風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

北斎展ふたたび

2014-10-27 22:46:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 「驚異の色彩 -抜群に美しい北斎、ボストンから来日!」と題する北斎展が、上野の森美術館で開催されています。私にとってはホノルル美術館の北斎展以来、2年振り、久しぶりに保存状態の良い北斎版画を堪能しました。
 もっとも、堪能したと言っても、訪れた先週火曜日の午後、わざわざ半日休暇を取ったのに、いきなり入場まで1時間待ちの長蛇の列におののき、入場後も、ご年配の方々が、折角、待たされたのだからと言わんばかりにそぞろ歩きされて、若造の、そしてセッカチの私は、遠巻きにして、ものの30分で美術館を後にしたのでした。
 それにしても、ボストン美術館所蔵の北斎は素晴らしい。かれこれ20年近く前にアメリカ出張の徒然にボストン美術館を訪れたことがあって、作品を大事にする同館は、長く展示せずにすぐにしまいこんでしまうと聞いていました。実際、浮世絵版画に使われた植物顔料は退色が速いのが難点で、日本に残る浮世絵の色の退潮が著しいのはそのせいですが、日本人よりも先に浮世絵の価値を認めた欧米が持ち出した作品は、さすがに保存状態が良いことに驚かされます。
 今回展示されている初期作品も、実に色鮮やかで、目を見張りましたが、やはり北斎の魅力は、富嶽三十六景をはじめとする「青」の鮮やかさにあります。今年5月、原宿・太田美術館で開催された「広重ブルー」鑑賞記(http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20140513)で紹介した通り、オランダ舶載のベロ藍(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が中国で安価に生産されるようになり、浮世絵にも使用されて、人気が高まり、溪斎英泉や葛飾北斎など多くの絵師が次々とこの新しい青色を用いた作品を世に送り出したものです。今回の展覧会の謳い文句は大袈裟とは思えないほど、「今まさに摺り上げたかと思わせるほど色目の鮮やかな多くの作品が、浮世絵ファンを魅了」すること請け合いです。こうした誰もが知る有名な作品ばかりでなく、遺存の少ない団扇絵や切り抜いて組み立てる組上絵が切り抜かれずに揃いで残っているなど、貴重な作品も少なくありません。
 名古屋、神戸、北九州と巡回し、トリとなる東京での北斎展は11月9日まで。平日昼間でも1時間待ちは覚悟しなければなりませんが、一見の価値があります。
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マリー・ローランサン

2014-06-10 01:18:48 | たまに文学・歴史・芸術も
 三鷹市美術ギャラリー(三鷹駅前コラル5階)で、マリー・ローランサンの企画展をやっていると聞きつけて、行って来ました。
 やはり画集ではない生の画面から受ける、彼女らしい、ふわっとした柔らかさには感銘を受けました。キュービズムの影響を受けたといわれる灰色をベースに、ピンクと薄緑との、現代風に言えばパステル調の、淡い落ち着いた色合い・・・日本人に人気があるのも頷けます。しかし、今回、あらためて感じたのは、明るく柔らかい色調とは裏腹に、描かれているモデルに見えるのは、一種の倦怠か、はたまた憂鬱か。よくよく見ると、モデルは揃って伏し目がちで、作家のマリー・ローランサンの方を向くわけでなし、目を合わせる者は一人としていません。このズレとも言うべき、マリー・ローランサンがモデルの中に見てとった感情、キャンバスに写し取った情感は、一体、何なのでしょう。モデルたちは、ときに物憂い表情を浮かべ、またあるときには哀しみに包まれて、ひっそりと佇みます。まるでマリー・ローランサンの心の内を、モデルである女性たちへの共感を、映しているかのように。
 この企画展は、彼女の画家としての人生を俯瞰できる構成になっており、初期の絵は、随分、描き込んで、手が込んでいる様子が窺えますが、後半生では、良い意味での手抜き・・・これはピカソに象徴されるように、技量を超えて、もはや心で描いているとしか言いようがありません。そのあたりのプロセスを跡付けることが出来て、なかなか興味深く思います。
 私が訪れたのは実は二週間も前のこと。相変わらずブログの筆が進まず、遅くなってしまいました。マリー・ローランサン展は6月22日まで、です。こぢんまりとした企画展で、観覧料も600円と抑え目で、いくつか「これは」と思える作品に出会えるとすれば、訪れる価値は十分にあるように思います。
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広重ブルー

