風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

オリンピックのスポーツと「道」の間

2024-08-04 05:53:41 | スポーツ・芸能好き

 柔道混合団体・決勝で、前回・東京大会で銀メダリストの日本は金メダリストのフランスと再戦し、3-4で敗れて、二大会連続の銀メダルに終わった。

 柔よく剛を制すとはよく言ったもので、第二試合では髙山莉加が一階級差、第四試合では角田夏実が二階級差をものともせずに勝利し、3-1まで追い詰めたが、続く第五試合では阿部一二三が一階級上のメダリストに敗れるなど、3-3でゴールデンスコアによる代表戦にもつれ込み、ネットでは仕込みがあったのではないかと騒がれたデジタル・ルーレットの抽選でよりによって90キロ超級が選ばれ、本戦に続き斉藤立がリネールと再戦し、6分26秒の死闘の末に地元フランスの英雄に屈し、リベンジはならなかった。

 この大会では(でも、と言うべきだろう)、男子60キロ級準々決勝の永山竜樹や、男子73キロ級準々決勝の橋本壮市など、不可解な判定が続出し、SNS上では“誤審ピック”なる言葉も出て来た。日本人ばかりでなく、イタリア柔道連盟は、母国代表選手らが受けた判定を不服として国際柔道連盟に正式抗議した。人間のなすことだから完璧ではないが、審判は絶対である以上、選手たちの真摯な戦いに応えるために厳正であって欲しい。

 他方、男子90kg級決勝の村尾三四郎のように、ルールはルールとは言え、微妙な判定には不満が残った。男子100キロ超級準々決勝のリネール対ツシシビリ戦では乱闘寸前の騒ぎになり、男子81kg級の表彰台では金メダリスト永瀬貴規を押しのける形で銅メダリストが前に出て目立つなど、柔道「らしからぬ」態度が物議を醸した。私たち日本人は、どうしても柔道は武道との思いが抜けきらないし、戦う選手たちも、ポイント狙いの柔道を嫌ってリスクを負ってでも一本を取るために組み合うことが多いと言われる。翻って、日本の大相撲は様式美を尊ぶ伝統芸能であって、格闘技と勘違いして横綱らしさに欠けた朝青龍や白鵬を批判するのは正当だと思うが、柔の道がスポーツの祭典オリンピックの競技種目に採用された以上は、判定や柔道着に関するルールにしても、それに臨む選手の態度にしても、「道」から外れてスポーツ「らしく」なることに、文句は言えない。

 それでもなおスポーツの国際舞台でも「道」を極めようとする日本人柔道家は、言ってみれば勝手なのだが、私はそれを美しいと思うし、本家本元の日本としては、それでも良いと思うし、それでも勝つ彼ら・彼女らを誇らしく思う。

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オリンピックに棲む魔物

2024-07-31 00:49:46 | スポーツ・芸能好き

 勝負の世界には魔物が棲む。勝利は間違いないと確信したところに思いもよらない陥穽が待ち受け、あるいはその逆に諦めかけたところにどんでん返しが起こり、筋書きのないドラマが生まれる。オリンピックのような四年に一度の(今回は三年しか経っていないが)晴れ舞台では、選手たちの思い入れが強く、抱えているものも重いだけに、神様の采配は気紛れに映る。

 27日の男子バレーボールで、日本はドイツ相手に勝利まであと一歩というところで勝ち切れなかった。続く卓球では、国際大会で優勝を重ね、第二シードで金メダルも期待された“はりひな”ペアが、初戦で北朝鮮ペアに完敗した。

 そうかと思えば、土壇場で勝負強さを発揮することもある。スケートボード男子ストリートの堀米雄斗は、ベストトリックの最終5本目で大技を決め、メダル圏外からトップに浮上し、見事に連覇した。体操男子団体総合では、最後の種目・鉄棒を残してトップの中国に「3.267」もの差を広げられながら、中国の選手が二度落下するようなあり得ないミスに助けられ、奇跡的な逆転優勝をもぎ取り、僅か「0.103」の差で金メダルを逃した前回・東京オリンピックの雪辱を果たした。

 私にとって、魔物が牙を剥いた最たるものは、柔道女子52キロ級の阿部詩だったかもしれない。二回戦の残り56秒、一瞬の隙を付かれて谷落としをかけられ、まさかの一本負けを喫した。東京五輪金メダル獲得以降、負けなしのまま、兄妹同日連覇の夢を懸けて臨んだパリ五輪だった。昨秋に腰痛を発症し、10月に予定していた国際大会出場を取り止めても、年明け二大会を挟めばシード獲得は確実だったが、シードに入るよりも自分のコンディション調整を優先して自重し、2回戦では世界ランク一位に当たって、そこで敗れたために敗者復活にも引っ掛からなかった。

