友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

愛することは不条理への信頼である

2010年12月19日 22時15分18秒 | Weblog
 思い違いはよくある。ああ、これも年齢のせいなのかなと思うけれど、私たちのような高年齢者になると勝手に思い込むために行き違うことが多い。「明後日の午前9時半ごろです」と伝えたはずなのに、「明日は9時半でよかったですか?」と聞かれる。「いいえ、明後日の火曜日の午前9時30分です」と言い直さなくてはならない。今日も「どうなっている?」と言うので、「8時半にそちらへ行こうかと言ったけれど、あなたが現地集合でいいと言われましたよ」と答えると、「そうか、そうか」と言われる。やはり、現地集合ではなく、リーダーの家の方が間違いなかったのかと今更ながらそう思う。

 待ち合わせとか、持っていくものとか、お互いに話し合ってきたことが間違ってしまうことはよくある。自分としてはこう思っていた、けれども相手はきっとこうだろうと気を遣って考え過ぎて、違うことをやってしまう。そういうことはよくある。下世話な話だけれど、女性から「あなたのいいようにしていいわよ」と言われ、かえってどうしていいか分からず悩んでしまったという話を聞いたことがある。あるいは女性から「入った?」と聞かれて萎んでしまったという笑い話のような話だけれど、男として私にはよくわかる気がした。相手のことを考えて、気遣って言っているのだけれど、受け取る側からすれば全く違うことがあるのだ。

 「外交とは武器を用いない戦争である」と古くから言われている。外交の基本は「隙を見せれば突く、退けば押す、というのは人間関係では不徳義であろうが、国家間や民族間においてはむしろ常套である」であり、「国際関係とは今日でもなおエスノセントリズム(自民族中心主義)が第一義であり、友好や善隣や友愛は第一義を促すための手段に過ぎない」と。人間関係では相手を思い、相手の気持ちを考え、わざわざ来てもらうよりも現地集合の方がいいと判断するが、国際社会ではわざわざ来るなと言うのは何か弱みがあるからだと考えてしまう。逆に現地集合だよと言えば、それではいったい誰が器具を運ぶのか、我々に見せたくないものがあるのではないのか、そんな余分な憶測が生まれてしまう。

 よく知った仲間なら、「ごめん、ごめん、思い違いをしていた」ですむけれど、よく知っているはずの男女の仲なら、どうしてそんな思い違いが生まれるのだろうかと疑心暗鬼に陥り、「私のことが嫌いになったのではないか」「好きな人ができたのか」などと考えもしなかったことを考えるようになる。人と人の間でも互いに理解しあうことは難しいのだから、組織と組織、あるいは国と国のような間柄では、適当な距離を置いておくなどということは無理な話なのかもしれない。

 親子の間でも、兄弟の間でも、親族の間でも、理解し合うということは本当は無理なことなのかもしれない。完全な一致を求めれば、夫婦であっても、恋人同士であっても、血を分けた親子や兄弟であっても無理だろう。完全に理解しあうことはできない、あるいは思い違いは必ず起きる、そう思うことができれば人は楽に生きられる。自分でも自分のことがよくわからないし、自分を理解している以上に相手のことを理解しているつもりでいても、決してそれは完璧ではない。だから、その溝を埋めようとする。それが相手への愛だろう。愛することはそういう不条理への信頼だと思う。
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自分をさらけ出すより他にない

2010年12月18日 21時26分13秒 | Weblog
 カミさんの叔母夫婦のところへ年末の挨拶に行ってきた。叔母は80歳、そのダンナは82歳になるが、ふたりとも元気だ。元気だけれど、叔母は膝に水が溜まり痛くて歩けなかったのが、今は少しよくなったそうだ。ダンナの方は「どこも悪いところはない」と言うくらい元気で、冬なのに「下着とシャツだけで過ごしている」と言う。ニンニクの丸薬を毎日3錠飲んでいるので、「風邪を引いたことがない」と言われる。次男坊夫婦と一緒に暮らしているが、1階と2階で住み分け、互いに干渉しないで生活しているそうだ。

