友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

明日は信州へ

2007年09月07日 23時59分07秒 | Weblog
 昨夜は台風の影響で一晩中、強い風が吹き荒れていて、熟睡できなかった。「昨晩は大変でしたね」と言うと、「えっ、何が?」と全く気が付かなかった人もいるから、人って本当に様々だと思う。政治家になる人は、毎回言って申し訳ないくらいだが、清貧でなければならないと私は思っている。だから大臣になるような人が金銭をごまかすことは絶対に許されないから、辞退することは当然だと思う。けれども、不思議なことは「申し訳ありませんでした」と言うが、「議員を辞職することは考えていない」と言うことが私には理解できない。

 申し訳ないけれど、政治の世界でたった一度でも間違いを犯したら、やはり二度と戻ってこられないくらい厳しくていいと思う。再チャレンジを認めるか否かは確かに有権者の判断だろうが、有権者は余りにも甘すぎないか。私はどうして、横峰さくらパパが民主党公認候補になったのかは知らないが、新聞や週刊誌に載るようなことが事実なら、小沢党首は即刻、横峰さくらパパに議員を辞職するように迫るべきだ。私が党首ならそうする。そうしなければ、自民党と何も変らないではないか。国民から、そのように見られることは民主党としては得策ではない。

 人の生き様は様々で、他人がどうこう言うようなことではない。朝青龍にしても、北の湖理事長にしても、人にはそれぞれ立場があり、思いがあるだろうから、それを門外漢の私が言うことではないが、「自分の好きなようにしたら」と言いたくなる。そういう私の性分を孫娘は「こらえ性がない。心が狭い」と切り捨ててくるのだ。ホント、いつの間に人の心が読めるようになったのだろうかと感心する。もちろん、まだ子どもだから一番大切に思っている人の言い分に口を挟むほど、人の心は読めていないが、それでも第3者になると冷静に見て取れるようだ。

 さて、私が高校の教員だった時、たまたま引き受け手がなくて、吹奏楽部の顧問になった。24から5歳の若造の教師で、吹奏楽の知識も無いのに、頼まれたら引き受ける、それだけの教師に過ぎなかった。その吹奏楽部の生徒だった人から電話をいただいて、明日、一緒に信州に行くことになった。自分が教えたことのある生徒なら、多少の覚えはあるが、いっしょに行く一人は、私が顧問になった時にはすでに卒業していて、吹奏楽部が夏に合宿を行っていたが、そこに来ていた先輩に過ぎない。吹奏楽部の子どもたちに直接教えるだけの力は私にはなかったので、こういう先輩たちがやってきては指導してくれていた。彼もそうした一人であったが、なぜか話があって、その後も付き合いが続いている。

 人の縁の不思議と言うべきものがある。いま、お世話になっている会社の社長も、この高校の生徒だが、私は彼が1年生の時に、週に1回教えに行っていたに過ぎない。自分が直接担任をしたわけでもないそういう子どもたちから、声をかけていただけることに不思議というか、縁の深さに感謝している。
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