2014-05-13 01:40:28 | たまに文学・歴史・芸術も
 ゴールデン・ウィークは飛び石でしたが、私の会社は通しで休みでしたので、世間が働いている日を利用して、また学校も暦通りに動いているので家族からも後ろ指さされることなく(!)、ゴルフや美術館巡りなど、ちまちま遊んでおりました。今日はその内の美術館巡りの話です。
 標題にある「広重ブルー」は、原宿にある太田美術館の企画展です。「広重が活躍した当時、既存の藍色とは異なる、オランダ舶載のベロ藍(ベルリンブルー、プルシアンブルーとも)が中国で安価に生産されるようになり」、「浮世絵にもベロ藍がさかんに使用され」、「その人気は浮世絵界を席巻し」、「溪斎英泉や葛飾北斎など多くの絵師が次々とこの新しい青色を用いた作品を世に送り出し」ました。「なかでも広重は空や水辺の情景を表現する際、時には大胆に、時には繊細に青色を用いることで作品に豊かな叙情性を盛り込み」ました。今回の展示は、「国内外で人々を魅了し続ける広重の青色」、「その美しさの秘密に迫る展覧会」だということです(以上は太田美術館のHPより)。
 この展示を見るまでは、ブルーと言えば、フェルメールか北斎だとばかり思っていました。10年ほど前、新宿の百貨店で開催されていた北斎展で見た「富嶽三十六景」の青が余りに鮮烈だったからですが、言われてみれば「東海道五十三次」でも青は鮮烈であり、実際に印象派やアール・ヌーヴォーの芸術家に影響を与えた「ジャパン・ブルー」は「ヒロシゲ・ブルー」とも呼ばれるようです。しかし私の思いこみはそれほど間違っていたわけではなく、北斎の「富嶽三十六景」は1823年頃から作製が始まり、1831年から35年にかけて刊行された(Wikipedia)一方、広重が初めて江戸から京都まで東海道を旅したのは1832年で、その往復路に描いたスケッチをもとに翌33年~34年にかけて「東海道五十三次」が作製されたと言われますので、時期はほぼ重なります。そして、40歳近い年の差を越えて、広重は、教えを乞うため、尊敬していた北斎老人のもとをよく訪ねたと言われますので、恐らく北斎老人から「ブルー」の着想も学んでいたことでしょう。
 この「ヒロシゲ・ブルー」についてググっている内に、「藍色工房」という、「自社農園で藍を育て、藍の石鹸や藍染め雑貨を製造販売」し、「日本製の藍顔料を、ある一定量を超えて定期的に精製しているのは、おそらく日本で私たちだけ」と自負される方のブログに辿りつきました。以下は、暫くはその方のブログ(http://aiiro.ashita-sanuki.jp/e544463.html)からの引用です。
 「ベルリン藍」がなまったとされる「ベロ藍」が日本にやってきた最初の記録は1807年(ドイツで発見されてから100年後)で、浮世絵の絵具として一躍有名にしたのは、北斎の「富嶽三十六景」なのだそうです(企画展でも、天保年間の1830年頃と説明されていました)。当時、青色顔料には、植物の藍・露草や、鉱物由来の群青が存在しましたが、植物顔料は退色が速いことが難点でしたし(現に今に残る浮世絵の色の退潮が激しいのはそのせいです)、鉱物顔料の群青(銅が地中で化学変化を起こして青く発色したもの)は僅か60gが米一俵と同じ値段!と高価なため、浮世絵に使用されることは滅多になかったようです。だからと言って、安いからベロ藍に飛びついたわけでもない、と「藍色工房」さんは主張されます。日本人が慣れ親しんできた藍染めの藍色は、藍染めの布でこそ「鮮やか」な色合いが表現されますが、紙にうつされる顔料の藍は「鮮やか」と言うよりは「重厚な」もしくは「しっとりと落ち着いた」青色になり、濃淡を表現しようと、濃い色の部分を塗り重ねると、どうしても重く黒っぽい色になってしまうのだそうです。それは恐らく顔料そのものに含まれる植物由来の灰汁などが特有の濁りとなり、布に染まっているものなら水に通して洗い流して色の鮮やかさを演出することが出来るのに対し、紙ではうなくいかないせいではないかと解説されます。つまり、慣れ親しんできた理想の藍色を紙の上で表現することが困難だったところに、合成故の色鮮やかな青い顔料が持ち込まれたというわけです。
 それからもう一点、「藍色工房」さんのブログでは、ベロ藍が再認識されたのが、ドイツで発見されてから150年以上経ったパリ万博(1867年)の、よりによって日本の浮世絵だったのは何故か、という問いについても解説されています。ヨーロッパの絵画は「油」性で、顔料を油に溶き、布のキャンバスの上に盛って行くという描き方で、絵の具に固着剤として含まれる膠などが酸化して若干の色彩の変化を促してしまうことも珍しいことではない一方、日本の絵画は「水」性で、顔料を水にとき、肉筆や版画で紙に色素をしみこませる描き方で、当然、水以外の不純物を多く含まず、顔料そのものの色合いが紙に再現されるというわけです。
 さらにもう一点、「藍色工房」さんのブログで、当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ、と形容されているのに、大いに合点しました。実際に、当時、来日したイギリス人(後の小泉八雲)が「青があふれている国」と書き記した手紙が今でも残っているそうです。そんな生活をしていたからこそ、絵師が求める青色は、慣れ親しんできた藍染めのさまざまな藍色のバリエーションだったことだろうとも言われますが、まさにその通りでしょう。浮世絵は、絵師と彫り師と刷り師との合作と言われますが、刷り師の技量が藍色のバリエーションを紙の上で見事に再現しているではありませんか。
 かつて、銀塩カメラ全盛の頃、富士フイルムは青を美しく見せるのが特徴であるのに対し、コダック・フイルムは黄色が強いと言われたもので、カメラ小僧としてもその印象を強くしますが、それは日本が四方を(青い)海に囲まれ(その青を映す)川や湖など水資源豊富な島国で(ロンドンの鉛色の空と比べるまでもなく)青空が澄み渡り、日本人が(青い)富士山を自然遺産としてのみならず文化遺産としても主張できるほど崇拝や文芸の対象にしてきた面目、というのは考え過ぎでしょうか(とすると、アメリカは砂漠の大地である黄色への思い入れ?というのも考え過ぎですね)。現に富士フィルムの技術者へのインタビューによると、同社は「人が見たときに心地良い色」を目指し、「撮影した人のみならず、その場にいなかった人が、その写真を見て心地良く見えるような写真をイメージ」していると言います。また、「色再現には3つの項目」があり、「一つめは階調性、二つめは忠実な表現、三つめがその記憶色の再現」で、「これらに加えて安定したオートホワイトバランス」、どれも重要ですが、「特に記憶色と呼ばれる部分を大事にしているのは確か」だとし、「記憶色といってもいろいろな色があるのですが、富士フイルムではマリンブルーやスカイブルーといった青、それから緑、そして肌。この3点に重きを置いて」おり、「青や緑は一般的に彩度が高い色が好まれますから、やや鮮やか目に」していると言います(http://camera.itmedia.co.jp/dc/articles/1308/19/news040.html)。
 今回の企画展では、ベロ藍導入の前・後の色の発展をも示す展示になっており、幕末・明治の頃には、舶来の赤色の顔料が登場し、それまでの浮世絵ではどちらかと言うとワンポイントだった赤系統の色合いが、明治以降は多用されて途端に色鮮やかになることも分かります。その鮮やかさは、現代の私たちのみならず、当時の人々にとっても、ある意味で文明開化の象徴のようにも映ったことでしょうが、見ている内に、ちょっと食傷気味にも感じ、青色中心の世界を懐かしく思うのは気のせいでしょうか。古伊万里の世界でも、浮世絵と時間差はありますが、呉須(コバルトが使われます)で下絵を描き釉をかけた染付の青から、やがて色絵が登場し、華やかになりますが、日本人に馴染みの青の、単調に見えて、実はグラデーションによって深みが増す、いわば幽玄の世界にこそ、つい惹きこまれます。
 藍は、「シルクロードを通って、インドから中国、そして日本へ」と伝わったとされ、「正倉院の宝物の中には、藍染めされた布や糸がいくつも納められ」ており、「奈良時代には既に栽培されていた」ことが文書で確認されるそうです。平安時代に編纂された延喜式には、「藍色が、濃淡の違うたくさんの呼び名で紹介され」、「(濃く青く染めつけることが出来ない)生の葉を用いたとする表記と、『乾葉』すなわち乾燥した葉を用いたとする表記」があるそうです。しかも、「乾葉を用いて『深縹(こきはなだ)』を染めた、とあることから考えれば、すでに(濃く染めるために、現在行われているような)『建て染め』がされていたと考えるのが自然」なのだそうです(http://www.blue-edge.jp/01_history_2.html)。
 先に紹介した「藍色工房」さんのブログで、「当時の日本は、身の回りのものが全て青い、藍染めの生活雑貨があふれていた時代だ」、というのは、あながち誇張ではないのかも知れません。鎌倉時代には藍の濃紺のかち色(勝ち色)として武家に愛好されていた藍染めが庶民に普及したのは、江戸時代の初め頃のことだそうで、野良着やもんぺなどの仕事着で木綿の着物を着るようになったのがきっかけと言われます。「広重ブルー」は、墨ひとつで無限のバリエーションを水墨画に表現したほどの繊細な日本人が、また、藍でもグラデーションを楽しんだ、日本人のモノトーン(今回は青)に対する思い入れの、いわば集大成(あるいは日本人にとっては些細なごく当たり前の選択?)と言えるのではないでしょうか。日本人の色に対する美意識の原点を見つめ直すのもよいと思いました。
 太田美術館「広重ブルー ~世界を魅了した青」、実は既に後期に入りましたが、今月一杯、5月28日までの開催です(なお、前期は4月1日~27日でしたが、見逃しました)。
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ハウス・オブ・ヤマナカ

