友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

回答者の性格が出ていて面白い

2019年12月11日 17時44分10秒 | Weblog

 朝日新聞に人生相談の『悩みのるつぼ』という欄がある。回答者の性格が出ていて面白い。上野千鶴子さんは論理的で一刀両断に核心を突く。姜尚中さんは相談者に寄り添い、自らも悩みながらアドバイスする。おふたりに出会い、ホンの少しだが話しをさせていただいたので、いつもなるほどと思う。

 義理の母が亡くなり、生前に不倫をしていたが分かって憤る嫁からの相談に、上野さんの回答は痛快だった。確か、「あなたよりもダンナやご家族が困惑と憤りを抱いているでしょう。もし、義母ではなくあなたの実母なら、あなたはどう思いますか」、そんな回答だった。亡くなった義母を攻撃するより、残されたダンナや家族の心情を思いなさいとの指摘である。

 60代の女性から、夫の介護のために息子を呼び寄せたが、夫の容体も回復したので、また仕事に就くように言っても、働かず自室に閉じ籠ってゲームばかりしているという相談に、上野さんは「息子に帰って来いと言ったのはあなただから、息子には借りがあるのです。親に対する愛情が無いと息子を非難するが、親の介護のために帰って来たのは息子の愛です」と指摘。

 さらに「嫁が来ないとか親への感謝が無いと愚痴をこぼしながら、息子のために三食を用意し、洗濯もしている。自立のため資金は渡して、息子に別居してもらいましょう」と言いながらも、相談者の母親のために家族3人で暮らす道も提案していた。

 姜尚中さんの回答は随分違う。20代の女性の「失敗が怖くて新しいことにチャレンジできない」という相談に、「まるで過去の私の自画像に出会っているような気がします」と述べ、自分を変えることが出来たのは『心友』と出会い、人を信じることを覚えた」から、「待っていても『心友』には出会えません。自らを投げ棄てること」と結ぶ。

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友だちは根っからの堅物だった

2019年12月10日 17時22分31秒 | Weblog

 風も無く暖かい、絶好の作業日和だったのに、何もやる気になれなかった。井戸掘り作業があったなら、勇んで出かけただろうが、今日は人が揃わず休止となったのだから、こんな日はルーフバルコニーに出て鉢の土を入れ替え、チューリップの球根を植える準備をすればよいのに、そんな気持ちが湧いて来なかった。

 いつもなら球根の注文が終わっているはずなのに、未だに「やっぱり来年は止めよう」という気持ちが残っている。どうしてこんなに無気力なのだろう。中学からの友だちに「大人の童話」を書いてメールで送った。誕生日の祝いにかこつけた、ちょっとふざけた童話だった。

 彼は高校では文芸部の部長を務めたほどの文学好きで、恋愛にも真剣だった。吉行淳之介の作品が好きで、とにかく惚れっぽい性格だった。中年になって、17歳も年下の女性と14年間も付き合っていた。名所旧跡を訪ねたり、美味しいものを食べに行ったり、飲みに行っても、それ以上の関係にはならなかったと聞いた。

 私は、年寄りが若い人妻に恋をした童話を書いた。男は夢の中で好きになった女に出会い、抱かせてくださいと言ったが断わられた。次に男はその女のすべすべとした足に頬をつけ、夢から覚めないでくれと願った。そして、そのまま男は永遠に眠り続けた。そんなアホな話の酷評を求めたら、クソ真面目なメールが返って来た。

 「キャラクターのイメージがはっきりと浮かんでこない」と指摘し、根本昌夫氏の『小説教室』を引用して、「登場人物の人物像やプロフィールが大事」と教えてくれた。彼は年寄りに身を置き換えることのない、決して好きになった女性を抱くことのない、根っからの堅物だった。60年も付き合ってきたが、やっぱり彼は変わらない。

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イラつく子どもたち

2019年12月09日 18時38分46秒 | Weblog

 土曜日に続いて、今朝は9時半から井戸掘り作業を行った。3メートルほどの下は、建築の廃材や石なども無いように思えたので、今朝は塩ビ管に水を送り込んで掘り進めた。6メートル辺りから打ち込んだ水が上がって来ない。水脈だと思うが、出来ればもう少し掘り下げようと、やってみるとさらに1メートル下げることが出来た。