 叔母もそのダンナも本当に歳を取らない。何十年も前から話し方も話題もしぐさも少しも変わらないように思う。叔母が「私は料理が下手で、(ダンナが)自分が気に入ったものを買ってくるし、嫁がいなければ息子が料理を作ってくれる」と話す。しかし若い頃は、カミさんらが叔母の家に下宿していた時代もあり、なかなかハイカラな料理を食べさせてもらったと聞いたことがある。私の姉は夫婦と同世代だけれど、生活スタイルを見ているとよく似ている。戦後の何もない時に結婚し、新しい生活はどんどんと変わっていった。叔母のダンナは地方の名家の出身であるけれど、ボンボン育ちで他人の世話を惜しまない。叔母は小町と言われたほどの美女だが、今もその面影が充分残っている。

 叔母たちが結婚したころは、新生日本が歩き出した頃だから毎日が充実していたことであろう。そういう私たちも今から思えば恵まれた世代であった。同級生たちは会社員としてあるいは公務員として最高の地位に着き、今は余生をエンジョイして自分の人生を豊かなものと受け止めている。私たちは誰もがそこそこの生活を手に入れた。それで私たちはよかったけれど、私たちが育てた子どもたちは今や社会の中堅となって支えている。けれども、無差別殺人を犯したり、わが子を放り出したり、様々な社会問題の火種を提供する世代になっている。

 小中学校で一番困る親が私たちの子ども世代であるようだ。「権利は主張するけれど、自分の責任は全く取らない」と言われている。社会的な自己を考えない自分勝手な世代である。社会全体よりも自分に、私たちは重きをおいてきたのだろう。組織の中の一員として猛烈に働きながら、矛盾する自己を捜し求めてきた。子育てにおいても、「オマエの好きなように生きればいいよ」と言いながらも、「よい成績を取らなければ社会で活躍できないよ」と子どもに矛盾したものを要求してきた。

 私の周りを見ても、結婚しない子どもらが実に多い。親である私たちは、結婚して欲しいと思いながらも別に結婚だけが幸せではないし、時には結婚が不幸になることだってあるから、決して急ぐことはないと思っている。自分たちが若かった時はあれだけ結婚に憧れていたのに、結婚生活を何十年と重ねてくると、それほど大きな意味も価値もなかったかもしれないなどと考えるようになる。それが子どもに空気感染のように伝わるのではないだろうか。

 意味があるか、価値があるか、本来なら自分たちがその答えを出さなくてはならない。人の世は難しいけれど、自分を恥ずかしながらさらけ出して見せる以外にはない。
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名古屋市議会の解散署名実る

2010年12月17日 19時19分02秒 | Weblog
 名古屋市議会の解散を求めた署名が、住民投票の実施に必要な署名数を上回った。これで政令市では初めての住民投票が行われることになった。その知らせを受けた河村市長は「民主主義の曙ですよ。署名に日があったのだから」と言い、「サンキューベリーベリーマッチですわ」とよく分からないことを言っていた。署名活動は河村市長の支援団体が行なったとはいえ、その代表者がいるのだから、その人がしゃべるのがスジだと思うけれど、マスコミはいつも河村市長にコメントを求めている。ヘンだなーと思うのは私だけなのだろうか。

 46万人の署名を集めたのに、11万人分の署名を無効とした選挙管理委員会が、いくら「法に基づき、公正に判断した」と言われても納得のできるものではなかった。いかに恣意的な判断であったか、明らかになった。それでもくじけずによくまあここまで頑張ったと思う。たまたま事務局には知り合いが何人かいたけれど、こういう人たちの熱い思いがなければ実現できなかったであろう。私の知っている人は名古屋市外の人ばかりだったので、外人部隊では署名活動が実を結ぶのかと危惧した。初めは署名の集まりが悪かったから、あまりに一生懸命にやると、不適切な集め方もあるだろうと、それも心配だった。

