友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

吉本隆明氏の『老いの幸福論』

2011年05月10日 20時38分55秒 | Weblog
 久しぶりに本格的な雨降りとなった。天気予報では金曜日まで続くという。我が家のルーフバルコニーにはたくさんの鉢植えがあるが、この冬の水遣りが充分でなかったのか、バラとデイゴとランタナが1鉢ずつ、未だに芽噴いてこない。たとえ冬場であっても、樹木は水を求めている。花が咲いているいい時だけ水を欲しがるのではない。人も花咲いている時だけ、輝いている時だけ、人の愛を求めているわけではない。

 デイゴは直径1メートル近くの大きな鉢に植えてある。今年の冬は厳しかったけれど、寒さに耐えられなくて枯れてしまったのだろうか。しかし、近くの学校の校庭にも地植えのデイゴの木があり、我が家と同じように風雪に耐えている。鉢を置いた場所がいけなかったのかと思いながら、とにかく水を遣り続けてきた。今朝見るとまだ本当に小さいけれど、芽が吹き出しそうな気配である。問題はランタナとバラで、ランタナは50鉢以上もあるけれど、一番花がきれいで枝の形が見事な鉢だけにこれも何とか生き返って欲しい。

 バラは背丈が高く、冬の間中強風にユサユサと揺られ続けてきた。それでも春になって新芽が出てきたのに、水遣りが足らなかったのだろう、枯れてしまった。この雨で元気を取り戻してくれないかと願っている。草も木も花も、どんなに寒い日が続いたとしても、その時がくれば必ず芽を噴き、花を咲かせる。野菜を育てている友だちが「人間は自然にどうやっても勝てない」と言っていたけれど、全くその通りだと思う。

 私たちの世代では神様のような存在だった吉本隆明氏が『老いの幸福論』を出している。凄い思想家だと思っていたけれど、やはり老いには勝てないようだ。1924年生まれだから87歳か、足腰が痛いとか糖尿病がどうとか棺おけに片足突っ込んでいるとか、なんとまあ詰まらないことを書いている本かと思ったけれど、年齢を思えば無理はないが、それなら静かに迎えた方がいいのにと思えてしまった。

 「老い先短く死が怖い」と何度も繰り返し出てくるけれど、私は20年も年下だからか、その気持ちがわからない。老いたとは思うけれど、死が怖いとは思ったことがない。「死の恐怖」は人間に宿命的なものだと吉本氏は言う。母親の羊水の中にいたものが生まれ出た時、空気呼吸をしなければならない環境の激変は心の傷であり、もっと遡れば、母親のお腹にいる時に嫌な思いをさせられたなら、そのことが無意識に残っているので死の恐怖からは逃れられないと言うけれど、なるほどとは思えない。

 吉本氏は「死がもし不幸の極みだとするなら」とか「死も含めて不幸なこと」と、死を不幸の側で捉えている。私は吉本氏の年齢に達していないためなのか、逆に死で全てが終わるわけだからありがたいと思っている。もうこれ以上恥をかくこともなければ嫌な思いをすることもない。長い間生きてきて楽しいことも苦しいこともあったけれど、死は全てを帳消しにしてくれる。やがて何年もすれば生きていたことすら忘れられる。自分が生きてきた痕跡を消してしまいたいと思っていたけれど、そんなことは自然にそうなっていくのだ。
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