「大阪維新の会」(代表は橋下大阪府知事)がまた動き出した。9月定例府議会に、教育基本条例と職員基本条例を提案するというのだ。首長は教育委員を任命し、議会の承認を得ていたけれど、教育行政は独立したもので、首長の関与を排除してきた。議会でも教育にかかわる質問に対しては教育長が答弁に当たっていて、首長は教育の中身にはかかわらないのが一般的であった。首長が代わる度に教育の中身が変わってはならないとしたためである。首長は、たとえば学校図書の充実を図るとか、先生を補助する人を設けるとか、学級の定員を30人にするとか、教育環境の整備などを進めることはあっても、教育の中身に踏み込むことは出来なかった。
「大阪維新の会」は、知事や市長の役割として「教育委員会との協議を経て、学校が実現すべき教育目標を設定する」と規定している。教育委員が「目標を実現する責務を果さない場合は罷免できる」とも定めている。自らが任命した教育委員であっても、意に従わない者はクビにするという強固なものだ。そればかりか学校運営についても、校長に人事などの幅広い裁量権や予算要求権を認め、校長による学校運営の強化を目指していくようだ。これまでの教育現場は、教職員の協議で学校運営を決めてきたけれど、上からの命令に一本化しようというのだ。先に制定した「君が代起立斉唱条例」を念頭に、職務命令に違反した場合は1回目は警告と研修、2回目は実名公表、3回目で懲戒免職とする厳しいものである。
教育は大雑把なものでよいと私は思っている。私が教員だった時、先生の中にもいろんな人がいて、全員が熱心とはいえなかったし、すぐに怒る人もいたし放任の人もいた。若い時は威圧的な先生が嫌いだったけれど、今から思えばいろんな先生がいていい。生徒との間であるいは先生同士の論議の中で、先生も変わっていくこともあるし、変わっていく先生が優れた教師なのかも知れないと思う。子どもの指導についても、厳しくすることで教育効果が大きいと考える人もいれば、優しく接する方がよい結果を生むと考える人もいる。子どもも千差万別でどの方法がよいかは様々だ。だからこそ、子どもにかかわる先生たちの真剣な論議が必要なのだ。
校長と副校長によって上からの命令で学校を運営することは子どもたちにとっては不幸なことだと思う。学級担任が代わると、学級の雰囲気も変わる。いろんな人と出会うことで、人の良し悪しを子どもたちも見定めることが出来る。何もかも一律な社会に最もふさわしくないのが学校だと思う。「ひとつになろう日本」のスローガンではないけれど、ひとつになることを求める空気があることは私も感じている。政治の不信、経済は見通しが立たない、何となく先の無い社会にいる無力感、そんな中で人々は強力なリーダーの出現を待っている。面倒で時間のかかる民主主義を放棄しようとしている。救い主はキリストなのか、ヒットラーなのか。
「大阪維新の会」は、知事や市長の役割として「教育委員会との協議を経て、学校が実現すべき教育目標を設定する」と規定している。教育委員が「目標を実現する責務を果さない場合は罷免できる」とも定めている。自らが任命した教育委員であっても、意に従わない者はクビにするという強固なものだ。そればかりか学校運営についても、校長に人事などの幅広い裁量権や予算要求権を認め、校長による学校運営の強化を目指していくようだ。これまでの教育現場は、教職員の協議で学校運営を決めてきたけれど、上からの命令に一本化しようというのだ。先に制定した「君が代起立斉唱条例」を念頭に、職務命令に違反した場合は1回目は警告と研修、2回目は実名公表、3回目で懲戒免職とする厳しいものである。
教育は大雑把なものでよいと私は思っている。私が教員だった時、先生の中にもいろんな人がいて、全員が熱心とはいえなかったし、すぐに怒る人もいたし放任の人もいた。若い時は威圧的な先生が嫌いだったけれど、今から思えばいろんな先生がいていい。生徒との間であるいは先生同士の論議の中で、先生も変わっていくこともあるし、変わっていく先生が優れた教師なのかも知れないと思う。子どもの指導についても、厳しくすることで教育効果が大きいと考える人もいれば、優しく接する方がよい結果を生むと考える人もいる。子どもも千差万別でどの方法がよいかは様々だ。だからこそ、子どもにかかわる先生たちの真剣な論議が必要なのだ。
校長と副校長によって上からの命令で学校を運営することは子どもたちにとっては不幸なことだと思う。学級担任が代わると、学級の雰囲気も変わる。いろんな人と出会うことで、人の良し悪しを子どもたちも見定めることが出来る。何もかも一律な社会に最もふさわしくないのが学校だと思う。「ひとつになろう日本」のスローガンではないけれど、ひとつになることを求める空気があることは私も感じている。政治の不信、経済は見通しが立たない、何となく先の無い社会にいる無力感、そんな中で人々は強力なリーダーの出現を待っている。面倒で時間のかかる民主主義を放棄しようとしている。救い主はキリストなのか、ヒットラーなのか。