2013-11-16 23:48:51 | たまに文学・歴史・芸術も
 タイトルに惹かれて、「東洋の至宝を世界に売った美術商 -ハウス・オブ・ヤマナカ-」(朽木ゆり子著、新潮社)を読みました。明治から大正・昭和初期に、日本をはじめ中国・韓国などの美術品を扱う東洋美術商として世界的に有名だった山中商会(ヤマナカ&カンパニー)の、知られざる海外進出から、太平洋戦争勃発とともに敵国資産として接収され解体されるに至るまでを描いた、一企業の盛衰の物語です。子供の頃から図画工作や美術が好きで(好きこそものの上手で、主要五教科より余程成績が良かったものです(苦笑))、「なんでも鑑定団」は始まった当初から欠かさず楽しみに見るほどでしたので、どんな歴史の秘めたるロマンがあるのだろうかと興味津々で読み進めました。
 しかし案に相違して、エンターテイメント性には乏しい本です。そもそも美術の世界は、芸術家は言うまでもありませんが、せいぜいコレクターや美術史学者までが登場人物で、そこでは美術商は縁の下の力持ちでしかなく、表に出ることは滅多にありません。また、古美術商の商習慣から売買記録は残されていないことが多く、取引実態がよく分からないという事情もあります。そのため、海外渡航が不自由な当時にあって世界を股にかけて活躍した、国際ビジネスマンのはしりのような山中定次郎をはじめとする豪快な人物にスポットライトが当てられ、武勇伝が語られるのがせいぜいでした。著者は、アメリカの美術館やコレクターなどの得意客の手元に残されていた手紙や請求書や領収書、さらにはアメリカ国立公文書館に保存されていた、山中商会がアメリカ政府に接収されたときに押収された大量の資料を丹念に読み解きながら、当時の時代背景ととともに古美術商というひとつの業界史を浮かび上がらせます。いわば学術書の趣で、退屈な場面が多いのは事実です。
 そうは言っても、いろいろ発見がありました。
 私がアメリカに滞在していたときに、マサチューセッツ州セーラム(魔女裁判で有名)にあるピーボディー・エセックス美術館を訪れ、膨大なモース・コレクションを目にして驚かされたことは忘れられません。エドワード・S・モースは、明治の初めにお雇い外国人(動物学者)として来日し、大森の貝塚を発見したことで有名ですが、「多くの民芸品や陶磁器を収集したほか、多数のスケッチを書き残し」(Wikipedia)、今でこそJALが就航していますが私が駐在していた頃は直行便が飛ばないボストンから更に車を一時間以上走らせなければならない片田舎に、それこそ当時の日本の街角の看板から、たとえば豪華な雛祭りセットなどの民具まで、今はなき日本らしい日本が切り取られ、いわば冷凍保存されていたのですから。ことほどさように、幕末から明治の混乱期に、まだ貧しかった日本の素晴らしい美術工芸品を発見した裕福な欧米人が、カネに飽かせて買い漁って、場合によっては略奪して、持ち帰ったものが、今我々が目にする欧米の有名どころの日本美術コレクションに繋がるものと、一種の植民地史観で当然のように思い込んでいました。
 しかし、日本でも有名なフェノロサや岡倉天心や林忠正のほか、フリーア、ハヴマイヤー、ロックフェラーなどの海外のコレクターと良好な関係を構築し、東洋美術を仲介した日本人商人の存在があったとは意外でした。彼らの得意客の中には、メトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア美術館、シアトル美術館、シカゴ美術館などのアメリカを中心とする著名コレクションを有する美術館のほか、大英博物館まで手広く、また英国王室やスウェーデン王室に連なる人も含まれたそうです。お蔭で、浮世絵のように、当時の輸出品である伊万里陶磁器の包み紙にして捨てられるような庶民のための漫画が見直され芸術品の域に高められるなど、日本の至宝が散逸から逃れ、ある程度まとまった形で、しかも極めて良い保存状態で残されることにもなりました(参考)。
 こうした美術工芸品は、とりわけ時代背景との関連が興味深い。
 先ずは、さして輸出できる工業製品がない明治初期の日本にあって、生糸や茶のほかに美術工芸品が、輸出に向いているものとして奨励されたというのは、なんとなく理解されるところです。1862年のロンドン万博で初代駐日英国公使ラザフォード・オルコックのコレクションが展示され評判を呼ぶと、流れを探るため、ウィーン万博(1873年)やフィラデルフィア万博(1876)では日本政府自らが出品し、日本ブームを巻き起こします。そうした波を捉えたのが山中商会で、波に乗るだけでなく、折しも経済力をつけ贅沢品を求め始めたアメリカの好奇心を満足させるべく、市場を開拓して行ったと言えるかも知れません。最初は異国趣味だったことでしょう。しかしほどなく日本の美意識の高さと確かな技術に驚嘆し惹かれて行ったであろうことは間違いありません。
 ところが明治も後半になると、質の高い日本の美術工芸品が国外に出回ることは稀になります。日本が経済力をつけるにつれ、社寺や旧家が経済的に困窮して資産処分するような事態もなくなり、逆に日本人自身が茶道具を中心とした美術品蒐集に目覚め、価格が高騰し始めたという事情もあります。その後も、関東大震災とそれに続く昭和金融恐慌で美術品を手放す例がありましたが、1900年代後半以降、とりわけ清朝崩壊に伴う政情不安で中国の美術品が大量に出回るようになると、東洋美術の中に占める日本美術と中国美術の比重は逆転します。
 「東洋の至宝を世界に売った美術商」というタイトルからは、一見、こうした美術商を糾弾する思いが込められているかのように思われますが、著者は、日陰者の存在の美術商に同情的であり、それまで余り知られていなかった東洋美術の普及を陰で支え、いわば戦前のアメリカとの間で民間の文化外交を担ったといったような積極的な価値を認めています。伝統的な芸術の世界は経済的な擁護者(パトロン)の存在が重要であり、古美術の世界も、経済的な強者(強国)に買い占められる運命にあり、美術商の商売は、結果としてそんな国家間の関係に翻弄される運命を辿ります。実証的に山中商会のビジネスを追いかける著者の目は、飽くまでも暖かい。美術史の裏面を知ることが出来る好著と思います。

