風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

これがアメリカ~大らかさ

2017-11-11 07:55:11 | 永遠の旅人
 いまアメリカ出張中で、主(トランプ大統領)が外遊中で不在のワシントンDCにいる。彼の訪日報道のとき、この時期のワシントンDCは氷点下になることもある・・・などと聞いていたのにもかかわらず、荷物を減らすためにコートを持って来なかったら、案の定、寒さに震えている。天気予報によれば華氏30度台・・・ということは摂氏5度以下で、周りは皆、もう冬支度である。
 今回はダラス経由で入った。最近はアメリカ訪問者にはESTAというビザもどきの取得が義務付けられており、入国にあたって機械で到着確認の入力をした上で、通常の入国審査に入るので、二度手間になる。ESTAでは、パスポート番号や誕生日や連絡先のほか、両親のフルネームまで書かされて、丸裸・・・これが911以後のアメリカの現実なのだろう。しかも審査官が少なくて長蛇の列なのに、まったくお構いなしなのも、日本で観光客誘致にこれ努めているのと対照的で、来たかったらおいで・・・程度の扱いなのが、なんだか哀しい。1時間半もかかって、まわりにいた日本人の中には国内線乗り継ぎに間に合わないと騒いでいた人が何人かいた(が、国際線と違って国内線は待ってくれない)。
 タクシーを拾って、子会社に向かったのだが、運ちゃんは地図が頭に入っていなくて、だからと言ってカーナビを入れているわけでもなく、オフィスがあるのはあの辺りかこの辺りだと言い放って、実にいい加減に車を走らせる(だからといって、アメリカは密集していないので、だいたい外れることもない)。仕方なく、プリントアウトして持って来た地図を取り出して(そういう私はいまだにガラケーである)、道案内する羽目になった。おいおい、5年ぶりに来た外国人に案内させるのかよ・・・とも思うが、何ら悪びれる風はない、いい加減なところもいかにもアメリカである。
 ほんの2時間の滞在で、再び空港に戻り、昼食にサンドイッチとスムージーを頼んだら、ビッグ・サイズなのが懐かしく、アメリカに来たことを実感する。その後、ワシントンDCまでのフライトの3時間弱は、身体にとっては深夜を過ぎて明け方ということもあり、死んだように眠りこけた。空港からホテルに向かうタクシーでトラブルに見舞われ(これについては稿をあらためる)、部屋で落ち着いたのは夜11時を回ってしまい、ルーム・サービスを頼むほどの食い気もなく、ロビーのバーで軽くつまもうと下りてみると、もう食事の提供は終わっていて、仕方なくツマミを頼むと、日本では灰皿程度のナッツが丼にてんこ盛りで出てきて、ビールはサイズのチョイスはなく大ジョッキで、腹いっぱいになる、これがアメリカなのだ・・・。
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エアーズ・ロック

2017-11-07 00:42:10 | 永遠の旅人
 最近は先住民アボリジニの呼び方にならいウルルと呼ばれることが多いが、その世界で二番目に巨大な(一番はやはりオーストラリアで、西オーストラリア州にあるマウント・オーガスタス)一枚岩への登山が、再来年10月26日から禁止されることが決まったらしい。
 ご存知の通り、オーストラリア大陸と言うべきか巨大な島と言うべきか、そのど真ん中にヘソのように鎮座するウルルは、古来、アボリジニにとっての聖地で、ネイティブ・アメリカンに対するのと同様、地元の少数民族の権利を尊重する時代の風潮の中で、周辺から商業施設は蹴散らされ、ホテルも随分離れたところに追いやられるなど、規制がどんどん厳しくなっているのは聞いていたが、いよいよ・・・という思いだ。
