友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

5分咲きの梅を見た

2012年03月07日 19時01分52秒 | Weblog

 また寒くなって、明日からは雨になるという。神社から井戸掘りの問い合わせがあって出かけた。神社には梅の木はなかったが、行く途中で白と紅それぞれ1本の梅の木を見た。どちらもまだ5分咲きだった。友だちがウグイスの鳴き声を聞いたとブログに書いていた。この辺りではウグイスを見かけるのは稀になってしまった。私が子どもの頃は、多分その当時も野鳥を家で飼うことは禁止されていたであろうが、ウグイスを飼っている人がいて、その家へ鳴き声を聞きに行ったことがある。

 私の住まいの近くにある神社は神主が駐在していない。隣近所の氏子が神社を運営している。神社は寺以上に運営が大変だと言う。有名な神社には神主はもちろん、神社で働く人も何人かいて、運営は順調だそうだけれど、地域の守り神である小さな神社は氏子になる人が減っているそうだ。寺でも檀家が多いところはやっていけるけれど、少ないところではお坊さんの生活ができなくなっていると言う。私たち日本人は、生まれて神社へお礼参りに行く。また正月には初詣に出かける。それが近頃では、地域の神社ではなく大きな名前の知れた神社へ行くそうだ。

 合格とか病気回復とか家内安全とかの願いごとは神様に祈り、結婚式は教会で行い、死んだ時はお坊さんを頼む。そんな風に神様や仏様を勝手に使い分けてきた。昔は神式で葬式を出す人もいたけれど、近頃は少なくなったと言う。「坊主まるもうけ」と言うが、それがそういかなくなってきているそうだ。仏壇があって月参りもあったのに、年寄りが亡くなると若い家主は「月参りに来なくてもいい」と言い、「檀家を離れる」と言う人までいる。そうでなくても転勤で故郷を出て行く人もいる。先祖代々と墓石にあるが、この習慣は明治以後だと教えてくれた。

 「そればかりか、亡くなっても葬儀をしない人もいる。通夜だけやって告別式は行わないケースが増えている。採骨したって置く場所がないのだからと、身内は誰も火葬場へ行かない。だんだん、そうなってきている。考えてみて、ジジやババが死んでも息子や娘は親だから知っているが、孫になると記憶も薄くなる。墓なんか造っても誰も参りに来ない。生きているうちに、せいぜい子どものご機嫌をとっておくか、孫に金を使うことだ。それでも、この先どうなるか、分からんでね」。

 梅が咲き、甘い香りが春を呼ぶ。そんな悠長なことを言っていたら怒られてしまいそうだ。それでも、いやそれだからこそ、今を精一杯生きていきたい。村山由佳さんという女性作家の最新作『花酔ひ』に、「七つ下がりの雨と四十雀の恋はやまない」という言葉が出てくる。午後4時過ぎと四十雀(シジュウガラ)をかけているのだろうが、恋は年齢には関係ない、むしろ若い時よりも悲しい気がする。それとも恋も変わってきたのだろうか。そこで1首詠ってみる。

   「まだ咲かぬ 梅の香追ひて 春思ふ 寒さばかりが 身に染みる日々」

コメント
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