(参考)「写楽」 http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20110506
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日記

2013-10-04 02:45:30 | たまに文学・歴史・芸術も
 日記は個人的な記録であり、多くは他人に読まれることを想定しません。その意味で、ブログという一種の技術はある種の転換をもたらし、他人の共感を得るために自らの生活の一部を公開するという文化を、職業作家ではない一般人の間に生み出しました。私も日記をつける習慣はありませんでしたが、とりわけ海外生活を通して、とりわけこれからの日本を支える若い人たちに伝えたい思いがあり、正確に言うと、ある年齢を過ぎてから、その思いを伝えたいと思うようになり、細々と続けて来ました。しかし、職業作家となると、話は別です。勿論、私的文書故、生前は公刊を許さなかった作家もいますが、多くは読まれることを期待し、日記文学と呼ばれるカテゴリーが生まれました。ドナルド・キーンさんは、永井荷風、伊藤整、高見順、山田風太郎といった著名な作家の日記の中から、大東亜戦争が始まる1941年後半から、GHQの占領の初年度が終わる1946年後半までの間に描かれた部分を抜粋しながら、当時の日本人が戦争に、ある時は寄り添い、ある時は対峙した様を赤裸々に綴る、「作家の日記を読む」と副題をつけた「日本人の戦争」(文春文庫)をものしておられます。
 いくつかの発見がありました。
 先ずは、ドナルド・キーンさんが、お名前はかねがね伺っていましたが、ケンブリッジ大学や京都大学に留学する前に、米・海軍日本語学校で学んだ後、情報将校として海軍に属し、太平洋戦線で日本語の通訳官を務めておられたとは知りませんでした。具体的には、3年間、押収された文書(中には太平洋の環礁の上や海の中で死んだに違いない兵士や水平の日記)を読むことを仕事とされていたそうです。その関連では、以前、「日本兵捕虜は何をしゃべったか」(山本武利著)という本を読んで、アメリカが、太平洋の戦域において6千人もの日系二世の情報兵を動員し(白人の数は僅かに7百人)、捕虜や遺棄文書から貴重な情報を獲得して、すぐさま前線にフィードバックし、自軍の作戦に役立てるというサイクルを、実にシステマティックに実行していたことを知って、愕然としたことがありました(過去ブログ参照:http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20100902)。ドナルド・キーンさんは、まさにそうした米軍の組織の一員だったわけです。
 それはともかくとして、当時の日記を見ると、未曾有の国難としての戦争に遭遇し、作家たちが、実に様々な反応を見せていたことに驚かされます。中には軍が始めた戦争によって好物の紅茶が奪われたがために軍に反発する永井荷風のような大物もいれば、政府の報道班員として戦地に赴き、戦前はマルクス主義運度に関わりながら、東南アジア諸国が白人の植民地支配から解放されることを心から望む人がいたりします。英文学の翻訳家でありながら、アングロサクソンの列強を破ることが、日本人が世界で最も素晴らしい人種であることを示す好機であると、戦争に狂喜した人もいれば、「日本には正直に政治を語る機会は全くない」と憤慨し、徒に戦争で名誉ある死を煽るマスコミ報道に危機感を募らせた人もいます。挙句は、本書ではほとんど取り上げられませんでしたが、谷崎潤一郎のように、疎開先で食事に困ることがなかったがために目ぼしい日記の記述がないといったような大御所もいます。いずれも当時の日本の知性の反応です。一つ言えることは、我々の目は、戦後GHQの検閲をきっかけとする思想統制を受けて、すっかり曇っていることであり、そのあたりの事情は、江藤淳さんの労作「閉された言語空間」(文春文庫)に詳しいですし、西尾幹二さんは、そうした検閲の結果として、実に7000余点もの戦前・戦中の出版物が焚書されるという、秦の始皇帝の時代に遡るかのような蛮挙の中で、目ぼしい図書を掘り起こし、戦前の日本人の知性と理性を明らかにする丹念な作業を続け、「GHQ焚書図書開封」(徳間書店)というシリーズものを現在も続けておられます。
 また、軍の徴用で中国と満州に派遣され、中国人に対する日本軍部の残忍な行為を目撃した経験から、GHQの寛大さに感服する人もいましたが、武装解除した日本に乗り込んで戦後統治した人たちであれば余裕があるのは当然のことでしょう。戦時中の欧米の軍人が、まるで羊を扱う羊飼いの如くアジア人を扱ったと証言する「アーロン収容所」(会田雄次著)のような書もあります。日本軍は残酷だったという証言をよく聞きますが(逆に、日本軍は極めてストイックで現地人から尊敬されていたという極論もまたよく聞きます)、甚だ怪しい・・・と言うより、どちらも真実でしょうし、人は限られた経験からしか語れない制約があることがよく分かります。それは戦時下の言論統制についても同様で、総力戦のもとでは、日本だけでなく他国でも、多かれ少なかれ戦時統制は行われたでしょうし、とりわけ第一次大戦ではまともな戦闘がなかったがために総力戦に国民全体として不慣れでそもそも真面目な日本にあっては、多少、イビツに行われることがあったとしてもやむを得ない部分はあったのではないかと思ったりします。
 いずれにせよ、戦時下の出版物が、当時の政府や軍部の目を気にしていたのと対照的に、日記という個人的な記録の、その肉声には傾聴すべきものが多いのを感じます。ところが、先ほども触れたGHQの思想統制によるものか(それを察する出版社や編集者の意向か、はたまた戦前・後で価値観がひっくり返ったことによる作家の変節か)、戦後、公刊された日記の中には、時流に沿うように改竄されたものが多いと言いますから、驚かされます。「戦艦大和の最後」(吉田満著)も、GHQの検閲方針に触れて出版が難航し、筆者自身、極めて不本意な形で世に出ることを余儀なくされたと語っていました(過去ブログ参照、http://blog.goo.ne.jp/mitakawind/d/20101028)。
 こうして見ると、図書館の役割について考えさせられます。ベストセラーの待ち行列が出来ている話をよく聞きますし、お年寄りが朝から冷暖房完備の快適な環境のもとで新聞・雑誌を読み耽る姿を目撃しますが、本来、公営の図書館は、どこでも入手可能な最新のベストセラー本や新聞・雑誌を置くべきではなく、商業主義の本屋では扱えないような、日本人の文化・伝統を伝える古典を取り揃えておくべきだと思います。焚書という、僅か65年前に行われた蛮行を受け入れるのではなく、それによって葬り去られた書籍、当時の日本人の知性を読んでみたい。それらが復活されることを、日本人の一人として祈念する・・・ドナルド・キーンさんの本書を読んで、そんなことをつらつら思わせられました。
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68度目の夏(下)

