今年のノーベル平和賞は日本原水爆被害者団体協議会(被団協、東京)に授与されることが発表された。ノーベル賞委員会は「核使用がもたらす人道面の破局的結果」を知らしめる上で被団協が大きな役割を果たしたと称賛し、その活動を通じて「核の使用は道徳的に許されない」との「強力な国際標準」が形成されたと、授賞理由で説明した(産経新聞より)。結成以来68年を経ての快挙だが、ようやく、とか、今さらの感がある、などと嘆くより、かねてノーベル平和賞や文学賞には政治性があると言われてきたように、授賞理由で「現在進行中の戦争で核兵器が使用される脅威もある」と述べられていること(現実の危機)に衝き動かされた状況であることににも留意すべきだろう。
ロシアはウクライナ戦争で核使用をチラつかせて米国をはじめとするNATO諸国を牽制し、東アジアでは、北朝鮮がとうとう同胞の南朝鮮(韓国)を統一の対象ではなく敵国呼ばわりして核開発をギア・アップし、中国は核保有国として核軍縮のために「誠実に核軍縮交渉を行う義務」(NPT第6条)が求められるにも関わらず(米軍の報道によれば)保有する約500発の核弾頭を2030年までに約1千発に増強する見通しが強まっている。冷戦時代には「恐怖の均衡」と呼ばれ、その危機をコントロールするために大量報復戦略、柔軟対応戦略、相互確証破壊などの抑止論を展開し、いわば「感情」を抑えるための「理性」を働かせる努力をして来たが、戦後79年を経て、その「理性」のタガが外れてしまったかのようだ。
核廃絶を願う気持ちは尊い。私は、そんな道徳的な活動に寄り添うよりも、どちらかと言うと、歴史においていわゆる暴力が幅を利かせ、現代においてなお市井の声がなかなか届かない、人類の歴史の歪んだメカニズムに反発するがゆえに、その謎解きに惹かれて政治学や法哲学に興味を示すひねくれ者だからこそ、余計にそう思う。なぜなぜ分析をすると、結局、ロシアや中国の統治の脆弱性、ひいては国家(海洋国家と対比した大陸国家)とは何か、権力とは何か・・・という根源的な問いに繋がる(ような気がする)。
アメリカン大学核問題研究所長のピーター・カズニック教授は時事通信の取材に、「被団協は『世界の良心』であり続けている」と称賛し、平和賞に被団協を推薦してきたと明かした上で、「被爆者が生きているうちにこの賞を授与する緊急性があった」と強調した。ただ、既に被爆者の多くが他界したのは「ほろ苦い」と語ったそうだ(時事通信より)。広島出身の政治家として岸田さんは広島サミットを成功させたように、人類の歴史で唯一の被爆国として、現実主義の政治の中にも、理想主義の炎を絶やすべきではないとつくづく思う。