 立ち上がれなくなるほど、赤ん坊のように「ギャン泣き」したことが物議を醸した。一本勝ちにも喜ばなかった相手選手に失礼だとか、次の試合開始が遅れて運営側から早く退場するよう促されたと批判され、東国原英夫氏は「武道家として如何なものか」と苦言を呈した。普通ならばその通りだろう。ケガなどの特別なことから小さいことまで凡ゆることを、三年またはそれ以上の年月にわたり、この日のために調整して来たのだ。抱えて来たもの、背負ってきたものの重さを、私たちは知らない。出来れば、彼女のいつもの満面の笑顔を見たかった。

 国別対抗など今さら古いと、わけ知り顔に言うリベラル系の人がいる。しかしウクライナや中東で、はたまたコロナ禍で、国家の存在感が増しているのが現実である。国家間の確執をしばしスポーツの勝負に昇華し、国家間の壁を超越したところでスポーツが持つ普遍的な感動を分かち合うことにこそ意味があるように思う。

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永遠の峰不二子

2024-06-04 21:05:13 | スポーツ・芸能好き

 テレビアニメ「ルパン三世」Part 2から峰不二子役を務めてこられた声優の増山江威子さんが5月20日に亡くなっていたことが分かった。享年89。

 年齢とともに声も老化するものだが、増山さんは驚く勿れ70代になっても、ときに甘えすかしてそそのかし、ときに冷たくあしらいながら、狙った獲物は逃がさない、世界を股にかける大泥棒・ルパン三世を自在に操る魔性の女・峰不二子の艶やかな声を保っておられた。プロの矜持である。

 早くも1960年代から声優として活動されたが、当時は声優という職種が世間に認知されておらず、舞台俳優の副業扱いでしかなかったそうだ。峰不二子役以外にも、「天才バカボン」のママ役や「キューティーハニー」の如月ハニー役に「パーマン」のパー子役など多彩な役柄をこなし、私たちアニメ全盛の世代にとって、今更のように存在感の大きさを思う。

 こうして私が一番好きなアニメ「ルパン三世」で私が馴染みがあるルパン・ファミリーは皆さん鬼籍に入ってしまわれた。ルパン(山田康雄さん、1995年没)、銭形警部(納谷悟朗さん、2013年没)、石川五エ門(井上真樹夫さん、2019年没)、次元大介(小林清志さん、2022年没)・・・私もそういう年齢なのかと、感慨深い。

 峰不二子というアニメ上の強烈なキャラに(文字通りに)命を吹き込み、一人の女性像を打ち立てて、限りない夢を与えて下さった感謝の気持ちを込めて、合掌。

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ONがいた時代から今

2024-05-29 01:24:00 | スポーツ・芸能好き

 今年は読売巨人軍創設90周年の節目で、3日の「長嶋茂雄DAY」に続き、今日のソフトバンクとの交流戦は「王貞治DAY」と銘打ってセレモニーが行われた。

 かつて全国的にテレビ放映された巨人は、子供たちに全国的な人気があり、「巨人・大鵬・卵焼き」という御三家の一角を占めた。私がその言葉を知ったのは後年のことだが、大鵬が32度目の優勝を飾ったときの新聞の切り抜きを大事にとっていたし、大阪に住んでいたが巨人ファンだった。と言うと不思議がられるが、巨人の人気は全国区だったのだ。小学生の頃、クラスメイトと草野球チームを作って、週休一日の当時の大事な日曜日も毎週、練習に明け暮れて、リトルリーグ相手に連戦連勝を誇ったものだが、メンバーは巨人ファンと阪神ファンに二分されていた。当時の大阪はそんな感じだった。そして毎朝、卵焼きを食べさせられて、食傷気味だった。

 長嶋さんの引退試合はリアルタイムで見たし、その少し前に、阪神・村山実さんの引退試合を甲子園まで見に行って、マイクロバスで引き揚げるONを間近に見て感動したのが忘れられないが、年齢的には長嶋さんより王さんに馴染みがあった。