 重複した人や住民票のない人や様々な無効があったとしても、凄い数の人々が議会の解散を求めたことになる。おそらく河村市長が、名古屋市議の報酬や政務調査費という名の別枠の支給、さらには組合議会というところでも報酬を受けていることなど、問題にしなければ市民の多くは知らないままだろう。議員が自分たち市民のために働いているとしても、こんなに多額のお金を受け取っていたのかと思い、すると議員の活動とはいったい何をしていることかという疑問も生まれてきた。けれど、議員が街頭で演説する時は、河村市長が議会を軽視している、議会を解散して大政翼賛会を作ろうとしている、そんな河村市長への批判に終始していた。

 私はとても賛成できないが、河村市長は自民党の大村議員を愛知知事選挙に担ぎ出したり、大阪の橋下知事との連合を打ち出したり、自民・民主の枠組みに揺さぶりをかけている。政治が不安定な時期にあるから、ここで一発と考えるのも無理はない。河村市長の思惑通りにことが進むとは思えないけれど、40代くらいの人たちの支持と期待は大きいからどういう事態になるかわからない。

 ただ、市長が気に入らなければ解職すればいいし、議員がダメなら落選させればいい。最後の決定権は市民にあることをもっと市民は知るべきだろう。そして、あらゆるものをできるだけ透明にして、つまり公開して、情報をみんなが共有するようにすべきだ。それとともに、市民が行政に参加しやすい有り様に変えることも大事だと思う。そんな形が出来ていけば、行政が担う部分はもっと小さくなっていくのかもしれない。自由な経済活動が形を変えていくように、政治の形も変わっていくのだろう。
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なぜ景気を上向かせるのだろう

2010年12月16日 19時21分20秒 | Weblog
 経済について無学な私には、「法人税の引き下げで景気を上向かせる」ということが分からない。菅内閣は法人税の税率を5%引き下げるという。「他の主要国に比べて高い税率を下げることで、企業の海外移転を食い止め、GDPを14兆円以上押し上げる。121万人以上の雇用が維持され、3年後には国の税収全体で1兆円以上増収になる」(中日新聞より)。これを読むと、企業が海外に移転しなければ、増収になるということだけれど、本当に?と思ってしまう。

 企業が海外に移転するのは税率が高いだけの問題ではないはずだ。日本では賃金が高いので、安い賃金で働いてくれるところへ企業は移転している。中国の政治が不安定になってきたこともあるだろうけれど、それ以上に賃金が高くなってきたことから、もっと安いベトナムへ移転する企業が増えてきたと聞いた。当たり前のことだ。資本主義社会では賃金が安ければ儲けは大きい。儲けが大きければ、国際経済戦争に勝てる。企業は資本力をフルに発揮して、より利潤の上がる方法を考える。

 人は同じものならまず安い方を買う。日本の商社は中国で野菜を買い付け、安い値段をつけて売っている。野菜の生産者は、高く売れるものを作って売りたがるが、これも儲けが大きいのだから当たり前だ。みんなが同じ高級野菜ばかり作れば値段は下がってしまう。つぶれた農家の農地は荒れてしまうだろう。工業製品でも同じで、ヒット商品を作り出せば儲けは大きいが、売れるものをみんなが作れば安くなってしまう。コメとかムギとか肉とか、生活に必要な品はムラなく供給されなくてはならない。私たちが生活していくことができるのも、大きな利潤が生まれなくても、品を作っている人がいるからではないだろうか。

 それは儲けだけを求めていない人がいるということだ。これから、少なくとも日本では人口が減っていく。これまで100人いた消費者が90人になれば、商品は1割売れなくなる。それなのに、なぜ経済の拡大をするのだろう。中国だって今は13億人だが、一人っ子政策だからいっきに人口減社会になるだろう。世界中でお金が余っているそうだけれど(全く私には実感がないが)、工業製品が余り出す時代だって必ずあるはずだ。いや、地球的規模からすれば世界の人口はまだ増え続けるそうだから、物余りなどということはないのかもしれない。しかし、それでは食料や水や空気は大丈夫なのか。

