姉の死で、「生」と「死」をまた考えることになった。小学生の時、祖母が亡くなった。葬儀に近所の人が来て手伝ってくれた。ワイワイと話しが弾み、楽しそうなのが不思議だった。ラジオで「ルーテルアワー」を聞いて、キリスト教に関心を持った。学校の図書室で『アンクル・トムの小屋』を読んで、もっと聖書を知りたいと思った。
姉の遺骨は拾わなかった。姉がそう願ったこともあったが、遺骨を拾ってどんな意味があるのかと思う。僧侶は「本山に収める」と言うが、遺骨を拾う習慣は何時から生まれたのだろう。火葬の前は土葬だったから、遺骨を拾う風習はなかっただろう。遺骨に意味を持たせるようになったのは何時からだろう。
浄土真宗の祖、親鸞は墓を持たなかった。庶民が墓を建てるようになったのは明治以後だと聞く。仏教の神髄は己を無にすることだから、あの世のことなど考えない。この世で欲張らず、恨まず、生きることが求められた。
今朝の中日新聞に、私の好きな諏訪哲史さんのコラムがあった。「いかに人を許すか」の表題で、「人を許すには、各人が己も罪人だと弁え、自省して謙虚さを得るしかないのです」とあった。「軽蔑や差別じたいが醜い罪悪だからです。僕たちは同じ罪人、汚れた者たちなのです」と結ぶ。
同じページに瀬戸内寂聴さんの言葉があった。「人間は誰かを愛するために生まれてきた。本当に愛したら何でも許せる。相手が返してくれなくても与えるのが愛です」。何歳になっても、これでいいと悟ることなど出来ない。愛して欲して生きる、どうやらそれが人間のようだ。