2013-08-21 00:18:05 | たまに文学・歴史・芸術も
 結論から先に言ってしまうと、最近、中国は尖閣問題を領土問題から歴史問題に格上げし、韓国もまた頻りに歴史認識を問うようになりましたが、これは、かつて戦後レジームからの脱却を謳い、今、過去の植民地支配と侵略に「痛烈な反省とお詫び」を表明した「村山談話」を見直し、ひいては憲法9条を含む憲法改正を目指す安倍政権への牽制に他なりません。中・韓が、安倍総理を戦後歴史のリビジョニスト、戦後秩序への挑戦と見立て、欧米とりわけアメリカを味方に引き入れて、憲法改正を阻止する試みではないかと思うわけです。つまり中・韓は憲法9条改正を恐れているのではないか。私のただの妄想ですが。
 堤堯さんの「昭和の三傑~憲法九条は「救国のトリック」だった~」(集英社文庫、原著は、2004年、集英社インターナショナル刊)を読みました。憲法9条と言えば、第一項に「戦争放棄」を謳い、これ自体は不戦条約(1928年)にも見られ、目新しいものではありませんが、第二項の「戦力放棄」は、あの南原繁(貴族院議員、のち東大総長)氏が「人類ある限り、戦争は歴史の現実だ。この現実を直視して、少なくとも国家の自衛権と兵力を備えるのは当然だ」と主張した(後に、自衛隊の創設には反対して、吉田茂から「曲学阿世の徒」呼ばわりされた)ように驚愕を以て迎えられた、いわくつきの条項です。発案者はGHQ総司令官マッカーサーで、天皇制存続と引き換えに「押し付けた」もの、とするのが定説ですが、堤氏は、幣原喜重郎の発案、いわば“入れ知恵”であり、つまりは9条は「詫び証文」ではなく、早期講和=主権回復のために差し出す「非戦の証文」だったと主張されます。幣原を継いだ吉田茂は、「戦争放棄はマックが言い出した」と示唆し、それを盾にして、特使ダレス国務省顧問(後に国務長官)の執拗な再軍備要求を強く拒み続け、結果として、日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済み、軽武装で、経済復興に邁進することが出来ました。その吉田茂はしかし先を見通してこうも述べているそうです。「知恵のない奴はまだ占領されていると思うだろう。知恵のある者は番兵を頼んでいると思えばいい。しかしアメリカが引き揚げると言い出すときが必ず来る。そのときが日米の知恵比べだよ」。更に晩年には「自分の国は自分で守らなくちゃいけません。どうですか、ここらで日本も核武装の一つも考えてみては」と発言して「反動政治家」と叩かれ、「いったん決まったことを変えるのが、これほど難しいとは思わなかった」(「大磯随想」)と、後悔ともつかぬことを呟いているそうです。憲法9条は日米安保と相俟って、日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だったと批判する声が多いのは事実ですが、それは飽くまで後知恵であり、三傑(鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂)にとって、とりわけ憲法9条二項は、日本の真の自立を目指し、敗戦処理外交を真摯に進める中で使った方便、標題にあるように「救国のトリック」であり(トリックをかけた相手は、言うまでもありません、知恵を授けて花を持たせたように見えたマッカーサー元帥その方です)、後世に改めることを託した「当用の時限立法」だった、というわけです。
 憲法改正を巡っては、「押しつけ」憲法だから(無効とまでは言わないまでも)自分たちの手で改正すべし、と主張する改憲論者がいるように、仮に「押しつけ」でも良いものは良いと開き直る護憲論者もいて、不毛な議論になりがちです。ところが、「押しつけ」ではなく、日本人の発案で、主体的に選択したものだったとすると、憲法9条が日本人の「精神の自立」を失わせた負の遺産だという厳然たる事実は変わらないものの、違った視界が開けてくるような新鮮な驚きを覚えます。何より、当時の「三傑」をはじめとする知性と比べ、戦後60年以上もの長きにわたって、同じ敗戦国ドイツは毎年のように憲法改正して来たのに比べ、我が国は一度も憲法を改正しなかった知的怠慢は明らかであり、アメリカによる金縛りに遭ったと言い訳できず、ひとえに国民の責に帰すべき事由に転化されてしまいます。
 こうして、戦後憲法が、日本人の発案で、主体的に選択したものだったことが分かっていれば、先日、麻生さんが、結局、何が言いたかったのかよく分からない講演の中で、辛うじて、「狂騒の中で」「狂乱の中で」「喧騒の中で」「騒々しい中で」「(憲法改正を)決めてほしくない」という、私たちにもなんとか伝わったメッセージ通りに、もう少しまともに実現できていたかも知れません。
 堤さんの本書は、先の戦争の終結を巡る様々のエピソードが満載で興味深い上に、標題の論証は刺激的で、憲法改正論議に複眼的な視点を与えてくれる好著と思います。
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68度目の夏(中)

2013-08-18 14:09:40 | たまに文学・歴史・芸術も
 堀越二郎さんの著作「零戦~その誕生と栄光の記録~」の中にも、当然のことながら、特攻隊の記述が出て来ます。抑制の利いた短い文章ながら、行間に、零戦の主任設計者としての無念の思いが滲んで、胸に迫ります。