 コメ作りに適した地域ではコメを、工業製品作りに適した地域では工業を、そういう住み分けをする時代が来るだろう。儲けの無い品物の供給だけの時代になるのかもしれない。国やあるいは国際機関が計画するかも知れないが、私はむしろ自然とそうなるように思っている。ここまで来たのだから、自然とそうならなければ、他には考えられない。
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好きなように描けばいい

2010年12月15日 21時47分10秒 | Weblog
 二科名古屋展が昨日から始まっている。2週間くらい開催していたように思っていたが、19日の日曜日までなので今日、行って来た。入り口に最も近いA室に何人かの知り合いの作品があった。そうか、もう重鎮の仲間入りか、そういう年齢になってきたのだと思った。真ん中辺りの部屋にあった、木村拓哉さんの妻の工藤静香さんの作品の前はさすがに人が多い。老夫婦が「これ工藤静香、知ってるでしょう」とダンナに話しかけていた。「うん、知っとる」とダンナが答える。「ほら、あれ、歌手だった、グループで歌っている、えーと、いい男のナンバー1にいつも名前が挙がる、映画にも出てる」とカミさんは言うのだが、キムタムの名前が出てこない。ダンナの方はそんなことはどうでもいいようで、「なかなか上手いな」と作品を褒めていた。

 官展を批判して出発した二科展は自由で想像的な作品が多い。物語性があるといってもよいかもしれない。「私は全然絵が描けない」と口にする人がいるが、二科展を見たならば少しは変わるのではないかと思う。「絵が上手い」といった場合はおおむねそっくりに描けているということだ。学校では、自由な発想で絵を描かせてきたはずだが、世間一般はまだ写実的な絵が上手いと評価されている。「絵が描けない」と言う人は、たとえば花や人物を紙の上に再現することが「絵を描くこと」だと思っているので、似たように描けないと嘆いているのだ。二科展の作品を見たなら、そんな風に似たように描いている作品は数少ないことを知るだろう。

 すると、こうも言う。「絵はメッセージ性がなくてはダメですよね」。そんなことも誰が決めたのだろう。似たように描かなくてはいけないとか、そうでない絵ならばメッセージ性がなくてはならないとか、学校でそういうことを教えてきてしまったのかと思う。絵は好きなように描けばいい。歌を歌うのと同じだ。歌を歌えば楽しくなる。絵も楽しく描けばいい。「でも学校では評価される」と反論されそうだ。教える場では評価が付きまとうけれど、絵の評価は国語や数学のような答えがない。それぞれの先生が評価の基準に従って点数をつけるが、それが絶対に正しい評価ではない。

 だから学校では音楽の評価が1とか2だった人も、歌手になったりしているし、絵が「下手」と言われた人でも画家になっている。絵は構成や色合いや筆遣いやそしてテーマや、いろんな要素が組み合って、「いいね」と人の心を動かす。私自身は写実的なものが好きだから、そうした作品を見ると「ずいぶん手が込んでいるな」とその技術を見てしまう。あるいはシュールな絵が好きだから、テーマに魅せられたりする。作品になってしまったものは誰がどのように感じるかだ。好きか嫌いかが受け止める側の基本だろう。

 「上手い絵を描きたい」ならば、人の評価など気にせずに何枚も描き続けたらいい。だんだんとその人のものができてくる。「好きこそものの上手なれ」と昔から言うが、好きなことならば長続きするだろう。それ以上になろうとするなら、その時に悩めばいい。
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『神田川』