 シドニーに駐在していた2009年春、既に帰任することが決まって、最後の旅行に、ひと通りフライト(カンタスのみの運行で、やたら高額だったのは特別価格なのだろう)やホテルやレンタカーを予約したところ、あれよあれよという間に豚インフル(swine fluと呼ばれていた)が流行り始め、人が集まる観光地だからどうしたものかと思い悩んで、相談した現地人の同僚(奥様が医療関係に従事されていた)から手洗いの消毒液を分けて貰い、慎重に慎重をかさねて決行したのが、今となっては懐かしい。当時、下の子が小学校低学年だったので、山頂まで往復するのに2時間以上かかると聞いて諦めたのだったが、逃した魚は大きい・・・というのが正直な気持ちだ。
 あたりは見渡す限りの砂漠地帯で、いくつかのホテルの灯り以外に何もなく、漆黒の闇に満点の星空は、アボリジニではなくとも神聖な気持ちになったものだった。昼の間にウルルや近所のカタジュタなどの巨大な奇岩の間をさんざん歩き回って、粘土質の赤土に薄っすらと草が生える程度の生命感の無さを思い知っていたものだから(それはおよそこの世=地球とは思えない、まるで火星でも徘徊しているような錯覚に囚われた)、なおのこと不思議な感覚に包まれたのだった。
 懐かしい写真をひっぱり出してみた。中央の登山道に延々と手すりの鎖が張られ、その先の空との境界に白い点のように見えるのは人なのだが、その大きさが分かるだろうか。
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上海の旅(後編)

2017-01-14 13:55:08 | 永遠の旅人
 ネット配信された中国の空母「遼寧」の写真を見たが、練習艦とは言えなかなか勇ましいものだ。なにしろ排水量6万7500トン、全長305メートルと巨大で、中国当局はさぞ誇らしいことだろう。台湾当局はピリピリしている。
 これは遡ること先月24日夕、自衛隊艦船が確認した、東シナ海中部における、中国海軍の航空母艦「遼寧」1隻、ミサイル駆逐艦3隻、ミサイルフリゲート2隻、ミサイルコルベット1隻、総合補給艦1隻からなる編隊の航行に始まる。翌25日、「遼寧」の編隊は、第1列島線(九州~沖縄~台湾~フィリピン)上の宮古海峡を越えて初めて西太平洋に進出した。その後、台湾の東部を回り込むような形で翌26日にバシー海峡を通過し、海南島の海軍基地に寄港し、南シナ海で艦載機・殲(J)15戦闘機の発着艦訓練を約10日間にわたって行ったらしい。この往復の行程で、台湾本島をぐるりとほぼ一周した形になる。
 このことからも分かる通り、トランプ氏が台湾・蔡英文総統と電話会談し、中国と台湾の「一つの中国」に疑義を表明していることに激怒した中国は、米国を牽制するとともに(米国を威嚇するわけにはいかないから)台湾を威嚇したものと見られている。日本の防衛省も、端的に(海軍力の象徴である)空母の遠洋展開能力誇示を狙ったものと分析した。そして、忘れた頃に・・・1月11日、「遼寧」の編隊は南シナ海での訓練を終えて台湾海峡に進入、海峡中間線の中国大陸側を北上していることが台湾国防部によって確認された。母港の山東省・青島へ帰還の途に就いたようだ。
 このときの動きから、もう一つのメッセージを読み取る見方がある。実のところ「遼寧」は南シナ海で実施した艦載機の発着艦訓練を西太平洋では実施することなく、米本土から西太平洋に向かっていた米原子力空母カール・ビンソンを中心とする空母打撃群が到着する前に海域を離れ、“ニアミス”を回避した。艦載機の数や性能などで大きく劣る米空母との対峙を、更には米国への直接的な挑発となるのを避けて自制したというものである。一連の航海で、高度な技術が求められる夜間の発着艦訓練も行われなかったという。中国は初の空母「遼寧」の艦隊が実戦的な訓練を行っていると強調するが、「遼寧」についてこれまで指摘されて来たように所詮は練習艦であり、その実力は甚だ怪しい。就役した2012年当時は、「張り子の虎」だと嘲笑されたものだった。その後は語られること少ないが、改良が加えられてそれなりにまともなカタチになったのか、周辺国としては脅威としてそっとしておいた方が軍事予算を使う口実が出来て都合がよいのか。