 昼飯を食べ終わって現場に戻ると、もうひとりの仲間がいた。「午後からはいいよ」と言うので、私と替わってもらった。私は放課後子ども教室のボランティアに行かなくてはならない。先週は姉の死で欠席させてもらったから、今日は休む訳にはいかない。子ども教室に来る子どもたちの顔ぶれがまた少し違う。

 宿題、プリント問題などを終えるとレクの時間で、マンガを読む子もいれば、グランドへ遊びに行く子もいるし、ゲームに興じる子もいる。女の子がひとり、遊び相手を失い、「おじさん、ゲームしよう」と言うので相手をするが、何ん度やっても勝てなかった。ルールがよく分からないままにやっているので仕方ないが、横着な女の子が意外に優しく手ほどきしてくれた。

 いつも先生の言うことを聞かず、反抗的な態度をとる女の子が今日はいなかった。私にはいい子のように見えた男の子が、今日はなかなか席に着かず、先生がひとり横について指導していたが、プリントはクチャクチャにしてしまうし、宿題の国語の書き取りの字は荒れていた。「イヤなことがあったんだね」と声をかけると、一瞬素直な表情をしたが、また荒れた字を書いていた。

 子どもたちはどうしてこんなにイラついているのだろうと思うが、私にはどうすることも出来ない。帰りがけに、反抗的な女の子の名前を挙げて、「今日は来ていませんでしたが‥」と訊ねたが、「親の勝手で、来たり来なかったりですから」と言われてしまい、会話にならなかった。

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市民音楽祭を楽しませてもらった

2019年12月08日 18時03分37秒 | Weblog

 井戸掘り作業は人数が揃わず、今日は休止となった。先輩のひとりは毎日曜日にお参りに出かけている。彼が若い時、妻の初めての妊娠は大変だったようで、「帝王切開しかない」と医者から告げられたそうだ。彼が悩んでいたのを知った職場の仲間から、「それはお前の信心が足りないからだ」と言われ、お寺に通うようになると、2週間遅れて無事に長男が生まれた。

 半信半疑であったが、彼はそれをきっかけに信心するようになった。昨日の昼食の時、彼は私に「あんたも入らんか」と誘ってきた。「信心する気はない」と答えると、「今は良くても、死んだら困るだろう。墓はどうするんだ?」と訊く。「墓は要らない。火葬場で骨を拾うから、仏壇や墓が必要になるが、拾わなければ必要ない」と答えると、「それじゃー、地獄に落ちるしかない」と言う。

 地獄を見たことはないし、死んだ先のことは分からない。人は死ぬと白い骨しか残らない。この世で生きていた時は、楽しいことも苦しいことも快楽も痛みもいろんなことがある。どんなに立派な人も死んでしまえば、ただもう、この世にいない人に過ぎない。だからこそ今日を、生きている毎日を、大事に充実したものにする必要がある。

 井戸掘り作業が休止になったので、午後は市民音楽祭に出かけた。「音楽のある街」はすっかり定着し、会場の大ホールは満員だった。音楽祭は普通の発表会と違い、随分と「祭り」らしいプログラムになっていた。第1部は合唱で、2つの少年少女合唱団は演劇交じりの工夫があったし、3つの大人の合唱団は1つになって、懐かしい歌謡曲を歌った。第3部の吹奏楽の8団体はそれぞれに踊りや合唱なども行ない、「音楽祭」を十分に楽しませてもらい、充実した一日となった。

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マンションの中庭で井戸掘りをする

2019年12月07日 18時12分53秒 | Weblog

 木曜日の朝だったのか、思い出せないほど「もうろく」してしまった。朝、伊吹山を見ると白い雪を被っていた。その南の鈴鹿山脈も白くなっていた。やはり冬が到来したのだ。この寒さは今日がピークで、またしばらく暖かい日が続くと言う。