2010年12月14日 21時39分42秒 | Weblog
 明日はかなり寒くなるそうだ。寒くなるとなぜか、フォークソンググループのかぐや姫が歌った『神田川』を思い出す。この歌がヒットしたのは70年安保が過ぎた1973年である。私は大学4年の時、指導教官の命を受けてほぼ1年間、東京で暮らしていた。先生は私が編集の仕事がしたいという希望を聞いて、東京の出版会社へ行かせてくれたのである。初めはその会社がお客を泊めるための施設にいたが、まもなく先輩と同室のアパートに移った。先輩は営業の担当をしていたから、滅多に部屋に帰ることがなく、いわば一人暮らしのようなものだった。

 編集部には大学4年の男が私と同じようにアルバイトで働いていた。彼は私立の美大の学生で年齢はひとつ上だったけれど、ウマがあった。なかなか器用な人で、頼まれると挿絵のイラストなども描いていた。大学の自治会の役員をしたこともあって、話が通じる人だった。ある時、おそらく秋から冬になるころだったけれど、彼が「今度の日曜日に家に来ないか」と誘ってくれた。彼は自由が丘のアパートで暮らしていたので、私の住んでいるところからは比較的行きやすかった。「ああ、行くよ」と返事をした。何しろ手料理をご馳走してくれるというのだ。その頃の私は、インスタントラーメンに肉や野菜を入れてフライパンで煮込む食事が常だった。

 彼は駅で待っていてくれた。「ちょっと一六銀行に寄っていく」と言うので、一緒について行った。どうして銀行へ行くのかと思ったけれど、それは質屋だった。私は質屋の俗語の俗語を知らなかったのだ。そこで彼は質札を出して電気釜を受け取った。私には初めて見る光景だった。彼は質屋の親父さんとなにやら親しく話して、「じゃー次に買い物だ」と言って、肉やら野菜やらを買い込んだ。彼がやることは全て目新しく、やあー東京の学生は凄いなと感心するばかりだった。彼の部屋に行くと、すでに女性がひとりかいがいしく働いていた。お互いに紹介され、私はそうか、彼のガールフレンドが今日のために手伝いに来ているのかと思った。

 すき焼きだったか、今では何も覚えていないけれど一緒にビールを飲み食事をし、ゲームなどもしたのかもしれない。とても楽しく、私は久しぶりに充実したひと時を過ごすことができて有頂天になっていた。そろそろ終電の時間が迫ってくる。彼女を私が送ることになるのと思った。きれいな人だ。何かあってはならないから、彼女を送るとして、家はどこなのだろう。そんな心配をしながら、「どうも今日はありがとう。彼女をどこまで送っていったらいい」などとのん気なことを彼に尋ねた。彼はちょっとびっくりして、「あの子は、ここに泊まるよ」と言う。

 私はふたりに見送られて駅へと向かった。ひとり、終電の車両の中で、「ナンだ、そうだったら、もっと早く帰るべきだったな」としきりに思った。彼は彼女と同棲していたのだ。それも気付かずに、彼女を送っていくことばかり考えていた自分はなんという田舎者かと思った。それが1966年のことだから、それから7年後に『神田川』を聴いた時、すぐに頭に浮んだのは彼らふたりだった。彼はその会社には行かずに大手の広告会社に就職した。ふたりの家にも遊びに行ったことがある。昔懐かしいそれでいて恥ずかしくなる思い出である。
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三島の節子と江國の美弥子の違い

2010年12月13日 23時49分58秒 | Weblog
 カミさんは今日、誕生日会の友だちとゴルフに出かけた。午後からは雨になるという最悪のコディションなのに、ゴルフをやる人たちはどうしてこんな日でもするのだろう。根が怠け者の私にはとても理解できないのだが、そんなにも身体を動かすことは気持ちがいいことなのだろうか。それにしても今日は雨降りである。岐阜県は雪になっているかも知れない。カミさんは朝早くから、持っていくものを揃えていた。「じゃー、行ってくるね」と出かけていったけれど、よく見たら、帽子が2つ残っている。雨降りを見越してどちらにしようか迷ったのだろうと思い、急いで持って行ったけれどもう出発した後だった。