 実に30年以上前に起工されながらソ連崩壊で建造が中断していた空母「ヴァリャーグ」を、マカオの企業が海上カジノに使用すると言ってスクラップ同然でウクライナから購入したのは1998年のことだった。しかしマカオの港は水深10メートル程しかないため、マカオでカジノに使用されるわけはなく、6万トン級の大型艦はそのまま大連港に入った。装備を取り外した状態で引き渡されたため、蒸気タービンによる動力システムの修復すら難航したという。しかし空母自体を取り繕ったところで、空母の戦闘力は艦載機の性能によるところが大きい。戦闘機・殲(J)15は、こちらもソ連崩壊時にウクライナに残されたSu-33の試作機「T-10K」を購入しコピーしたもので、出力不足が指摘される上、「遼寧」には艦載機を蒸気の力で打ち出すカタパルト(射出機)がなく、搭載武器の重量も制限されるようだ。パイロットの訓練の精度からみても複雑な運用は困難だろうとの専門家の声もある。主力の戦闘機だけではなく、艦載の空中給油機や空母の目となる早期警戒機もないと言われる。さらに空母は単艦で作戦行動するわけではなく、空からの脅威を排除するイージス艦などの防空艦や、潜水艦を寄せ付けない高度な対潜能力(ASW)を持つ護衛艦艇も随伴する。米海軍はこれらの運用に、既に80年の実戦経験があるが、当然のことながら中国海軍のこうした能力はこれからで、その筋の専門家によると5年や10年はかかるものだと言う。
 前置きが長くなったが、アリューシャン列島から日本列島、さらに台湾、フィリピンへと繋がる島々によって太平洋への海洋進出を阻まれる中国にとって「核心的利益」の第一は(2009年7月の米中戦略経済対話において戴秉国国務委員が語ったところによれば)「国家主権と領土保全(国家主権和領土完整)」であり、その第一は「台湾」問題であり、第二は「一つの中国原則」とされている(続いてチベット独立運動問題、東トルキスタン独立運動問題、南シナ海問題(九段線・南海諸島)、そして尖閣諸島問題)。因みに核心的利益の第二は「国家の基本制度と安全の維持(維護基本制度和国家安全)」であり、第三は「経済社会の持続的で安定した発展(経済社会的持続穏定発展)」だそうだ(相変わらずWikipediaでは第一と第二の文言の中国語原文が逆になっている)。
 タイトルに言う「上海の旅」とどう関わるのかと言うと、行きも帰りも上海・浦東空港を使ったのだが、国際線ターミナルに「International & Hong Kong, Macau, Taiwan Departures」と書いてあることに、今回、初めて気がついたのだった(上の写真参照)。香港とマカオは一国二制度の対象地域ではあるものの今や中国の一部だが、台湾もそうだとさりげなく主張しているのである。さすがに何でもありの中国でも、香港とマカオと台湾を国内線ターミナルに移すところまでは行っていないのは、中国人なりのバランス感覚!?だろうか。
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上海の旅(前編)

2017-01-11 00:16:43 | 永遠の旅人
 三連休の二日間を使って二泊三日で上海に出張し、先ほど戻ってきた。相変わらず空港とホテルとオフィスを往復するだけの忙しない旅で、しかもカンパニー・カーを出してもらって移動することになると、安心し切ってぼんやりしてしまって、殆ど記憶に残らないところだが、あらためて、何かと中国品質を考えさせられた旅だった。
 一つ目、一応、高級な部類に入るホテルに備え付けのドライヤーは中国メーカー品で、まさかなあと、いやな予感を抑えつつ使い始めると、動きが鈍く、冷風しか出ず、その内、止まってしまった。暫くお休みして貰って、再びスイッチを入れると、動きが鈍く、冷風しか出ず、その内、また止まってしまった・・・。温風ではないと、ふんわり感が出ないことに気が付いた。なんだかなあ。