 その巨人の第28代4番を務めた王さんが、第89代4番を務める岡本和真について、「素晴らしいですよ、ジャイアンツの4番で6年連続30本以上打つっていうのは。今の野球は僕らの時のものより複雑になっているし、難しいですよ、この時代に打つのは」「ホームランバッターとしての資質というかそういうのもあるし、気持ちも前に向かっている。あとは結果をもっと追い求めてほしいですね。『ホームラン王を絶対取るんだ』って気持ちで、『負けないんだ』っていう気持ちでね。そうすると、自分を追い込んでいってもっと練習もやるし、もっと緻密に考えられるようになる」などと語ったそうだ。確かに、ムーミンのようにおっとり(ぼんやり?)しているように見えて、ガツガツしない大物振りは大好きだが、記録への秘めたる執念は足りないように見える。

 先日、江川さんの完投型ピッチングについてブログに書いたように、5回か6回投げれば先発の役目を果たしたことになる分業制の今と当時とは単純に比べられない。それでも王さんは同時代で傑出していて、4年目から19年連続で30本以上を放って、圧倒的だった。国内だけでなく日米野球でも、1970年のジャイアンツ戦では1試合2ホーマーを放った後は敬遠されたし、74年に来日したメッツにはハンク・アーロンがいて、王さんとの本塁打競争を10-9で制した後に、「サダハル・オーはメジャーでも十分通用する」と絶賛したものだった。まだ貧しくて娯楽が乏しかったあの当時、などステレオタイプな言い草だが、圧倒的なヒーローがいて、手が届かないにしても、未来への限りない夢があった。

 翻って、現在の4番・岡本は、その前後を打つ3・5番が丸や坂本ではないことが多く、軽量級のため際どく攻められやすいのは気の毒だし、そうなると精神的な負担も大きいだろうし、実際に見えないところでは苦悩を爆発させているとも聞く。期待が大きいだけに物足りない。あの頃は、長嶋さんだけでなく、高田さんや土井さんや黒江さんや柴田さんもいて、堀内さんの200勝に典型的に見られるように、メンバーが揃った強いチームでは記録が出やすいのは事実だ。今やピッチャーはいつも全力で立ち向かって来る。それでも未来を夢見る子供たちがいて、その一球一球の勝負を息を凝らして見守っているのだ。その重責を、岡本には軽々と果たして欲しいものだと思う。

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追悼・浪花のモーツァルト

2024-05-17 00:16:27 | スポーツ・芸能好き

 キダ・タローさんがそのように呼ばれていたとは存じ上げなかった。そう名付けられたのは、最高顧問と持ち上げられていた関西の深夜番組「探偵!ナイトスクープ」でのことで、番組出演は1989年以降というから、確かに私が大阪を離れてからのことになる。大阪では知らない人はいない、テレビ番組のテーマ曲やCMソングを数多く手掛けられた作曲家で、ご本人も分からないというその数は5千曲にのぼると言われる。「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」「ABCヤングリクエスト」などの軽快で親しみやすいテーマ曲や「かに道楽」「551蓬莱」「日清出前一丁」などの瞬間的なノリの良さでは天才的なCMソングは今も耳に残る。そんなキダ・タローさんが一昨日に亡くなった。享年93。

 私が、と言うよりもむしろ、今は亡き母が、パート勤めをしていた事務所が勤務時間中でもラジオを流しっ放しという奔放な、と言うべきか、さばけた環境で、キダさんの番組(フレッシュ9時半!キダタローです)でリクエスト葉書が読まれたと言ってはよく自慢していたのを思い出す。

 丁寧な関西弁で毒舌を吐くとも評されて、関西人にありがちの、どこまでが本気でどこからが冗談なのか分からない、人を食ったような、いつもユーモアと笑いに溢れた楽しい方だった。

 近親者のみで行われた葬儀にも参列したほど親しい仲の円広志さんが、かつて人間関係で悩んだときに長い文章を書いて相談したら、一言、「あまり人に近づかんこっちゃ」と返して来られたらしい。無類の人好きには違いないけれども、その陰にはキダさんなりのご苦労もあったであろうペーソスを感じさせ、回りくどくない簡潔な一言にこそ込められた優しさには、思わずホロリとさせられる。

 不思議な存在感のあるお人柄を忍びつつ、合掌。

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たかが野球、されど野球

2024-05-05 18:12:26 | スポーツ・芸能好き

 連休初日の5月3日は、読売ジャイアンツの球団創設90周年記念特別試合「長嶋茂雄DAY」で、長嶋さんが降臨された効果か、今季の巨人には珍しく打線が繋がって、阪神との伝統の第一戦を8―5で勝利した。岡本和真に久しぶりの一発が出たのは、まさにミスター効果だろうか。坂本勇人は186度目の猛打賞で、ここぞとばかりにミスターに並ぶセリーグ・タイを記録したのはさすがだった。

