夕方、5時30分くらいに我が家から見える空の色がとても美しかった。太陽は既に鈴鹿の山に落ちていて、山並みを覆う千切れ雲は不思議なほどピンク色に染まっていた。太陽が沈んだ辺りからはこれも赤だけれどもどこかピンクがかった火柱のような光が天に向かって伸びていた。ほんのわずかな時間のことだ。夕焼けで空が真っ赤に輝いている光景は時々目にすることはあるけれど、ピンク色の夕焼けは初めて見たように思う。
中学生の時、学校から帰る途中で学校のある東の空に真っ赤な月が上がるのを見た時も感動した。赤い月は大きく満月だったと思う。それは神秘的で、何か不吉な感じさえした。その頃だったか、ラジオドラマか小説か覚えがないが、『赤い月』という戦争をテーマにしたものが流行っていたような気がする。その中身は知らないのに、その時の赤い月だけが鮮明に残っている。
月とか星とか雲とか、空の色もそうだけれど、時々ビックリするような美しいものに出会う時がある。これもハッキリ覚えていないが、まだ夕方からだんだんと空が暗くなりかけていった時、いやもう少し暗くなった時だったかな、空を見上げると青味がかった黒というか、澄んだ群青の闇というか、不思議な空だった。ああ、瑠璃色とはこういう色かとその時思った。
満天の星空を見たことがある。アメリカの12月、ロッキー山脈の中の高原で、夜中に星を見に行った。確かにたくさんの星が輝いていたけれど、日本の木曾の高原で見た時とは違っていた。アメリカでの星空は天空が高かった。空気は凍っていた。それより前、まだ教師をしていた時、夏休みに木曾の薮原に生徒たちとスケッチ旅行に出かけた。夜キャンプファイヤーをして、みんなで騒いだ。火を消して、草むらに寝転んで空を見上げてビックリした。満天の星空だった。いやそればかりか、天に向かって手を伸ばせば、星をかき集めることが出来るほど近くに感じた。
人は一生懸命生きている。生きているのに、その存在はなんと小さいことか。宇宙があり、地球があり、そしてその地球のホンの片隅で私たちは生きている。喜んだり、悲しんだり、恋したりして、その一生を終わる。人は自分の生涯しか責任をもてないが、自分ではそれが全てだから、もっとも大きな存在である。小さな存在だけれども大きな意味がここにあるように思う。
中学生の時、学校から帰る途中で学校のある東の空に真っ赤な月が上がるのを見た時も感動した。赤い月は大きく満月だったと思う。それは神秘的で、何か不吉な感じさえした。その頃だったか、ラジオドラマか小説か覚えがないが、『赤い月』という戦争をテーマにしたものが流行っていたような気がする。その中身は知らないのに、その時の赤い月だけが鮮明に残っている。
月とか星とか雲とか、空の色もそうだけれど、時々ビックリするような美しいものに出会う時がある。これもハッキリ覚えていないが、まだ夕方からだんだんと空が暗くなりかけていった時、いやもう少し暗くなった時だったかな、空を見上げると青味がかった黒というか、澄んだ群青の闇というか、不思議な空だった。ああ、瑠璃色とはこういう色かとその時思った。
満天の星空を見たことがある。アメリカの12月、ロッキー山脈の中の高原で、夜中に星を見に行った。確かにたくさんの星が輝いていたけれど、日本の木曾の高原で見た時とは違っていた。アメリカでの星空は天空が高かった。空気は凍っていた。それより前、まだ教師をしていた時、夏休みに木曾の薮原に生徒たちとスケッチ旅行に出かけた。夜キャンプファイヤーをして、みんなで騒いだ。火を消して、草むらに寝転んで空を見上げてビックリした。満天の星空だった。いやそればかりか、天に向かって手を伸ばせば、星をかき集めることが出来るほど近くに感じた。
人は一生懸命生きている。生きているのに、その存在はなんと小さいことか。宇宙があり、地球があり、そしてその地球のホンの片隅で私たちは生きている。喜んだり、悲しんだり、恋したりして、その一生を終わる。人は自分の生涯しか責任をもてないが、自分ではそれが全てだから、もっとも大きな存在である。小さな存在だけれども大きな意味がここにあるように思う。