 次女夫婦が茨城へ帰るというので、新幹線の駅まで送っていった。次女のダンナが昨日行なわれた茨城県議選について質問してきた。民主党は現状維持だったけれど、「それは敗北だと言っているよ」と話すと、誰それは当選したのだろうかと聞いてくる。よく聞くと公明党の人のようなので、「組織から出ている人なら当選しているでしょう」と答える。会社が推薦している候補者なら絶対に当選していると話す。次女のダンナが不思議そうな顔をするので、「市町村議会議員はともかく、県議会議員ならば組織が推薦している人は必ず当選するよ」と答える。

 次女のダンナは「民主党政権はもう終わりですよね」と言う。「多分そうなるだろうけれど、民主党に次の候補者がいないことが問題だね」と話す。じゃあー、自民党に代わりの候補者がいるかと言えば、そういう人材が見当たらない。民主党の中で、菅さん代わる人がいるかとなるとこれも微妙だ。そうであるなれば、当面は現状維持で行くしかない。たとえ、正岡子規が病床にあって吐血していたとしても、時代はかまわずに進んでいくようなものだ。正岡子規と秋山兄弟はドラマで描かれたように親しかったのだろうか。松山出身の友だちにぜひ聞いてみたいと思う。

 三島由紀夫の『美徳のよろめき』と江国香織の『真昼なのに昏い部屋』の主人公は似ているようで違うし、時代も30年ほど経ているのに三島の描いた夫人の方が現在に近いように思うのはどうしてなのだろう。『美徳のよろめき』の主人公の節子は官能の天賦に恵まれていたけれど、上流階級の子女にふさわしい教養と優雅さを備えていた。節子は夫も子どものいるのだけれど、恋を夢想していた。その相手は私から見ればプレイボーイだけれど、節子には白馬の王子であったし、彼は王子にふさわしい振る舞いだった。

 節子は結局、プレイボーイと別れ、これまでどおりの生活を取り戻す。これに対して『真昼なのに昏い部屋』の美弥子は日常のことをキチンとこなす普通の主婦だ。その美弥子は結婚した夫と別れてしまうが、だからといって自分を変えた男を追うこともなく、新しい時を生きようとする。三島由紀夫という作家の作品を他に読んだことがないのでよくわからないけれど、男と女のありようについて、彼はかなり先を行っていたのかもしれないなと思った。その彼がなぜ、自衛隊基地で割腹自殺をしなければならなかったのか、不思議な気がする。

 三島由紀夫が女を知らなかったとは思えない。三島由紀夫は自分の身体を愛したようにSEXそのものも愛したように思うけれど、彼には死ぬことの方がSEX以上に意味があったのだろう。
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戦地に駆り出される世代でなくてよかった

2010年12月12日 21時07分09秒 | Weblog
 いつものようにNHK『のど自慢』をウルウルしながら見ていた。「どうしてこんな歌番組で泣くの?」と言われるけれど、特別な何か理由があるわけではない。自分ではよくわからないのだから、きっと歳を取って涙腺が緩んできているのだろう。でも待てよ、そういえば結構若い時からその傾向があったから、まあ趣味のようなものだ。落語はもともと人情話が多いから、当然ウルウルとしてしまうけれど、吉本喜劇は必ず最後には泣かずにいられない。

 『のど自慢』が終わって、今日は特に何もやることがないので、テレビ番組を見ていたら、WOW0Wの『占領者たちのイラク』が目に止まった。カミさんは相変わらず数独に夢中で、何時間もかけて取り組んでいる。私が何をやっていてもかまわずに録画したゴルフ番組を見続けている時もある。ちょっとお邪魔かもしれないが、今日はテレビを見せてもらおうと思った。1時間半ずつの3時間の番組で、前半が終わって私がトイレに立って帰ってくると、テレビは消されていた。「まだ後半があるのに」と抗議すると、「ごめん。集中できないから」とおっしゃる。