 今朝は寒かったが、曇り空ながらも風が無くて助かった。マンションの中庭に防災のための井戸を掘ることになっていたからだ。ところが試しに少し掘ると、コンクリートの破片などが出て来て、とても手掘りでは掘り進めないことが分かった。

 以前、自宅で井戸を掘ったことのある土木業者に頼んで、ユンボで掘ってもらったが、3メートルほどまで建築廃材が埋まっていた。その下は普通の土であることを願って、そこに塩ビ管を立てて埋め戻してもらった。果たしてこの先、うまく掘れるのか思いやられる。

 明日はメンバーが揃わないので、作業は月曜日からになる。先輩が「今晩はいっぱいやりましょう」と言う。酒など飲んでいられるような状態ではないと思うけど、何でも楽観的に考える先輩の言うことなので受け入れるしかない。急いでつまみを作り持って行くことにする。

 木曜日に、お願いしていた『はがき絵』が出来上がってきた。1969年から2019年までの暑中見舞いや年賀状をまとめて、A5判の冊子にしたものだ。名芸大の卒業生が編集し、私が毎年印刷をお願いしていた地元の印刷屋さんが印刷・製本してくれた。

 来年は喪中になるので年賀状を出すことはないので、この冊子をもって年賀状を勝手ながら終了することにした。

 

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愛して欲して生きる

2019年12月06日 17時37分27秒 | Weblog

 姉の死で、「生」と「死」をまた考えることになった。小学生の時、祖母が亡くなった。葬儀に近所の人が来て手伝ってくれた。ワイワイと話しが弾み、楽しそうなのが不思議だった。ラジオで「ルーテルアワー」を聞いて、キリスト教に関心を持った。学校の図書室で『アンクル・トムの小屋』を読んで、もっと聖書を知りたいと思った。

 姉の遺骨は拾わなかった。姉がそう願ったこともあったが、遺骨を拾ってどんな意味があるのかと思う。僧侶は「本山に収める」と言うが、遺骨を拾う習慣は何時から生まれたのだろう。火葬の前は土葬だったから、遺骨を拾う風習はなかっただろう。遺骨に意味を持たせるようになったのは何時からだろう。

 浄土真宗の祖、親鸞は墓を持たなかった。庶民が墓を建てるようになったのは明治以後だと聞く。仏教の神髄は己を無にすることだから、あの世のことなど考えない。この世で欲張らず、恨まず、生きることが求められた。

 今朝の中日新聞に、私の好きな諏訪哲史さんのコラムがあった。「いかに人を許すか」の表題で、「人を許すには、各人が己も罪人だと弁え、自省して謙虚さを得るしかないのです」とあった。「軽蔑や差別じたいが醜い罪悪だからです。僕たちは同じ罪人、汚れた者たちなのです」と結ぶ。

 同じページに瀬戸内寂聴さんの言葉があった。「人間は誰かを愛するために生まれてきた。本当に愛したら何でも許せる。相手が返してくれなくても与えるのが愛です」。何歳になっても、これでいいと悟ることなど出来ない。愛して欲して生きる、どうやらそれが人間のようだ。

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5年目に彼女が現れた

2019年12月05日 17時41分23秒 | Weblog

 地域新聞を始めて5年が経った時、彼女が現れた。私のところで働きたいと言う。新聞は広告収入で経営していたが、広告の依頼が増えて集金が遅くなくなっていたので、友だちに頼んで女性をひとり雇用したばかりだった。聞けばパソコンが出来ると言う。おかげで新しい企画が打ち出せた。

 大学の公開講座やボクシングの世界チャンピオンの祝勝会、小冊子の発行など、彼女がいてくれたおかげだ。狭い編集室が一気に華やいだ。ただ、新聞を作るだけでなく、みんなで行楽にも出かけた。新婚の彼女の家に行ったこともある。実家の畑にチューリップが植えられていて、私のチューリップ好きの原点になった。

 彼女の家で、彼女の素足を見て、その美しさに驚いた。美術教室に置かれた女性の足の石膏像のようにほっそりとしていた。彼女のお母さんは長女の彼女に求めるものが多いようで、よく愚痴を聞かされた。私から見れば、母親の期待なのだが、彼女には重圧だったようだ。大人になった息子をとても愛しているように、彼女の母親も彼女を愛したのだろう。