(前略)余りにも力の違う敵と対峙して、退くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。また、何もかも戦争のためという生活に疲れ、絶望的になりかけていた国民を励ますように、「ベールを脱いだ新鋭戦闘機」として、零戦の名が新聞その他に公表されたのは、この直後の(昭和19年)11月23日のことであった。(後略)

 この文章のあと、ある新聞社が「神風特攻隊」という本を出版するので、特攻隊を称える短文を書いて欲しいと頼んだ各界10人に選ばれて、苦悩の末に寄稿される経緯が説明されます。あのご時勢ですから、書くことには制約があります。その一部を紹介しながら、次のような言葉で結んでいます。

(前略)私がこの言葉に秘めた気持ちは、非常に複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、本当に成すべきことを成していれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。(後略)

 手塩にかけて育て、かつては向かうところ敵なしの「名機」と称えられた零戦が、ろくに活躍の場を与えられることなく、パイロットとともにある時は敵艦船に突入し、またある時は海の藻屑となって散って行く姿は、想像するだに哀しいことだったでしょう。アメリカはこの特攻を狂気の沙汰と恐怖したと言われますが、私たち日本人は武士道を知るが故に、僅かながらも理解の範疇にあります。それだけに、堀越二郎さんには、私たち以上に遣り切れない思い、空しさが強かっただろうと思います。日本人としてむざむざと、ただ白旗を挙げて負けるわけにはいかない、特攻はいわば負けるための儀式のようなものだったのではないかと、私は今にして日本人の性(サガ)を哀しく思います。無論、やり場のない憤りはありますが、それを押し殺して、死に向かう者たちが残された者たちに残す、無言ながら強烈なメッセージ性を感じ、良くも悪くも日本人であることの性を哀しく思います。
 ジョージタウン大学のケヴィン・ドーク氏は、中国が日本の政治家の靖国参拝に反対するのは、公式には「軍国主義の復活」を理由に挙げますが、そうではなく、日本人のもつ宗教や信仰の力を恐れているからではないかと述べています(Voice 8月号)。

(前略)中国が反対する真の理由は、信仰の力によって日本人が一つに結束することです。靖国神社の性質についてはさまざまな見方がありますが、神道という信仰には精神的な側面、目に見えないような力があります。そうした力を、一党独裁の中国共産党は恐れているのではないでしょうか。(後略)

 そして、アメリカ国務省が、毎年、世界の宗教について報告書を出しており、宗教弾圧する国の上位にいつも中国が入っていることからも分かる通り、中国には、法輪功やチベット仏教だけでなく、あらゆる宗教を体制の脅威とみなす、「宗教に対する恐怖症(phobia)」があり、唯物史観と無神論を唱える共産主義の思想と関係があると分析されています。
 果たして今の中国にどこまで共産主義思想が残っているのか疑問ですが、少なくともドーク氏の分析は、当のアメリカ人にも当てはまるのではないかと思います。アジアで唯一植民地になることを免れ、開国後50年で当時の先進国のロシアを破って五大国に登りつめ、零戦を産みだす合理性にあふれた科学・技術力を有しながら、特攻を許容する精神主義を併せ持つこと自体、東洋の神秘そのものです。だからこそ、アメリカはGHQの戦後改革の中で日本解体を企図し、国の基本法である憲法を書き換えただけでなく、民族のアイデンティティを育む歴史すらも書換え、さらに当面の統治のために天皇を利用しながら、皇族を昭和天皇の兄弟に限定することによって皇統を危うくせしめたのでしょう。端的に、アメリカは、日本を敵(冷戦時代のソ連や、現代の中国)に渡したくない、しかし自立もさせたくない、ために、今もなお沖縄をはじめ首都圏の空域まで、半占領状態を続けているのでしょう。
 そんなことをつらつら思いながら、15日の靖国参拝の報道、つまり翌16日の各社の社説を読んでみると、複雑な思いに囚われます。最右翼と言ってもよい産経新聞は、「首相が参拝しなかったのは残念だが、春の例大祭への真榊(まさかき)奉納に続いて哀悼の意を表したことは評価したい。首相は第1次政権時に靖国参拝しなかったことを『痛恨の極み』と繰り返し語っている。秋の例大祭には、国の指導者として堂々と参拝してほしい。」と述べました。相変わらず勇ましい。片や最左翼と言ってもよい朝日新聞は、「(安倍首相の参拝)見送りは現実的な判断と言えるだろう。首相が、過去とどう向きあおうとしているか。中韓のみならず、欧米諸国も目を凝らしている。靖国問題だけではない。先に首相が『侵略の定義は定まっていない』と、日本の戦争責任を否定するかのような発言をしたことなどが背景にある。対応を誤れば、国際社会で日本の孤立を招く。そのことを首相は肝に銘じるべきだ」と述べた上、全国紙(朝日・毎日・読売・産経・日経)の中で、唯一、「政府主催の全国戦没者追悼式で、首相の式辞からアジア諸国への加害責任への反省や哀悼の意を示す言葉が、すっぽりと抜け落ちた」ことを批判しました。「気になるのは、式辞からなくなった言葉が、植民地支配と侵略によって『アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた』という95年の村山首相談話の表現と重なることだ。首相はかねて村山談話の見直しに意欲を示している。そうした意図が今回の式辞に表れたとするなら、とうてい容認できるものではない。(中略)歴史から目をそらさず、他国の痛みに想像力を働かせる。こんな態度が、いまの日本政治には求められる」と結んでおり、まるで言い回しを柔らかくした中国・人民日報か環球時報のようです。
 勿論、さまざまな意見を表明できるのは、お隣の中・韓とは比べようもない、自由な社会の証拠であり、有難いことですが、68年を経てなお、あるいは冷戦崩壊後24年またソ連崩壊後22年を経てなお、東アジアだけでなく日本という国内にいわば冷戦状態が続き、国のありように迷いがある上、近隣諸国に利用されかねない状況は、必ずしも好ましいものではありません。次回はこの元凶とも言える憲法9条について書きたいと思います。
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68度目の夏(上)

2013-08-16 02:35:14 | たまに文学・歴史・芸術も
 映画「風立ちぬ」はまだ見ていませんが(暑さですっかり出不精です)、主人公・堀越二郎さんの「零戦~その誕生と栄光の記録~」(角川文庫、原著は1970年3月カッパブックス刊)を読みました。零戦の主任設計者として、限りある資源の中で相反する性能実現の要求を突き付けられながら、苦悩と不屈の精神の末に、世界に冠たる「名機・零戦」に結実していくプロセスが切々と綴られます。その中にこんなくだりがあります。