 二つ目は、現地で開発・製造・品質管理をしている同僚から聞いた話である。日本メーカー品と言えども、中国ではそれほど高品質なわけではないという。どういうことかと聞くと、例えば日本の家電メーカーの中国工場では、同じ製品モデルでも日本向けと地元・中国向けとでは、ご丁寧に型番を変えて品質レベルを変えているというのである(為念、中国などの新興国向けモデルのことを言っているのではない)。まあ、言われてみれば日本品質を中国で売ろうとしてもそれほど数が出ないだろうことは想像がつく(それでも中国メーカー品よりは高品質だろうが)。どうりで炊飯器だの化粧品だのウォシュレットだのの爆買いに向かうわけである。彼ら・彼女らは、中国では買えない「日本製」の日本メーカー品を求めていたのだ。今さらながらではあるが。そこでその同僚に、日本と中国とではどこが違うのかと尋ねると、極めるところだと言う。そしてそれは長年の蓄積によるのだと言う。確かに中国は、設計図は(盗んででも)入手するから、何でも作れるが、信頼性を伴わないと言われる。人民解放軍の艦船や航空機に日本製電子部品が使われているのを、これではいざというときに困るではないかと人民日報だか環球時報だかが指摘し、はしなくも人民解放軍の弱点を暴露して注目されたことがあった。
 三つ目は、言わずと知れた大気汚染だ。今回の上海の街並みがぼんやり霞んだ様は、やはり異様だった。現地駐在員はアメリカ合衆国環境保護庁(EPA)が発表する空気汚染指数を使った「リアルタイム大気質指標(AQI:Air Quality Index)」なるサイトをチェックするらしく、このサイトによると今朝の上海の指数は158、ホテルの部屋から撮った近隣の景色はご覧の通りである。151を超えると“unhealthy”ということだ(参考までに0~50はGood、51~100はModerate、101~150はUnhealthy for Sensitive Groups、201~300はVery Unhealthy、301以上はHazardous)。Wikipediaによるとこのレベルの「健康影響」は「心疾患や肺疾患を持つ人、高齢者、子供は、長時間または激しい活動を中止する必要がある。それ以外の人でも、長時間または激しい活動を減らす必要がある」ということだが、上海の街でマスクをした人は殆ど見かけず、皆、普通に歩いていた。そして今、都内の私が住んでいるあたりを検索すると僅かに5~13程度である。今の中国を比すべき1970年代の日本も公害が酷かったが、それでも今の中国ほどではなかっただろう。それとも私たちは敏感に過ぎるのか。それは神経質なだけなのか、それとも耐性がなくなってしまってはいまいか。そのあたりは気になるところではある。
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アジア紀行(下)マニラ

2016-09-01 23:25:26 | 永遠の旅人
 一昨日に続き、今宵はマニラ編である。
 フィリピンでは、小一時間のプレゼンを行ったのだが、失言をしてしまった。何かの拍子に、「南シナ海South China Sea」と発言すると、すかさず会議室の奥から「フィリピン海Philippine Sea」と訂正を求める声が飛んだ。えっ、ゴメンね、と謝りながら、確かにそういうこともあるかも知れないと自らを納得させ、その場はやり過ごしたのだが、後で調べてみると、正確にはフィリピンでは「南シナ海」のことを「西フィリピン海」または「ルソン海」と呼ぶようだ。「フィリピン海」とは太平洋の付属海で、日本、台湾、フィリピン、ミクロネシアに囲まれた海域のことを言うようだ。とまれ、主権にかかわる問題が論理を超えるのは何処も同じだ。因みに、フィリピン同様に中国との間で領域問題を抱えるベトナムでは、「南シナ海」のことを「東海」と呼ぶようだ(そう言えば韓国も「日本海」のことを「東海」と呼ぶ)。フィリピンにしてもベトナムにしても、地理的に、自分たちにとって明瞭に議論なきよう簡潔に、表現している。
 マニラを訪れたのはここ数年内に三度目だったが、地元フィリピン料理になかなかありつけない。今回も、昼はイタリアン、夜は和食居酒屋だった。
