暑い。35度とか36度いや37度だったらしい。そんな暑い日だったけれど、井戸掘りに出かけた。津島市のお寺で、お盆までに井戸を掘って欲しいということだった。急なことでメンバーは3人しか都合がつかなかった。7人いても一番若いのが私なのだから知れているが、3人は実際にきつかった。地域から推察すれば必ず水は出るからと言うので取り掛かった。汗が顔から滴り落ちる。上のシャツは胸も背中も汗でびっしょり濡れている。さらに、送り込む水が繋ぎ目から噴出して頭や顔にかかる。もう、やけくそである。3時間ほど格闘して何とか6メートルほど掘り下げる。しかし、水の出が悪い。お昼ごはんを食べて再度挑戦する。今度は大量の水を汲み上げることが出来た。水温も冷たくて気持ちがいい。バンザイである。
「誰も熱中症にならなくてよかった」「3人はちょっと大変だったけれど、水が出てしまうと大変とも思えないから不思議だ」「暑さにはまいったが、以外に疲労感は少ない」「いや、水が出たからそう思うので、水が出なかったなら暑さと疲労で誰も口も利かないのじゃーないの」。おそらくそんなところだろう。やり遂げる感覚とやり遂げられなかった感覚では全く違うものがある。井戸掘りなんて小さなことだけれど、働くことはそんな達成感が欲しいからなのかも知れない。専業主夫をやっていたことがあるが、料理を作ったり掃除をしたり洗濯をしたり、そういう家事はなかなか達成感が味わえない。これをやると決め、たとえそれが成功したとしても、自分でほくそえむだけになってしまう。
家事が楽しい人もいるけれど、社会的な評価というかつながりがないと感じたので、結局私は社会に出て働く道に戻った。40代や50代の主婦が子育てを終え、このまま私は歳を取っていくだけでいいのだろうかと思う気持ちは分る。人は家族以外の第3者から評価して欲しいものなのだ。PTAの役員などをするといきいき輝いてくるのもそのひとつだろう。経済的な問題、収入を得るということも大事なことだけれど、男たちが会社やあるいは商売で「ああ嫌だ」と言いながらも働き続けるのは、それで自分と社会をつなげているからではないだろうか。女も男も小さな社会である家庭を持つけれど、それはあまりに小さすぎて相手を評価するには照れ臭いのだろう。だからもう少し、大きな社会で自分を評価して欲しいと願うのだと思う。
人が生きるというのは、自分の存在を認めてくれる人がいるということに尽きる。家族はもちろん“あなた”を認めてくれている。認めてくれているけれども、客観的な評価はできないのが家族だろう。いや、家族はもっと根の深いところで“あなた”を認めているのだけれど、それを口に出す習慣が日本にはないのだ。父であろうと母であろうと兄や姉や弟や妹であろうと、身近にいるが故に「“あなた”がいて良かった」とは照れ臭くて言えないのである。誰かが“あなた”を評価してくれたなら、人は満足を得ることが出来ると思う。あなたはたくましい、活発で頼もしい、美しいし可愛い。あなたがいない世界は考えられない。
「誰も熱中症にならなくてよかった」「3人はちょっと大変だったけれど、水が出てしまうと大変とも思えないから不思議だ」「暑さにはまいったが、以外に疲労感は少ない」「いや、水が出たからそう思うので、水が出なかったなら暑さと疲労で誰も口も利かないのじゃーないの」。おそらくそんなところだろう。やり遂げる感覚とやり遂げられなかった感覚では全く違うものがある。井戸掘りなんて小さなことだけれど、働くことはそんな達成感が欲しいからなのかも知れない。専業主夫をやっていたことがあるが、料理を作ったり掃除をしたり洗濯をしたり、そういう家事はなかなか達成感が味わえない。これをやると決め、たとえそれが成功したとしても、自分でほくそえむだけになってしまう。
家事が楽しい人もいるけれど、社会的な評価というかつながりがないと感じたので、結局私は社会に出て働く道に戻った。40代や50代の主婦が子育てを終え、このまま私は歳を取っていくだけでいいのだろうかと思う気持ちは分る。人は家族以外の第3者から評価して欲しいものなのだ。PTAの役員などをするといきいき輝いてくるのもそのひとつだろう。経済的な問題、収入を得るということも大事なことだけれど、男たちが会社やあるいは商売で「ああ嫌だ」と言いながらも働き続けるのは、それで自分と社会をつなげているからではないだろうか。女も男も小さな社会である家庭を持つけれど、それはあまりに小さすぎて相手を評価するには照れ臭いのだろう。だからもう少し、大きな社会で自分を評価して欲しいと願うのだと思う。
人が生きるというのは、自分の存在を認めてくれる人がいるということに尽きる。家族はもちろん“あなた”を認めてくれている。認めてくれているけれども、客観的な評価はできないのが家族だろう。いや、家族はもっと根の深いところで“あなた”を認めているのだけれど、それを口に出す習慣が日本にはないのだ。父であろうと母であろうと兄や姉や弟や妹であろうと、身近にいるが故に「“あなた”がいて良かった」とは照れ臭くて言えないのである。誰かが“あなた”を評価してくれたなら、人は満足を得ることが出来ると思う。あなたはたくましい、活発で頼もしい、美しいし可愛い。あなたがいない世界は考えられない。