私の父は高校3年生の時に亡くなったけれど、それでも私は父を越えることを目標に生きて来た。何でもいいから父よりも1歩でも半歩でも前にいこうと思った。おそらく男の子は皆そんな思いを抱いて生きて来たのではないだろうか。父が自分にとって偉大な存在であればあるほど、子どもはもがき苦しむ。そうやって何時の時代も子どもは親を乗り越えようとするものだ。幼い時に父親が行方不明になってしまった甥っ子たちは、叔父である私が生徒会長をしたり大学で美術を学んでいたりしたことが脳裏に焼きついていたようだ。甥っ子の下の男の子は、日展作家になった。上の子は、いけばなの師匠になっている。だからそれだけで私よりも素晴らしい才能を持っている。
甥っ子たちは私が出来なかったことをやり遂げたのだから、立派なものだと思うけれど、今はふたりとも不況で苦しんでいる。幼い甥っ子たちが目の前にいない父の代わりに、私を目標にしていたことに驚きと恐怖さえ覚えた。私が「この世は理不尽だ」と思った最初は祖父の存在だった。家父長制度が色濃く残る商家で育った私には、祖父は最も非民主的な存在だった。しかしにもかかわらず大きな権力を持ち逆らえない存在だった。祖父を引き摺り下ろし、何も言わない父に代わることが自分の目標のように思っていた。父は校長だったから、とにかく父よりも上を目指すことが私の生き甲斐だった。生徒会長や大学の自治会の役員はそんな私の潜在的な欲望の現われだったのかも知れない。
男の子であれば誰でも、父親を乗り越えたいと思う。逆に考えれば、子どもはいつも親とは敵対する世界に存在するのだ。先日も長女のダンナが「自由を求めた結果、生まれたのは不自由ですよ」と指摘した。確かに戦後育ちの私たちは自由を目指して生きて来た。もっと言えば、フランス革命の象徴であった自由と平等と博愛を求めたと言っていい。しかし、長女のダンナが言うように、自由は弱肉強食の世界でしかなかった。自由と平等は並列して存在することは出来なかったのだ。アメリカ的な自由は競争社会でしかなかったにもかかわらず、自由こそが真実のように思っていると長女のダンナは指弾する。
私が自由であることを最大の目標としてきたことは間違いない。若い人たちが生きている中で、これは許せないと思うことで社会はいつも変わってきた。直接、社会を変えることはなくても理不尽と若い人が思うことが、社会変革の底力になって次の時代を作るきっかけとなってきた。こんな馬鹿なことはあってはならないと若い人たちが思うことで社会は変容してきた。何も全共闘世代だけが時代の寵児ではない。音楽でも絵画でも、芸術と呼ばれる部門ではいつも新しい世代が道を切り開いてきた。新旧の葛藤の無い時代は一度もないし、新しい世代が常に新しい時代を築き挙げてきた。
子どもは親を目標に、それを乗り越えてこそ意味がある。親は乗り越えられる悔しい存在かも知れないが、むしろ自分を乗り越えていく子どもを頼もしく思っていい。時代はそうやって変わっていくのだ。
甥っ子たちは私が出来なかったことをやり遂げたのだから、立派なものだと思うけれど、今はふたりとも不況で苦しんでいる。幼い甥っ子たちが目の前にいない父の代わりに、私を目標にしていたことに驚きと恐怖さえ覚えた。私が「この世は理不尽だ」と思った最初は祖父の存在だった。家父長制度が色濃く残る商家で育った私には、祖父は最も非民主的な存在だった。しかしにもかかわらず大きな権力を持ち逆らえない存在だった。祖父を引き摺り下ろし、何も言わない父に代わることが自分の目標のように思っていた。父は校長だったから、とにかく父よりも上を目指すことが私の生き甲斐だった。生徒会長や大学の自治会の役員はそんな私の潜在的な欲望の現われだったのかも知れない。
男の子であれば誰でも、父親を乗り越えたいと思う。逆に考えれば、子どもはいつも親とは敵対する世界に存在するのだ。先日も長女のダンナが「自由を求めた結果、生まれたのは不自由ですよ」と指摘した。確かに戦後育ちの私たちは自由を目指して生きて来た。もっと言えば、フランス革命の象徴であった自由と平等と博愛を求めたと言っていい。しかし、長女のダンナが言うように、自由は弱肉強食の世界でしかなかった。自由と平等は並列して存在することは出来なかったのだ。アメリカ的な自由は競争社会でしかなかったにもかかわらず、自由こそが真実のように思っていると長女のダンナは指弾する。
私が自由であることを最大の目標としてきたことは間違いない。若い人たちが生きている中で、これは許せないと思うことで社会はいつも変わってきた。直接、社会を変えることはなくても理不尽と若い人が思うことが、社会変革の底力になって次の時代を作るきっかけとなってきた。こんな馬鹿なことはあってはならないと若い人たちが思うことで社会は変容してきた。何も全共闘世代だけが時代の寵児ではない。音楽でも絵画でも、芸術と呼ばれる部門ではいつも新しい世代が道を切り開いてきた。新旧の葛藤の無い時代は一度もないし、新しい世代が常に新しい時代を築き挙げてきた。
子どもは親を目標に、それを乗り越えてこそ意味がある。親は乗り越えられる悔しい存在かも知れないが、むしろ自分を乗り越えていく子どもを頼もしく思っていい。時代はそうやって変わっていくのだ。