 今回の出張は、またしても在シンガポールのアジア大洋州地域統括会社に駐在している日本人とずっと一緒で、土曜日朝、ホテルが呼んでくれたタクシーに乗って、空港にも一緒に向かった。乗る前にタクシーのメーターを作動させたのだが、陽気なフィリピン人運転手は、「二人の目的地が違うのでターミナルも違う、だから料金は高くなる」などとワケの分からないことを言い出し、「500ペソくれ~」と吹っかけてきた。吹っかけると言っても、数百円程度のことだから目くじらを立てる話ではない。アジアには古くから対面相場なるものがあって、金持ちは貧乏人より多く払うものだとも聞いている。しかし、こうした話に安易に乗ると、自分一人にとどまらず、今後ずっと日本人旅行客は(値段の多寡にかかわらず)吹っかけられ続けることになりかねないので、「何が変わるものか、メーターに従って払うだけだ」と突っぱねた。昼日中でもあり、男二人だったからでもあるが、変なことをされても困るので、「しかし快適に感じたら、ちょっと大目に払ってもいい」と言い添えるのを忘れなかった。そして後部座席に座りながら、日本人駐在員と、単に「陽気なフィリピ―ノ」だといいけど、「ちょっと壊れたヤツ」だったらコワイねえ・・・なんて話をしていた。それが、駐在員が先に降りて、車内に一人とり残されて、現実のものとなる。そこからタクシーは空港を出てしまうではないか。一瞬、不安が募り、焦る。「どこに行こうとしてる?」「第一ターミナルだろ~。迷子になったか~!?」 相変わらず陽気にまくしたてる。気に障るヤツだ。その内、標識に従い再び空港に入るのを目で追って、杞憂だったことにホッとする。「お前が500ペソくれるから、朝飯でも食いに行こうかな~」 相変わらず陽気だがしつこい。メーターは159ペソを表示していたので200払って釣り銭は受け取らなかった。夜だったら、とても強気になれない。東南アジアの油断ならないところだ(因みにマニラに到着したのは木曜夜9時で、ホテル・リムジンに1600ペソ払わされた)。
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アジア紀行(上)KL

2016-08-30 23:10:03 | 永遠の旅人
 久しぶりの海外出張は、またしてもアジアだった。KL(マレーシア)とマニラ(フィリピン)である。先々週の水曜日に出発し、土曜夜には帰国していたが、その後、あほうは風邪をひかぬはずが、珍しく先週水曜日は早退するほど悪化し、その後、木・金曜日はガマンして通常勤務したものの、週末は再び動きたくなくて、二日とも一日中、横になってまさにノビていた(僅かに小説を三冊読破しただけ)。どうせ暫く自堕落な生活を送ってきたツケに遅れて見舞われただけなのだが。
 先ずはKL編。
 行きのフライトはJALだったが、マレーシア到着前、耳慣れないアナウンスがあった。タバコの広告がある雑誌の持ち込みは禁じられている、というのだ。ポルノは勿論、日本の週刊誌のグラビアでもダメなのは知っている。後で調べたら、マレーシア政府は既に2005年7月23日から、小売店でのタバコのロゴ掲示や関連広告の掲示を全面禁止していたようだ。そんなこともあったかなあ・・・当時と言えば、ちょうどマレーシア駐在が決まり、家族ともども着任したばかりの頃だ。それ以来、何度、KLIA(KL Int’l Airport)に降り立ったか知れないが、このようなアナウンスはついぞ聞いたことがなかった。もしかしたら、政府が真面目に取り組んで(なんて言い方は妙だが、法令があっても運用が緩いこと、もっと言うと、敢えて取り締まらないことは、マレーシアはじめ東南アジア諸国ではザラにあることだ、そしてその陰で、取り締まりと見せかけて賄賂を受け取る口実にしたりする・・・いや、まあ、どこの国とは言わないけれど・・・)、実際に空港で日本人がらみの没収騒ぎでもあったのかも知れない。
 この、法令があっても運用が緩いというのは、中国も概してそのように映る。しかし中国の怖いところは、緩いと思って油断していると、ささっと“刀を抜く”ことがあることだろう。そうなると、法令だけは結構しっかり作り込んであるから、途端にタテマエで動き始める彼の国では、うまく袖の下でごまかせればいいが、さもなくば豚小屋行きだ。
 閑話休題。