(前略)技術者の仕事というものは、芸術家の自由奔放な空想とは違って、いつも厳しい現実的な条件や要請がつきまとう。しかし、その枠の中で水準の高い仕事を成し遂げるためには、徹底した合理精神とともに、既成の考え方を打ち破って行くだけの自由な発想が必要なこともまた事実である。(中略)私が零戦をはじめとする飛行機の設計を通じて肝に銘じたことも、与えられた条件の中で、当然考えられるぎりぎりの成果を、どうやったら一歩抜くことが出来るかということを常に考えねばならないということだった。思えば零戦ほど、与えられた条件と、その条件から考えられるぎりぎりの成果の上に一歩踏み出すための努力が、象徴的に表れているものは滅多にないような気がする。(後略)

 描かれているのは、技術者の苦悩と喜び、そしてつまるところは矜持であり、その背後には、「まえがき」にあるように、資源に乏しい我が国が「技術の水準も、それを支える人の数も、まだまだ十分とは言えない。そのような日本にあって、これからの若い世代が、たんに技術界だけでなく、すべての分野で日本の将来をより立派に築いていくために、誇りと勇気と真心をもって努力されることを念願」する思いがあります(念のため、1970年当時のことです)。その神髄は本書を読んで頂くことにして、零戦という、まさに当時の日本を象徴するような存在を産みだした一人の、しかし飛び切り優秀な技術者が横目で眺めた大東亜戦争における日本のありように、ちょっと注目してみたいと思います。
 零戦は、間違いなく世界に冠たる「名機」でした。こんなエピソードが紹介されています。開戦後、オーストラリア、ニュージーランド、ジャワなどに分散していた日本人約3,000名がオーストラリアのキャンプに収容された際、キャンプの監督将校たちは、三菱商事の社員4名に対し、三菱重工と三菱商事の区別をせず、ただ「三菱」という名前だけで、「君たちは、あの強いゼロ・ファイターを製作している三菱の社員だろう」という尊敬の眼差しで接し、敵ながら天晴れだと言わんばかりに、精神的な礼遇をしてくれ、そこには報復的な憎悪感は全く見られなかったそうです。もっとも、開戦当初で、泥沼の戦争の悲惨を味わう前の、やや呑気でお気楽な気分が感じられますし、職業軍人だからこそ分かる世界もあるのでしょう。
 確かに、開戦以来、日・米の量的な差は明白で、量的な劣性を質的な優性で跳ね返す戦法でなんとか凌いでいた日本軍でした。しかし、まさに開戦初期、アリューシャン作戦に参加し無人島に不時着した殆ど無傷の零戦一機をアメリカが入手してから、零戦の運命は変わり始めます。アメリカのパイロットたちは、当初、「退避してよいのは、雷雨に遭ったときと、ゼロに遭ったとき。ゼロとは絶対に一対一の格闘戦をするな」という指令が出されたほど、謎の飛行機と言われた零戦に、飛行試験を含むあらゆる角度からの調査を施し、その長所と短所を完全に知るに至り、率直に零戦の優位を認めたアメリカは、零戦から制空権を奪う新しい戦闘機と、日本国内の生産活動にとどめを刺す戦略爆撃機の完成に技術開発力を集中し、それ以外の中間的な機種を新しく開発するのを中止した形跡が歴然としてたといいます。片や技術マンパワーに劣る日本こそ、挙国一致の重点政策に切り替えるべきだったのに、開戦から二年経っても、航空機開発には、依然、総花主義が行われ、こうした技術政策の不味さが、初めから終わりまで零戦に頼らざるを得ない事態を招き、ひいては日本軍の決定的敗北に拍車をかけていったと見ます。
 そもそも日本は、先進国に比べてエンジンの馬力が常に2~3割少ないにも係らず、飛行機の性能で張り合って行かなければならないため、数々の要求の内から正しい優先順位を見つけ出し、その順位によって飛行機を具体化して行かなければならない運命にありました。例えば防弾は、爆撃機と違って、零戦のような戦闘機では、飛行機の性能とパイロットの腕である程度補うことが出来るため、優先順位が低く、防弾に費やす分だけでも重量を減らして運動性を良くし、攻撃力を増すほうが有利でした。ところが、ある時から、すなわちパイロットの熟練度が低く(名パイロットが失われたせいですが)、しかも量と量とで戦う場面が多くなるにつれて、防弾の必要性が説かれるようになったといいます。
 また、零戦の生産は、終戦の日まで6年間続けられ、三菱、中島両社で合わせて10,425機に達しましたが、終戦前年11月迄は、三菱の工場だけで月産100機を下らなかった生産は、終戦前月には僅か15機がやっとという状態だったそうです。飛行機生産の最大の支障となるのは原料の補給(燃料のガソリンの原料である石油と、機体に使うアルミ合金に欠かせないボーキサイト)であり、敵潜水艦によって南方からの原料の輸送が遮断されるようになったこと、マリアナ陥落後、アメリカの一大基地が出来て、B-29による本格的な本土空襲が始まり、飛行機生産だけでなく、あらゆる活動が不自由になったこと(その後、重要工場も緊急分散発令が出されました)、そして、終戦前年の12月7日、東海地方に死者1千人も出るような大地震が起こり、三菱の工場も一部崩壊し、悪い時には悪いことが重なるものだと述べておられます。
 大東亜戦争において零戦が全てではありませんが、南方戦線では極めて重要な一翼を担い、その趨勢には貴重な教訓が込められているように思います。つまり、今さらながらではありますが、日本は、資源に制約があること、そのロジスティクスが重要であること、そして資源の制約を乗り越える技術力が生命線であること。これらを克服することが国家の存命の基本になければならないように思います。そして世界の潮流として(その時の世界とは欧米を中心とするものですが)平和を希求するのは素直な感情であり、その場合、価値観を同じくする世界と仲良く付き合っていくことが絶対的に必要な条件ですが、地域を眺めると、それとは明らかに異なる価値観を抱き、覇権を目指す隣人がいる現実を見逃すわけには行きません。68度目の終戦記念日あるいは原爆記念日を迎え、戦争は今さら起こって欲しくないですし、原爆のような大量破壊兵器には今もなお憤りを覚えますが、だからと言って、原発やオスプレイ配備に素直に反対することにも抵抗を覚えざるを得ません。そこが東アジアという価値観が違う国が混在する地理の難しさなのでしょう。本当に悩ましい。
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ブリヂストン美術館

