昔、マンションの友だちで先輩の女性が、「毎日、テレビとしか話す相手がいなくて、ひとり暮らしは寂しいものよ」とぼやいていた。50代で夫を見送っていたから、まだひとり暮らしは10年になっていなかった。
「ウチに遊びに来てよ。ごちそうもお酒も用意しておくからと言ってるのに、誰も来ない」と愚痴っていた。私たち男性組はいくらそう言われても、抜け駆けして彼女の部屋のドアをたたくことは無かったと思う。
いや、中には訪ねた者がいたかも知れないが、マンションは狭い社会なので噂を立てられ、住めなくなってしまうことだってある。それぞれに家庭のある男女が一台の車で出かけたりすると、たちまち不倫と噂されてしまう。
男と女なのだから、仕方ないことなのに、どうして人は他人の噂が好きなのだろう。きっとある意味で、欲求不満なのかも知れない。あの人だけがいい思いをしていると思うと、悔しくて許せない気持ちになるのだろう。
私は中学1年の時から6年間、学校帰りにキリスト教の教会に通った。キリスト教に興味はあったが、信仰までには至らなかった。難解だったのだ。聖書を読んで話し合うだけだったから、難しいことは何も無かったのに。
けれど、「姦淫するなかれ」とは、心の中で思っても罪になると言われると、とても救われることは無いと分かった。私には初恋の人がいたのに、成人した女性に「女」を感じていた。「思っても罪になる」のは、だから神に救いを求めなさいということだと、今なら分かる。
完全な人はいない。だからこそ人は救いを求め、信仰に辿り着く。けれど今の私は、不完全でいいじゃーないかと開き直っている。清廉潔白な人生など、面白くない。生きて恥をかいて、やっぱりダメな人だったと言われるくらいの人生でいい。
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