 昨日の第二戦も、菅野智之が前夜にぎっくり腰になったらしいのをものともせず、7回1失点と粘って、延長10回に吉川尚輝のタイムリーを呼び込んで連勝した。今日の第三戦は、さすがに阪神を相手に3タテにはならず、しかし岡本和真が初日の一発だけで3連戦11打数1安打と抑え込まれたことには期待を込めて喝を入れたい。瞬間風速で4割を超えたのも束の間、その後はなかなかエンジンが点火せず低迷している。

 ところでこの連休は特に出掛けることもなく、ひょんなことから、江川卓さんのYouTube動画「たかされ」をまとめて楽しむ仕儀となった。江川と言えば、空白の一日のことを大学のローマ法の教授が擁護したことがつい昨日のことのように懐かしく思い出されるが、長嶋さんや王さんがいたV9の黄金時代に続き、その残り火のように江川・西本が競い合った準・黄金時代は、かれこれ40年前のことになる。1984年の日本シリーズで江夏さんを超える10連続⁉︎奪三振を狙った(9人目の大石を三振・パスボールで振り逃げにしようとして、結局バットに当てられて、8連続でストップした)とか、掛布雅之との間では(二人の対決を楽しみにしているファンのために)初球は絶対に振ら(せ)なかったとか、今だからこそ話せる裏話が面白い。一発病とか手抜きなどとマスコミから叩かれたが、当時は完投を当然のように狙って、打者の目が慣れる3〜4巡目となる7〜9回に再びギアを上げるために加減していたもので、広島の高橋慶彦さんは、衣笠さんや山本浩二さんに対するときと球威がまるで違ったと証言される。ある時、1アウト1塁にランナーを背負ったときの攻め方をコーチから聞かれて、インハイで三振と答えて一喝された江川に対して、シュートで詰まらせてゲッツーと答えた西本が褒められたのは、二人の良い対照だが、江川は後からコーチに、お前はそれでいいと言われたのは彼の面目であろう。ボール球など無駄だから投げたくないと公言し、ストライクゾーンに投げ込んで空振り三振(バットはボールの下で空を切る)に仕留めることに無上の喜びを見出した。それほどに、ふわっと浮くような真っ直ぐだと形容されたのは、決して重力に逆らっていたわけではなく、威力があるから他の投手のように落ちなかっただけのことで、直球とカーブだけでコーナーに投げ分けて抑える投球術は圧巻だった。渾身の球を打たれたとしても、それは打者の技術が上回っただけのことで悔しくない、などと飄々と言ってのけるなど、よほど自信がなければ出来ることではない。

 思えば、長嶋X村山、王X江夏、そして江川X掛布など、チームプレイの野球にあっても、手に汗握る宿命の対決があったものだが、今は(例えば岡本和真と誰かの対決など)俄かに思い浮かばない。投手は分業制で、先発して6回3点に抑えればクォリティ・スタートと言われる今は、球が飛びにくいだけではなく、ほぼ全力投球の投高打低で、抑揚や加減などあったものではない。今となっては長閑な時代だったと言うべきか、効率一辺倒ではないドラマが懐かしいと思うのは、年寄りの戯言に過ぎないのだろう。

 

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昨日のオオタニさん

2024-04-06 01:55:50 | スポーツ・芸能好き

 現地時間4月3日に地元ドジャー・スタジアムで行われたサンフランシスコ・ジャイアンツ戦7回に、ようやく待望の移籍後第一号ホームランが飛び出した。大谷らしい、打ってすぐにホームランと分かる、伸びのある打球だった。前回ブログでは、気持ちの切り替えはさすが、な〜んて褒めていたのだが、結局、開幕後8試合37打席ノーアーチで、この日の第四打席目、通算41打席目はメジャー移籍後の自己ワーストだった。

 新天地デビューという晴れの舞台で、ただでさえ緊張もするだろう。一平さんの違法賭博疑惑で気を揉んだ上、いつも影のように付き添ってくれていた彼がいないという勝手の違いにも戸惑いがあるだろう。そもそも右肘手術の後で、全く影響がないのかどうかも気にかかる。