2013-05-30 23:48:55 | たまに文学・歴史・芸術も
 「Paris、パリ、巴里 ─ 日本人が描く 1900–1945」と題する企画展を見ました。明治維新以降、西洋文化に憧れ、追いつき追い越すことを目標としていた日本人画家が、初めて大挙して訪れた5回目のパリ万博から第一次世界大戦までの時期(1900~1914)と、戦勝国となった日本が経済発展を背景にして、画家の渡仏を再開し飛躍的に増加した1920年代から第二次世界大戦までの両大戦間期(1918~1945)との二つの時期に分けた展示で、初めの内は、確かに西洋美術を学びとろうとする健気な姿勢やある種の意識の昂揚が前面に出ているのが感じられたのに対し、やがて、西洋美術を取り入れながらも新たな個性として昇華する、藤田嗣治や佐伯祐三のような伸びやかな筆が現れたのを感じ、時代の流れをうまく捉えた構成になっていることに感心しました。
 しかし、ブリヂストン美術館で驚かされたのは、象徴派をはじめとする常設展の方でした。コロー「森の中の若い女」、モネ「黄昏 ヴェネツィア」「睡蓮の池」、セザンヌ「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」、モディリアーニ「若い農夫」、ピカソ「女の顔」「腕を組んですわるサルタン・バンク」「ブルゴーニュのマール瓶、グラス、新聞紙」、マリー・ローランサン「二人の少女」など、中学生の頃、誰もが美術の教科書でお馴染みだった絵に、再び出会えてびっくりすることでしょう。あぁ、あれがこれか・・・と、常設展ながらその数と、数だけではない品質の高さに圧倒され、大原美術館の大原孫三郎に、自身がパトロンとしても援助していた洋画家・児島虎次郎がいたように、石橋正二郎にも余程の目利きがいたであろうことを想像させるほどの充実度です。
 僅か800円の入場料ですから、たとえ企画展に満足しなくても、常設展には満足すること請け合い・・・何かの機会に是非、訪れてみて下さい。今回の企画展は6月9日までです。
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クラーク・コレクション

2013-05-14 23:41:43 | たまに文学・歴史・芸術も
 連休中、三菱一号館美術館で開催中の「クラーク・コレクション展」を、また損保ジャパン東郷青児美術館で開催中の「オディロン・ルドン展」を見ました。
 「クラーク・コレクション」は、シンガー・ミシンの共同創業者の孫であるロバート・スターリング・クラーク氏が、相続した莫大な遺産を元手に、パリのコメディ・フランセーズの女優だった妻フランシーヌさんとともに、欧米で収集したコレクションで、印象派を中心に500点を越えるそうです。この美術館は、ニューヨークやボストンから車で三時間、マサチューセッツ州の西の果て、州境にあるWilliamstownという小さな街にある・・・と聞いて、大いに心を動かされました。ボストンに駐在していた15年ほど前、車で2時間以上かけて、紅葉見物に訪れたことがあったからです。しかし美術館の存在には気が付きませんでした。インターネットが今ほど普及しておらず、カーナビなどという便利な機械もなく、地図を片手に、うろうろ迷いながら目的地を目指していた時代です。人影もない公園で、3歳の子供を遊ばせた長閑な写真が僅かに手元に残るだけです。
 閑話休題。スターリング・クラーク氏がパリにわたったのは1910年、間もなくフランシーヌさんと出会い、16区に構えたアパルトマンを飾るため、絵画の収集を開始したのが1911年、と言いますから、ルノワールが亡くなる8年前、モネが亡くなる15年前で、主だった印象派の画家たちの一部はまだ存命の頃のことです。勿論、彼ら夫妻の審美眼によるものですが、今ほど注目されていなかったであろう幸運な時代に買い漁ることが出来た、30点以上に及ぶルノワールのコレクションの内の22点をはじめ、コロー、ミレー、マネ、ピサロ、モネ、ロートレック、ボナール等、61作品が、ここ三菱一号館美術館に展示されており、個人のコレクションとしての充実度には目を見張り、壮観ですらあります。
 あらためて印象派絵画の明るく柔らかな色調は、見ていて心が和みます。多くの日本人に愛されてきた所以です。当時の大国・フランスの首都パリには恐らく多くの金と人が惹きつけられたことでしょう、互いに啓発し合いながら、やがて印象派という一大ムーブメントを起こします。写実主義から抽象主義への変化の、初期段階と考えられていますが、印象派の発展には、いくつかの出来事が影響していそうです。一つは1827年に発明された写真で、かつての肖像画は正確に描かれるのが重要だったため、写真に置き換えられていくわけですが、印象派の肖像画は正確さよりイメージが優先されており、いわば広角レンズで撮影されたシャープでありながら平板な写真ではなく、望遠レンズを使って引き付けて撮影されたソフト・フォーカスのポートレート写真の如く、ピントを合わせたかのように狭い範囲が丁寧に描き込まれている(それ以外はぞんざいな描き方になっている)のが分かります。もう一つの出来事はジャポニズムとの出会い、すなわち1867年と78年にパリで開催された万国博覧会で広く紹介された日本画の空間表現や浮世絵の鮮やかな色彩感覚で、日本に残っている浮世絵の多くは、長らく注目されてこなかったせいか保存状態が悪く色褪せてしまっていますが、欧米で大切にされてきた浮世絵コレクションは今もなお色鮮やかなものが多く、当時の感動の一端を伝えます。
 素朴で、光に溢れた柔らかな印象派に比べると、損保ジャパン東郷青児美術館のオディロン・ルドンは、幻想的で影が多く、刺々しいのが心を逆撫でます。面白いことに、ルノワール(1841~1919年)とオディロン・ルドン(1840~1916年)の生きた時代はぴったり重なるのですが、画風の対照的なことといったらありません。いい加減、気が重くなって、最後に損保ジャパン美術館が所蔵する自慢のゴッホ「ひまわり」とセザンヌ「りんごとナプキン」とゴーギャン「アリスカンの並木路、アルル」と東郷青児「望郷」が出迎えてくれて、ほっとしたのが正直なところでした。決して「ひまわり」も「りんごとナプキン」も「アリスカンの並木路、アルル」も「望郷」も、私の好みとは言えないのですが。
 「クラーク・コレクション展」は今月26日まで、「オディロン・ルドン展」は来月23日まで開催されています。
 上の写真は、三菱一号館美術館の中庭です。印象派の画家はどう見ただろうかと思うような、緑が萌える長閑な一日でした。
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