 彼女のブログを読むと、時々、こんな使い方でよいのだろうかと思う文章がある。今日も「大学の難易度など‥かまびすしくなってきたけれど」とある。「かまびすしい」は「騒々しい」の意味のある古語だが、彼女はどういう意味で用いたのだろう。大学の非常勤講師も務めている彼女だが、ちょっとそそっかしいところもあり、そこがとても可愛いのだが‥。

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スリランカの2人の活動を聞く

2019年12月04日 17時46分25秒 | Weblog

 国際交流協会の主催で、アジア保健研修所の活動による、スリランカの2人の話を聞くことが出来た。私が子どもの頃はセイロンと呼ばれていた国で、英国の植民地から独立した後は、民族や宗教の違いから30年近い内乱の時代が続いた。今は建国に総力を挙げているが、中国やアメリカなどの資本が投入されたことからの問題も発生しているようだ。

 識字率が極めて高いし、人口の10%は英語が話せるという。高学歴になればなるほど、英語が一般的に使われることも日本よりはるかに顕著のようだ。英国の植民地だったことに由来するのだろうが、民族や宗教の違いで内乱が続いたことの反省からなのかも知れない。みんなが助け合って生きていく、そんな建国の息吹が伝わってくる。

 けれども、深刻な問題も多いと言う。政治家や行政、警察までも犯罪組織とつながっていて、麻薬の撲滅が進まないそうだ。麻薬の被害が子どもたちから始まることもあり、スリランカの2人は、寺などで行われている日曜学校で、麻薬に手を出さないように教えていると言う。内乱こそが貧困や暴力の原因であったので、平和への取り組みには特に力を入れているとも話す。

 日本が近代化へ大きく前進できたのも、明治政府が教育に力を入れたおかげだが、同時に画一的な価値観を植え付けてしまい、戦争に突入するのを阻止できなかった。みんなが力を合わせることの大切さを共有しながら、個々の自由を認めることは至難のことだが、そうしなければ「本当の豊かさ」にはならないと思う。

 大和塾の活動に取り組んできた仲間が8人も集まったので、私は早速「新年会」の日程調整をする。何時まで経っても事務局からは解放されないようだ。

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希望通り遺骨は拾わなかった

2019年12月03日 17時49分47秒 | Weblog

 姉が12月1日、89歳で亡くなった。孫娘からのプレゼントで蒲郡ラグーナから豊川稲荷に向かっている時、姪っ子のダンナから電話が入った。「容態が悪くなってきている」と聞き、私とカミさんを国府駅で降ろしてもらい、駆けつけたが既に亡くなっていた。

 出来ることなら、孫娘がオーストラリアで結婚式と重ならないで欲しいと念じてきたので、むしろ姉に感謝したい。姉は3月生まれなので、もう少し長生きすれば90歳を迎えられたが、「私は早死にする」と言っていただけに、よい時期を選んでくれた。

 いや、何よりも感謝しなければいけないのは、姪っ子のダンナにである。嫁の母とは言え、血のつながりのない人のために、火葬の手続きから葬儀の支度まで、全てをやってもらった。姪っ子ひとりではどうすることも出来なかったし、私や妹も何もできなかったから、本当に申し訳なく感謝の気持ちでいっぱいである。

 姉は昭和5年生まれだから、厳しい時代に子どもの頃を過ごし、戦後の解放感の中で青春を迎え、恋愛結婚する自由でたくましい生涯だった。姉が何を思い、どのような辛苦を舐めたのかは何も知らないが、新しい時代を生き抜いた女性のひとりであろう。離婚もしたし、援助してくれる男性にも出会った。そして家族の中で一番長く生きた。

 私は、姉よりも先に死んでは姪っ子が困ると思って来たので、もう心配することが無くなった。火葬場の炉から出された骨は粉々だった。人の死は誠に呆気ない。しっかり見届け、姉の希望通り遺骨は拾わなかった。

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