 現地人同僚によると、マレーシアでもポケモンGOは人気のようだ。リオ・オリンピックでは、金メダルになかなか手が届かないと悔しそうである。こうして見ると、マレーシアは、勿論、敬虔なムスリム国でありつつ、政治的には世俗主義で、かつて東南アジア経済の優等生と言われて、今なおシンガポールに次ぐ先進国予備軍であり、中所得国の罠に陥って久しく停滞しているが、私たちに価値観が近く、このままトルコのような揺り戻しがないことを祈るばかりだ。
 たった丸一日の滞在で、到着した夜は久しぶりにニョニャ料理(と名がつくが、その実、ナシゴレンやナシレマといった屋台料理そのもの)を食べ、翌日昼は現地人同僚たちとテーブルを囲んで飲茶を食し、心残りはバクテー(肉骨茶)にありつけなかったことか(因みにその夜はマニラ行きマレーシア航空の機内食で、ちょっとしょぼい)。相変わらず空港とホテルとオフィスを往復するだけの、味も素っ気もない旅である。
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中国・落穂拾い

2015-12-10 00:00:07 | 永遠の旅人
 北京では昨日から再び大気汚染が深刻で、2013年10月に警報システムが試行・導入されてから初めて最も重い1級(赤色)警報が、昨日に続いて今日も発令中のようである。北京の小学校は休校だったようだし、市中心部の天安門広場を警備する武装警察はマスク姿で巡回に当たり、日本の侵略に反対した1935年の学生運動「一二・九運動」から80年の折角の記念行事も、屋外活動は大気汚染のため中止に追い込まれるなど、影響が徐々に広がっている。
 私が先週、上海経由で西安を訪問するちょっと前、11月末から12月初にも、北京ではこの冬最悪の大気汚染が報じられ、北京経由にしなくて良かったと安堵したものだった。それでも上海でも薄っすらと曇っていたのは、風の影響でやはりPM2.5が運ばれて来るのだと聞いたが、もとより北京の比ではない。
 逆に北京では風の影響で大気汚染が和らぐものらしい。ネットでは「政府ではなく風が頼り」だとか「かつては雨乞いをしたが、今は風乞いが必要だ」などと言った書き込みで溢れているらしい。上手いものである。さらにストレートな批判は削除される可能性があるため“褒め殺し”の書き込みも溢れていて、「この汚染でみな65歳以上は生きられないだろう。これで年金問題も解決だ」とか「改革開放の成果は平等に得られなかったが、大気汚染は人々にとって平等だ」さらには「大気汚染は公平だ。首都にいる人間はみな被害者。預金額や所有不動産、戸籍で差別されることはない」など、実に風刺が効いている。
 今日の昼食時、同僚とそんな彼の地の大気汚染の話に及んで、そう言えば中学校の校歌には黒い煙(静岡)とか四色の煙(北九州)が成長か繁栄の証のように謳い上げられていたと回顧する者がいた。へええ、である。確かに戦後の荒廃から立ち上がった頃、田舎ほどそういった晴れがましい空気に包まれることがあったかも知れない。今となっては想像もつかないことではある。しかし、そんな悠長な時の流れは、中国には存在しない(中国と言わず、アフリカや中南米の新興国も同じ)。何もかもすっ飛ばして、古代から(!)いきなり(おらが田舎の誉れより、個人の権利意識が強い)現代であろう。
 上海から西安に移動する空港や機内でも、スマホは当たり前、今なおガラケーを握りしめる私は恥ずかしいくらいだった。彼らは黒電話など見たこともないだろうし、弁当箱のような移動電話(あるいはむしろ自動車電話)があったことなど聞いたこともないだろう。「東京ラブストーリー」でリカとカンチが待ち合わせて、携帯電話がないものだから連絡が取れず、電話ボックスで呼び出し音を聞きながら、すれ違いに気づくときのやるせない思いなど、想像もつかないだろう。彼女の自宅(の固定電話)に電話して、ご両親のいずれかが出る時のドキドキ感も、知る由もあるまい。
