友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

悲惨な事件がこれ以上起こりませんように

2011年05月24日 21時28分23秒 | Weblog
 先日、名古屋地裁で「4年後に自殺したのはいじめが原因」と認めた判決が出された。中学1年の半ばから「ウザイ」とか「死ね」とノートや机に書かれたり、靴に画鋲を入れられたりした。母親は学校に対処を求めたが改善されることはなく、少女は転校した。しかし、これで終りではなかった。少女は高校2年になって自殺した。「いじめ」から4年も経たけれど、自殺の原因は中学1年の時のいじめであると認めた判決である。小学校の時のクラス会があった時、いじめっ子だったヤツに誰かが当時のことを問いただしたけれど、いじめた本人は何も覚えていない様子だった。それに対していじめられた側は半世紀を経ているのに忘れられないのだ。

 いじめる側にある人は、あまり深く考えずに、面白がってやっている。そこが一番の問題だと思う。面白がって行なっている自分の行為が相手に何を与えているのか、見ようとしないからいじめることが出来るのかも知れない。「あさま山荘の連合赤軍」は多くの仲間を総括の名の下にリンチにかけて殺してしまった。いじめに加わらなければ次は自分が殺されるかも知れないという恐怖が、自分の行為が相手に何を与えているか、見ないようにしたのだろう。「いじめ」に加わった子どもたちもそんな意識が働いたのだろうか。ただ、面白がってやってしまったのだろうか。

 自分が何をしているのか、判っていたのではないのかと思う事件が今日の新聞に載っていた。岡山県で母親が、広汎性発達障害と知的障害の娘を全裸にして縛ったままに放置し殺してしまった。16歳の娘は137センチ24キロと小さい。6歳の時に診断を受けて以後10年間、母親はどんな思いで娘を育てて来たのだろう。いつかはよくなると思い続けてきたのかも知れない。その思いが強くなればなるほど、思いとは程遠くなる娘に殺意さえも抱くようになってしまったのだろうか。

 認知症のつれあいやあるいは親を介護する人は、相手が健康で溌剌としていた時を知っているために、よくなって欲しいという思いが強く、決してそうならない現実に絶望してしまうことがある。カミさんは娘に「孫の世話はしないけれど、私の世話もしなくていいから」と伝えたと言う。どこまでも気丈夫と言えるが、冷たい言い方だと思う。私が言うなら、さもありなんと聞き流してくれるかも知れないが、母親のこの言葉は娘には辛かったのではないか。けれどもそれは母親として、娘への最大の思いやりなのだろう。

 相手への思いやりも大事だけれど、聞く方もまた相手がどういうつもりなのかを知ることが大事だ。本当はそうなのだけれど、そこがうまくいかないのが人の世の常なのだ。愛しているが故に、相手を死に追いやってしまうことがあったり、相手の思いとは裏腹に別れていくなど、思ってもみない事態へと発展してしまうのが人生のようだ。無力な私は、願わくば悲惨な事件がこれ以上起こりませんようにと祈る他ない。
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