友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

母の日に

2011年05月07日 20時07分29秒 | Weblog
 「明日は母の日ですから、出かけます」と70歳の友だちに話すと、「私なんか一度も母の日なんてやったことないですよ」と言う。「ええ、高校の時に母親を亡くしていますから、私も一度もやってないですね」と皮肉っぽく言ってみる。「えっ、出かけると?」「はい、そうですよ。母の日は子どもたちがやってくれるので、私は便乗するだけです。だって、カミさんは私の母親ではないですから」。それを聞いて納得してもらった。母の日をダンナが祝うのはちょっとヘン。5日のこどもの日を自分の子どもであっても、もう子どもではない大人を祝うのも同じようにヘンだ。

 明日は母の日であるけれど、こどもの日をやらなかったから、カミさんの誕生日と3つ合わせてやろうと長女が提案してきた。私は年行事をできる限り行なうように努めて来た。家族が一緒に食事をする機会は多い方がいいと思うからだ。自営で仕事をするようになってからは、特にそうしてきた。それはちょうど、長女が高校生になる頃で、クラブ活動と学校のこととかで家族で旅行する機会が減ってしまったから、無理やりこじつけてきたのかもしれない。娘たちが小さい頃は5月5日と10月10日は家族で遠足と決めて、東海遊歩道をよく歩いた。

 私が子どもの頃にも母の日はあったかも知れないが、特別に何かを行なったという記憶はない。それでもカーネーションをプレゼントする風習が定着し始めた頃に、母にカーネーションを1本買ってきたようにも思う。それは自分が大きくなって、そうしたかったという願望が描いたことなのかもしれない。母は気前のいい人だったけれど、子どもの私には厳しかった思い出ばかりである。姉の話では、母が教職にあった学校に父が代用教員でやって来て、ふたりは結婚したという。年上の母から見ると、小説家志望の父は役者のように色白の男前で、夢のような大風呂敷に惹かれてしまったらしい。

 しかし小説家にはなれず、父よりも年下で母と同じ知多出身の新見南吉が童話作家として名を上げていたから、負けず嫌いな母としては悔しかったことだろう。小学校の先生としては有能だったのか、父は早くに校長になった。世間知らずの父は祖父と馬が合わなかったにもかかわらず、家業がうまくいかなかった時にはかなりのお金を注ぎ込んだそうだ。また、学校の若い女教師に熱を上げたこともあったようだ。父の日記にそんなことを思わせる文面がある。母は苦労ばかりの人生だったのかも知れないが、本当はどう考えていたのだろう。父を恨んでいたのだろうか、自分の人生を不幸だと思っていたのだろうか。

 母が笑う時はうるさいくらいの豪傑笑いだった。父をいつも頼りにしていたし、あの大笑いでは不幸の方が逃げてしまっただろう。私の子どもは娘ふたりだが、父親より母親を大事に思う子どもであって欲しい。やがていつか、娘たちも母親と同じ年齢となり母親を誇りに思うようになるだろう。さて、孫娘ふたりにはこどもの日に何を贈ろうか。
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