友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛してくれと強制してどうなる

2011年05月26日 22時05分16秒 | Weblog
 大阪府の橋下知事が代表を務める「大阪維新の会」が、府議会に「君が代起立条例」を提出するという。府議会で単独過半数を占める「大阪維新の会」だけに可決される公算は大きい。私はやはり来たかと思った。橋下知事はテレビに登壇していた時から好きになれない人であった。若いのにこれほど右よりの人も珍しいと思っていた。今、リベラルな人は少ないけれど、橋下さんのような超右よりな考え方を恥ずかしくもなく開ける人は少ないだろうと思っていたが、右よりな人はむしろ公にして当たり前のように思っている。

 何が右で何が左なのか、実際に定義するとなると難しいし、そんな風に分類されるよりは多くの大衆のように、どちらにもつかず離れずの得体の知れない存在である方が生き易いのかも知れない。自分の考えを表明しなければ、人から非難されることもないし、ましてやアレコレと考えることもない。多くの人々が口にすることを口にすればいいし、考えたりして辛い思いをするような窮地に立たされることもない。人々が「君が代」を歌えば、歌の意味など考えずに歌えばいい。自分に忠実に生きたところで、どれほどの価値があると言うのだろう。

 「大阪維新の会」は、卒業式や入学式などの公式の場では「君が代」を斉唱することは義務だと言う。もし、これに逆らうのであれば罰則を与えるという厳しいものだ。東京都の石原知事も「君が代」の斉唱を求め、都教育委員会は伴奏を拒否した音楽の先生に罰を与えた。これからは石原知事や橋下知事のような人が出てくるのだろう。それも、たとえば橋下知事が「鳥取県のようなところならば県議は6人でいい」というような、改革の名の下に有権者の支持を得ていくのかも知れない。ここが恐ろしいところだ。これまでの行政の無駄にメスを入れるようなポーズをしているが、有権者である庶民の気持ちを利用するだけで、決して庶民の味方にはならないだろう。

 「君が代」を歌うか否かは個人の問題だと私は思っている。高校生の時、生徒会長だった私はプールの竣工式で花串奉天を行なうようにと要請された。けれどその頃はキリスト者として生きていきたいと思っていた私には難題であった。キリストに従うべきか、生徒会長として努めるべきかと悩んだ。原則主義者であったから、玉串奉天は拒否したように思っているけれど、実際は妥協していたのかも知れない。「君が代」にどれほどの意味があるのかと言う人もいるけれど、江戸時代の踏み絵のようなものでたとえ意味など無くても、だからと言って踏みつけられるものではない。

 納得のいくことならば、受け入れられるけれど、納得できないことを強制することは権力が行なうことではない。思想信条にかかわることならば尚更だと思う。それでも必要だと思うのであれば、その理由を論理的に説明し、説得すべきであろう。情に絡むことは情に任せておけばいい。自分を愛せなくなっている女に、愛してくれと強制してどんな意味があるのだろう。相手がぞっこんになるように努められないのであれば、やめた方がいい。
コメント
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