大学で物理を教えている友だちが訪ねて来てくれた。私のパソコンが壊れて、何かと具合が悪い。「メールアドレスも無くなってしまい、無料の新しいソフトを入れてもらったが、メールが来ても登録できない」と話したことから、不具合を見に来てくれたのだ。おかげで、登録の仕方は分かったが、メールを送ってくれないと登録が出来ない。年賀状などにアドレスが記してあれば、再登録出来る。
年賀状で思い出した。パソコンが壊れて、データの修復もしてくれたが、筆まめで作ってあった住所録が開けない。筆まめのソフトが残っているはずなのに、先の廃品回収の時に、「もう必要ないだろう」と思って出してしまった。昔はなんでもとっておいたのに、この頃は出来るだけ断捨離を心がけようとして、結局はこの有り様だ。
人生は良かれと思うと逆目が出る。友だちは物理が専攻なのに、最近の関心は日本の歴史、それも『古事記』の時代だそうだ。歴史を記した書物は、いつも勝者の側のものだ。勝者は自分に都合の良いように文書を書いていく、実際は書かせていくのだろうが、だから矛盾も多いと話す。「絶対にありえないと思っても、論証する資料が見つからない」。そこが歴史を辿る面白さなのかも知れない。
午後には知り合いが署名用紙を持ってやってきた。「1年に1回の出会いで申し訳ありません」と言う。彼女も大学で教えているが、子どもたちが巣立っていき、「今は一人暮らし」と言う。「一人暮らしはいいですよ。誰に気遣いすることもなくて、寝たいだけ寝てます。犬を飼っていますが、人間のように文句を言いませんから」と笑う。ずいぶん明るくなった。以前は難しい顔をしていたが、晴れやかになった。肌の色つやがいいのは「よく眠るからですか」と、また笑う。
日馬富士の暴力事件、証言を集めれば真相は明らかになるだろう。証言者や文書が見つからない昔のこととは違う。それでも誰かに都合の良いように落ち着くのだろうか。
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