 この記念球は、キャッチしたドジャース・ファンが、大谷のサイン入り帽子二つとバットとボールと引き換えに、戻してくれたそうだ(大谷と対面出来なかったと言って揉めているようだが)。鑑定士によれば実に10万ドルの価値があるのだそうで、サイン入り帽子やバットやボールはせいぜいそれぞれ千ドルだとか、大谷が放ったファール・ボールでさえ1万5千ドルで販売されているとか、記念球一つとっても話題になる。

 春先は距離感がなかなか合わないという、大谷にとってはいつもの問題に過ぎないという声もあるが、さて、これで大谷は"本当に"気持ちを切り替えられただろうか。朝、スポーツ・ニュースで大谷の活躍を確認して、その日の気分が良くもなれば悪くもなるというファンは、私も含めて一体何人いることだろう。いやはや、もはや有名税とは言え、大谷の一挙手一投足が人騒がせで、静かに野球を楽しみたい輩には、痛し痒し、ではある。

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今年のオオタニさん

2024-03-29 21:39:39 | スポーツ・芸能好き

 ただでさえ昨年暮れあたりから露出を増やして来た大谷翔平選手は、私のFacebookがコツコツと学習を重ねて来た甲斐あって、益々露出を増やしてしまった。

 そして、多くの日本人ファンと同様、新婚ほやほやのツーショットや、ダルビッシュとの初対決を偶然とは言え韓国にさらわれて、切歯扼腕していたところだった。が、一平さんの違法賭博疑惑で、そんな気分は吹き飛んでしまった。一平さんがギャンブル依存症だったとは驚いたが、今回は狙われたのだろうか。真相は依然、藪の中だが、最大の焦点である、セキュリティが厳しいアメリカの大谷選手の銀行口座からどうやって送金したのかというところ、大谷選手は知らなかったのではなく合意の上だったのではないかとの疑いは拭えない。二人の関係性と大谷選手の性格からすれば、ESPNの一平さんインタビューは恐らく正しくて、大谷選手側とディールが成立しているのではないかと下衆の勘繰りをしたりするのだが、いずれにせよ、大谷選手の記者会見での様子や彼の性格からすれば、彼が違法賭博に関与していないであろうことは間違いなく、後は事態の推移を見守るしかない。

 それよりも、ペナントレースが始まって、野球に集中出来る環境が整うのか否かが気掛かりだった。が、昨日の本拠地デビュー戦で、それまで13打席無安打だったのがウソのように、初回の第一打席でいきなり右翼線に二塁打を放ち、五回にも右前打と、マルチヒットを放って、もやもやは一気に吹き飛んでしまった。ここぞという時の気持ちの切り替えは流石、プロだ。

 ある雑誌は、二刀流の大谷選手を長年支えて来た一平さんの奮闘を十刀流と呼んだ。曰く、①通訳、②ボディガード、③グルメ情報収集、④キャッチボールの相手、⑤運転手、⑥トレーニング・サポーター、⑦動画撮影カメラマン、⑧審判の心理分析、⑨メンタル・サポーター、⑩友人、だと。十番目がなんだか切なくなるが、今回の事件に対して誰もが抱いているであろう違和感はそのままに、奥様やデコピンの力も借りながら、大谷選手らしい野球を見せて欲しいと切に思う。恐らく誰よりも一平さんがそれを望んでいるに違いないだろうから(と信じたい)。

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「なごり雪」から50年

2024-03-01 00:05:56 | スポーツ・芸能好き

 「なごり雪」が世に出て50年になるそうだ。

 伊勢正三さん(以下、馴々しく正やんと呼ばせて頂く)のインタビューによると、誕生秘話は以下の通りだそうだ。

 「なごり雪」は僕の中で確かな手応えがあった。良い曲が出来たぞ。でも最初に「なごり雪」を持って行って聴かせたとき、余り褒めてもらえなかった。あれ、おかしいな…。でも絶対的な自信があったから、締切を一日延ばして貰って、家に帰ってそのまま一晩で作ったのが「22才の別れ」だった。

 と言うことは『22才の別れ』からも50年になる。フォークギターを買って最初に覚えるスリーフィンガーの曲だった。これら二曲は、正やんの代表作ベスト3に入る名曲だが、なんと彼が手掛けた最初の二曲だったとは知らなかった。

 曲作りについて、次のように語られる。

 最初にあったのは、「今 春が来て 君はキレイになった 去年よりずっと キレイになった」という部分。メロディと言葉が同時に、かつ瞬時に浮かんだ。そこからイメージしたのは、こんなシーンだった。東京駅のホーム。二人の若い男女。出発を待つブルートレイン。線路に雪がちらちらと降っている。けれどその雪は積もることはない。

