikipediaより)
こちらでのロケは100日間もかけて行われました。ある雑誌のインタビュー記事で、田中好子さんは、次のように語っています。
「撮影現場の八塔寺に行ったとき、最初はセーターとGパンだったけど、いつかジャージーになり、スニーカーはサンダルになって、気がついたらもんぺと長靴の毎日。村のたたずまいや合宿生活が私を変えて、矢須子という役に近づいた。」と。


(井伏鱒二の小説・黒い雨には、モデルがあった
井伏鱒二は、旧深安郡加茂町の出身でした。釣り仲間の旧神石郡三和町小畠の重松静馬から、自分が体験した被爆のことをノートにまとめてある、孫の世代に知ってもらうため、ぜひこれを題材にして小説を書いて欲しいと頼まれます。当時東京在住の井伏は、被爆に関してはまったく知識がなく、この日記を使用してよいか尋ねます。すると一向に構わないとの返事。井伏は新潮社と相談し、10万円を新潮社から、後日5万円を井伏が負担し、買い上げています。また、重松に幾度も相談をし、調査の依頼もしています。また、実際の被爆者から聞き取り調査もしています。まさにこの小説は、二人三脚で出来上がったものといえます。当初は、姪の結婚という題でスタートしていますが、途中から黒い雨に改題しています。
物語は、閑馬重松・シゲ子夫妻と、姪の矢須子の3人を主人公に、広島での被爆から、重松の生家である小畠村でのできごとを題材にしています。


(重松日記の誕生)
日記の原本は、重松家に保管されていましたが、重松家現当主の文宏氏ご夫婦の了解を得て、太宰治の研究で知られる・相馬正一氏(そうましょういち:1930~2013)が重松の被爆日記から表記を現代仮名遣いで活字化し、筑摩書房から「重松日記」として出版したのでした。日記の著者は重松静馬となっています。静馬氏が逝去して実に20年後のことでした。
但し、重松日記には、広島から小畠村に帰った以後のことは、一切書かれていません。当時、小畠村の生家には、小学生の養女フミエさん(現当主重松文宏氏の奥様)がいました。重松日記・巻頭の手紙はこのフミエさん宛てに書かれたと思われます。
重松日記は、2001年5月に第一冊が発行され、以降第三冊まで7000部が発行されましたが在庫切れとなっていました。2018年、実に17年ぶりに第四冊1000部が発行されました。



筑摩書房から発行された重松日記 小説「黒い雨」の第一資料

(志麻利で重松文宏さんから聞いた話)

そこで、物語の舞台となった神石高原町小畠を訪ねてその資料を拝見したいと思いました。特に、矢須子のモデルとなった安子さんの物語への関わり合い、その後どのように生きられどのような生涯を送られたのか?を知りたいと思ったのです。

訪ねたのは、黒い雨の資料を保存展示している、ふれあい平和サロン歴史と文学の館「志麻利」です。玄関先で声を掛けると「わざわざ、このために県外からお出でいただきましたか」と恐縮しながら、うれしそうに、迎えていただきました。玄関の受付で記帳し、資料が展示されている畳の部屋に案内されました。この志麻利、週3日のみ開館し、会員が交代で対応しているとのことでしたが、この日はたまたま重松文宏館長が当番に当たっておられたようで本当にラッキーでした。



ふれあい平和さろん・志麻利 右側の建物


重松文宏氏から詳しく説明をいただいた


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二(左)と重松静馬氏


井伏鱒二の原稿 題は「姪の結婚」


展示室


展示室 

展示室は、井伏鱒二と重松静馬氏の出会いから始まって、黒い雨の執筆に至る経緯、また関連する資料が、ぐるりと並べられていました。私は事前にネットから重松日記関連記事を読み、ある程度は理解できていたと思います。重松さんとの会話の中で、何度も「これはよくご存知ですね」と感心いただきました。

重松文宏さんは、当年84歳だそうですが、とてもお元気でしっかりされていました。初め、矢須子のモデル安子さんのご主人かと思いましたが、年齢が合いません。前出の幼いころから養女に入られていたフミエさんのご主人にあたられます。

(訪問日:2020年8月23日)

(矢須子のモデル、安子さんのかわいそう過ぎる生涯)
重松日記の最後の章に、その後の安子さんについて書かれていました。私が最も感心があった部分です。安子さんは、重松夫妻と広島から帰ってきて、翌年結婚しています。その後しばらく子どもはできませんでしたが、9年目(昭和30年)にして待望の第1子誕生。2年後に第2子が誕生したあと軽度の原爆病を発症、昭和35年1月21日、原爆症による心臓疾患で死去、若干35歳の命でした。
映画の矢須子役の女優・田中好子さんは、映画収録3年後に乳がんが見つかりました。以後、表面には出しませんでしたが、女優業も兼ねながら癌との闘病生活が始まりました。そして、こちらも53歳の若さで亡くなっています。


(安子さんは、ほんとに黒い雨を浴びたのか)
小説「黒い雨」では、回想する形で、矢須子は黒い雨を浴びたことになっていますが、重松日記では、一切そのことについては書かれていません。となれば、証言者の話を聞いた中で、あるいは何かをヒントに井伏が創作で書き上げたということでしょうか。このことについて、相馬正一氏も「井伏の思い違いか作り話である」と述べています。小説なので、それは一向にかまわないのですが、この小説の題名であり、とても重要なテーマなので気になりました。

(物語の舞台となった小畠を行く)


小畠の町並み


「黒い雨」のモデル 重松静馬氏生家


井伏鱒二揮毫による記念碑


井伏鱒二「黒い雨」の文学碑


つつじが丘公園から見る小畠の町


「黒い雨」の終章となる乱塔池

最後に、小畠の町を散策して帰ることにしました。実はナビをセットし向かう時、かなりの田舎と思っていたら商店や民家が連なる想像以上の町筋でした。どうしても八塔寺の田園風景がイメージにあり余計にそう感じたのでしょう。物語の舞台となっているスポットを重松さんから教えていただきました。最初に訪ねたのが重松家です(外観のみ)、映画と違って、町並みを見下ろす高台にありました。もともと麦藁葺きでしたが現在はトタンで覆われています。終戦時すでに築200年以上(重松日記)とのことでしたから、最低でも250年以上経っていると思われます。堂々たる構えです。
次に向かったのが、つつじが丘公園です。重松さんから聞いて、おおよその見当はつけていましたが、少し道に迷いました。急な坂を上りきると公園らしきエリアがあり、文学碑と書かれた石碑がありました。文面は次のとおりです。


「戦争はいやだ 勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい」

重松日記には、その日の日めくりカレンダーから「最も正しき戦争よりも、最も不正な平和を選ぶ」と、ローマの政治家、キケロの言葉が印刷してあった、とあります。この言葉が引用されたのでしょう。
つつじが丘公園の眺望はなかなかのものでした。眼下に小畠の石州瓦の町並みが見えます。
そして最後に向かったのが小説にある鯉を養殖したという池・乱塔池です。
こうして、本日の日程を終え、最後に重松さんにもう一度お礼の挨拶をして小畠をあとにしました。
気になっていたことは解決しましたが、たまたまこの時代に生まれ、悲惨な体験を余儀なくされた広島の人々のことを思うと、いたたまれない気持ちになりました。


ふれあい平和サロン歴史と文学の館・志麻利 広島県神石郡神石高原町小畠1733
 TEL(0847)85-2808 開館日:毎週月・木・日 開館時間:御前10時~午後3時
冬期閉館(12・1・2月) 重松日記はこちらで求めることができます。

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