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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

個性的な人がいないと

2011年08月21日 22時11分49秒 | Weblog
 暑い日が続いていたけれど、昨日から雨が降りかなり涼しくなった。土は乾燥しきっていたから惠の雨というところだろう。私は水遣りをしなくてすむので大助かりだが、夏の疲れが出てきたかちょっと無気力状態になっている。今月もあと10日で終わる。早いものだと思う。盆過ぎには井戸掘りをしますと約束しているところが何件もある。忙しくなりそうだが、何よりもうまくいくだろうかという心配の方が先に立つ。まだまだ、これでいけるという器具と技術が確立されていないからだ。

 今朝、次女夫婦がいるならと長女夫婦が2歳になった孫娘と一緒にやって来た。昨夜、都合が付くようなら一緒に食事をと思っていたけれど、折り合いが付かなかったのだ。「カステラを持っていくから」と言うので、私はコーヒーを用意して待った。孫娘は7月で2歳になったばかりなのに、「ママちゃん、パパちゃん、おじゃまします」とお茶目なことを言う。おそらく父親の影響だろうけれど、2歳にしてアイパットを見事に使いこなすのにも驚かされる。今、流行の『まるまるもりもり』を映し出して踊って見せてくれる。

 孫娘の踊りは随分とヘンだけれど、そのためにかえって可愛いから不思議だ。長女も子どもの頃はよく自分で歌を作って踊っていた。小学校の何年生頃までやっていたのだろう。言うことも変わっていたから、義父は「この子は天才だ」と喜んでいた。歌や踊りに敏感に反応するのはきっと子どもだからだと思うけれど、孫娘は長女や音楽好きの父親の血を受け継いでいるのだろう。優れた才能がこのまま大きくなって欲しいと願うけれど、学校教育の中ではいつの間にか「普通の人」になっていく。

 学校教育は国民としての均質化というか、社会で生きていくための素地を作ることに重点を置いている。個性を伸ばすのはその上に立ってということになるから、その段階では均質化されてしまう。普遍的な社会人が大事なことはよく分るけれど、他人との違いが大きな人は苦しむことになる。まあ、これも人間社会の宿命のようなものかも知れない。普通の人が多くなければ社会はまとまりを失ってしまうだろう。それでも負けない個性の持ち主は、世に出て行くし、ちょっとばかり個性的な人は普通に近い人になっていく。

 民主党の党首選挙に何人もの人が名乗りを上げているが、魅力を感じる人がいない。反原発の人はもちろん脱原発の人もいない。この国をどのような国にしていくのだろう。政治は常に金儲けと結びついて来た。先の戦争でも軍部と企業は癒着して、利権に走った。政府の責任者の一人であった鈴木貞一は南方への進出、その植民地化について、「正義感を持ってやれば搾取ではない」と言っていた。こんな論理がまかり通っていくのが政治の世界なのだ。国民が均質化されればますます誰も異議を唱えないだろう。

 ちょっとばかり個性的な人がいないと歪んだ社会になりやすいのではないかと思う。
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