 今年最後に降る名残惜しい雪というイメージだそうだ。どうしても『22才の別れ』のイメージと重なってしまい、東京の大学で出会って、束の間の逢瀬を重ね、「ふざけ過ぎた季節の後で」故郷に帰る(そして二度と会うことはないだろう)女性を見送る切なさに満ちて、なんとも愛おしいと、月並みな感傷に浸ってしまう。卒業の季節は別れの季節であり、旅立ちの季節でもある。

 実際に、この曲を書いたのは21才の終わり頃だったそうで、正やんによれば、その頃の感性だからこそ出来たものであり、あの瞬間に全てが詰まっており、だから二度と書けない、と語っている。かつてユーミンは天才を自称し、ヒット曲を連発したものだが、さすがのユーミンでも曲想を練るために、深夜のファミレスで若者たちの会話を盗み聴きするようになったと聞いたことがある。私の思い込みでかなりデフォルメされているかもしれないが(笑)、あの頃の感性はもはや取り戻すことが出来ない、かけがえのないものだと、多少なりとも誰しもが思い当たることだろう。それでこうして後世に残る名曲を生み出せるかどうかは問わないにしても。

 私の場合は逆パターン・・・「ふざけ過ぎた季節の後で」京都で寂しく見送って、でも私も間もなく就職で上京し、何度か会ったり、手紙を貰ったり、共通の友達と三人で会ったりもしたが、小山の人だったので、いつの間にか疎遠になり、30年振りに会ったときにポツリと「私たちってすれ違ってばかり」と言われて、今更ながらドキリ…

 瑞々しい感性は幼さのゆえでもある。もはや恥じらいもない干からびた感性には、たまらなく懐かしくも羨ましくもある(苦笑)。上手く表現するメロディも言葉も生み出せない私は、ただ当時の思い出がまつわる曲に想いを寄せるだけ。

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マエストロに捧げるG線上のアリア

2024-02-13 03:02:20 | スポーツ・芸能好き

 小澤征爾さんが6日、心不全で亡くなった。享年88。

 「世界のオザワ」について、クラシックが苦手な私に言うべきことはない。朝日新聞から引用する。「カラヤンに弟子入りし、1961年にはバーンスタインにも才能を認められ、ニューヨーク・フィルの副指揮者に。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなど世界の名門楽団と共演を重ねた。(中略)カナダのトロント交響楽団を経て70年、米タングルウッド音楽祭の芸術監督とサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に。73年から29年間、ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。2002~10年にはオペラの最高峰、ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。02年には日本人指揮者で初めてウィーン・フィルのニューイヤーコンサートに登壇した。」(2月9日付)。なんと華々しい経歴だろう。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、9日、SNSに、指揮をする小澤さんの写真と共に「ベルリン・フィルはかけがえのない友人であり、当楽団の名誉団員でもある小澤征爾に心からの哀悼の意を表します」と日本語で追悼のコメントを投稿したそうだ。フランスのフィガロ紙は「クラシック音楽の魔術師、小澤征爾が死去」との見出しを掲げ、ルモンド紙は「西洋で指揮者として初めて成功したアジア人だ」と伝えたらしい。西洋音楽へのコンプレックスがある日本人にとって、これほど誇らしいことはない。

 私はただ、人生で唯一の接点である1997年の夏の一日を思い出すだけである。

 場所はボストン郊外、森の中のタングルウッド。ボストン交響楽団の演奏の中央に小澤征爾さんがいて、芝生が広がる広場では、人々が思い思いに音楽を楽しむ。芝生で寛ぐ若者たち。テーブルと椅子を持ち込んで、ワインを片手に耳を傾ける老夫婦。そして、アメリカ駐在中の私は、同僚家族とともに、レジャーマットを敷いて子供たちを遊ばせながら、ピクニック気分。なんと贅沢な時間だろう。

 1973年から2002年まで29年間にわたって音楽監督を務めたボストン交響楽団では、9日午後の公演で、小澤さんが生前、友人が亡くなったときに別れの曲として贈っていたというバッハの「G線上のアリア」が楽団員によって演奏され、そのまま静かに演奏の手をとめて黙祷を捧げたそうだ。そして、ボストン交響楽団が拠点とする音楽ホールでは、建物についた楽団の頭文字の「BSO」という看板の「B」の字の電気を消して「SO」とすることで小澤さんへの哀悼の気持ちを示したという。

 あの夏の日は永遠に。ご冥福をお祈りして、合掌。

 

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