 ドラマは面白かった。製作はイギリスで、BBCが昨年放送したものらしい。ベトナム戦争もそうだったけれど、何が正義でどこに理由があるのかわからない。私が子どもの頃に見た戦争映画は、アメリカ映画なら悪のナチスドイツを片っ端からやっつけていくものがほとんどだったし、日本が相手なら野蛮な人間との戦いだった。それがベトナム戦争を扱ったものは全く違っていた。戦争に正義も意義も無い。時には友情もない。ましてや愛国心や使命感など全く無い。殺されないために殺す、それ以外の描写はなかったように思う。

 『占領者たちのイラク』のイギリス兵は帰国しても再びイラクへと向かう。そこで戦場をビジネスとして金儲けに走る者を中心に、それぞれの思いが展開していく。フセインを倒したものの、部族対立や宗派対立で血みどろな戦いが続いている。警備会社と建設会社と商事会社をひとつにしたような軍事会社で、イラクをはじめとする中東諸国にビジネスを広げ、大金持ちになる夢を追う男、イラク復興を信じてきたものの、殺し合いの現実を目の前にしてイスラムを呪う男、イラク人の妻を恋してしまう男、イラク戦争は何だったのかと問いかけているが、ちょっとテーマが広がりすぎたかという気がした。

 戦争はなぜ起きるのだろう。戦場に駆り出される兵士はなぜ戦うのだろう。山田詠美さんというまだ若い女流作家がいる。「GIと遊んだ話」の中で、「正義を守るために戦争に行きたい、などと胸を張った人など見たことがない。国にわが身を捧げる、と愛国心に燃えていた人も知らない」とアメリカ兵のことを書いていたけれど、小説ではあるけれど本当の姿だろう。イラクに派兵された兵士の多くが帰国した後、社会復帰できずにいるとアメリカのジャーナリズムが報じていた。何時殺されるかとビクビクして生きてきた人も、殺されないために殺すことに集中した人も、平和の中ではうまく生きられないのは悲しい現実だ。戦地に駆り出される世代でなくて本当によかったと思う。
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「私には敵がいない」

2010年12月11日 22時00分55秒 | Weblog
 昨夜、次女夫婦が友人の結婚式に出席するために帰ってきた。「せっかく帰るのだから」と言うので、長女夫婦も招いて我が家での会食となった。集まる時間がずれるようなので、オイルフォンデュとチーズフォンデュの2本立てにした。泥のついたままになっているサトイモがあったので、豚肉と炒めて赤味噌で煮込む。これは私の担当した。いただいた南アフリカ産の赤ワインとボジョレーヌーボーの白ワインを開ける。みんなが揃ってワイワイと盛り上がってきた。

 しばらくして台所でトリのささみを切っていると、次女の「きゃー、火事になる」の悲鳴がする。オイルフォンデュのアルコールがこぼれてテーブルのビニールカバーが燃え出したのだ。急いで濡れたタオルで押さえつければ大丈夫なのに、気が動転しているのか手早く出来ずに慌ててしまっている。まだ1歳4ヶ月の孫娘はこの騒ぎに驚いて泣き出してしまう。ダンナたちは落ち着いたもので、たくさんの濡れタオルでいっきに消火してしまった。そして再び何事も無かったかのように、お酒を飲み食事となった。

 長女のダンナも次女のダンナも結構忙しそうだ。忙しいことと充実とは違うけれど、ヒマよりも忙しい方がいい。昨夜は話題にならなかったけれど、昨日はノーベル賞の授賞式が行なわれたことが今朝の新聞に大きく取り上げられていた。今年の平和賞の受賞者は中国人の民主化活動家だが、中国で囚われているので、受賞者席が空席のままの写真が載っていた。授賞式ではこの活動家の文章が代読され、朝日新聞がその文章を載せていた。獄中にあっても授賞式に手紙を送ることができるのかと思ったが、文章は昨年12月に自らの裁判審理で読み上げるために書いたものだとあった。

 文章は『私には敵はいない』と題が付けられていた。「私を敵と見なす政権によって被告席に押し込められている。しかし、私には敵はおらず、憎しみもない。(略)国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことのできる人間でありたい」。「私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ」。「私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害をうけたりしない」。

 いずれ中国も彼が望むような国に変わるだろう。どのような国も政治的な発言によって差別や弾圧が生まれることがあってはならない。自由な国アメリカも人種差別が残っているし、世界中に貧富の差をはじめとする格差が存在する。しかし人間が作り出した社会であるのだから、いずれ人間は格差を無くすか、より小さくする方向へと向かうであろう。
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嫌な予感がする

2010年12月10日 15時44分02秒 | Weblog
 「12月8日の真珠湾攻撃の日の前後から雪が降る」と新潟出身の友だちは力説する。彼が子どもの頃からの経験から「間違いない」と言うのだ。天気予報も8日は寒くなるように言っていたけれど、ぽかぽかした暖かな一日だった。それが昨日、西の空から黒い雲が流れて来ているのを見ていたら、風は強くなりまたたくまに雨が混じる荒模様となった。ガラス窓の向こうに展開する様子から、これでは飛騨高山は雪降りかと思っていたらそのとおりだった。やはり予想通り寒くなるのかと思ったが、今日はまた一転して暖かな日差しが溢れている。

 菅内閣が発足して実にもたもたしている。なんとなく嫌な予感がしていたけれど、いよいよ本格的に始動してきた。民主党政権になれば国家予算は削減されるはずだったが、微増している。このままバラマキ予算が継続されるならさらに増えるだろう。公務員改革は全く進む気配がない。国民が期待した改革の多くが頓挫してしまっている。私がもっと嫌だなと思ったのはそういう類ではなく、防衛や外交の問題だ。

 かつて自民党と社会党が連合して、村山内閣が発足した時、社会党はあれほど反対していた自衛隊の憲法違反を撤回し、「君が代」を国歌として認めた。村山さんが総理大臣となってやったことは、社会党が必死で守ってきたことを全て覆すことだった。これを機に社会党は衰退し、その流れはわずかに社民党として存在しているにすぎない。相手を飲み込めるだけの技量が当時の社会党にはなかったし、ましてや村山富市さんにそれを期待することは無理だった。

 菅直人さんが野党にいたころ、国民の中には彼を首相にしたいと思う人はまあまあいたと思う。それが実際に首相になってみると、これだけの力量の人だったのかと裏切られた気持ちになっている。しかし、考えてみれば勝手にそう思い込んでいたのであって、彼は本質的には現実主義的な政治家である。今は、首相になってしまったので、適当な言葉が見つからなくて歯切れが悪いだけのことなのだ。

 私が嫌だなと思うのは、尖閣諸島問題へのしっぺ返しのつもり(誰への?)なのか、南西諸島方面に陸上自衛隊を配備することや日本周辺の警戒監視機能の強化を中心とする、「動的防衛力」という「防衛計画の改定」である。さらに当初はこれに武器輸出三原則の見直しも盛り込もうとしていた。社民党の反対で見送られたものの、武器の共同研究は行なわれる。自衛隊の存在を認めながらも規模を縮小していくことを期待していた人々の失望は大きいだろう。

 仙谷由人官房長官は全共闘運動に積極的ではなかったかも知れないけれど、理解していたはずの人である。その彼が武器輸出三原則を見直そうと言うのだから、人は立場が変われば変わるものだ。私を学生運動に導いてくれた先輩も今では立派な大教育長となって、組合を抑えている。いったい初心は何だったのかと思うけれど、時代と共に変わっていくことができるのも鋭い能力なのかもしれない。

 それでもなお、戦争を無くす道を探るべきではないのかと私は思ってしまう。
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