 国内を移動するときも、広い中国では、さすがに鈍行の夜行列車というわけには行かないかも知れないが、今は少なくとも飛行機が当たり前で、時間感覚もまた古代からいきなり現代といった風情なのである。中国内の飛行機は、アメリカのシャトル便のように都市間を一日5往復も6往復もするものだから、夕方になるほど到着時間に遅れが出て、2時間以内の遅れであればOn-timeと受け止められるそうだ。遅れるのが常なら、初めからそれだけの余裕をもたせた運行スケジュールを組めばよいのにと思うが、セッカチなのか、ケチなのか、そういうものでもないらしい。そこで果たして乗継ぎが上手く行くのか気を揉んだ西安~上海~羽田の帰国便は、ほぼ予定通りに運行され、上海~羽田に至っては、偏西風が手伝って予定より20分も早く到着してしまって、お蔭で映画を観終えることが出来ず、欲求不満のまま機内を後にしたのだった。
 今の大気汚染にまみれた北京は、物理的な環境面では40~50年前の日本と似たようなものだろうが、精神面では、インターネットが水道や電気のように各家庭まで届けられるインフラとなっているだけでなく、無線が降り注ぎ、一人一台のスマホを持ち歩いて、いつでもネットにアクセスして好きな情報を取り、GPS機能によって見知らぬ土地でも迷うことがないなど、世界の最先端を生きる現代人の国である。そのギャップは私たち日本人には計り知れない。
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中国・西安の旅

2015-12-08 01:16:05 | 永遠の旅人
 タイトルに西安と言っても、出張で訪れたのは、残念ながら城壁の外の開発団地で、味も素っ気もなかった。そのため、土曜日朝、出発前の僅かの時間を縫って訪れた兵馬俑の印象を書く。
 あの20世紀最大の発見の一つと言われる兵馬俑である。中国4000年の歴史において、史上初めて天下統一し、封建制を否定して導入した郡県制による中央集権体制は、以後2000年近くも採用され続けるなど、その後の中国の歴史に多大なる影響を与え、偉大ながらも、焚書坑儒に見られるように成り上がり者で歴史や伝統でさえ何でも思い通りにできると考える暴君だったという評判の、あの始皇帝の墓を守る副葬品の数々である。唐の詩人・李白は「国風」四十八で、統一を称えながらも、始皇帝の行いを批判したらしい。
 そんな伝説の始皇帝陵と兵馬俑の存在は、史記や漢書など、古代中国の数々の歴史書に記されていたらしいが(Wikipedia)、動乱により所在地はおろかその存在までも疑問視される状態だったらしい(同)。しかしそれも、1974年3月29日、干ばつに窮した地元農民(楊志発さん)が井戸を掘っていて偶然発見するまでのことである。考古学界は驚天動地だったことだろう。その後、1987年には秦の始皇帝陵の一部として世界遺産(文化遺産)登録され、当の楊さんは、兵馬俑を展示する博物館の名誉副館長となり、写真集にサインをして販売するなど悠々自適の生活だったらしい(今は老齢で引退してしまったらしいが)。
 前置きが長くなったが、兵馬俑は見る者を圧倒する。全体でひとつの軍団を写したもので、将軍、歩兵、騎兵など、軍団を構成するさまざまな役割の将兵が配置された3つの俑坑の規模は2万平方メートルを超え、既に1000体の発掘と修復が終わっているが、今なお発掘・修復中で、総計8,000点に及ぶ俑(=人形と書いてヒトガタと読む、人間の代わりに埋葬された陶製の像)の全ての修復を完了するまで後200年はかかろうかという、サクラダファミリアのような壮大さである。
 その造形の緻密さにも驚かされる。当時、実在した兵士をモデルに造られたと考えられる俑には、どれ一つとして同じ顔をしたものはいないし、手の皺や靴の裏の滑り止めまで、実に緻密に刻まれているらしい。漢書に、秦の始皇帝陵が項羽によって破壊されたと記されている通り、叩き壊され焼かれた跡が発見されたそうだ。さらに出土した矛、戟、刀や大量の弩、矢じりには、クロムメッキ処理が施されていることも判明したらしい。クロムメッキと言えば1937年にドイツで発明された近代のメッキ技術のはずだが、2200年前の中国人はこの技術を知っていたことになる。その後の漢の時代に作られた銅剣は、皆ボロボロに腐食していることから、この技術は継承されなかったことが明らかであり、それもまた謎めく話である。
 それにしても始皇帝は、なぜ膨大な兵馬俑や銅車馬を陵墓の周囲に埋めさせたのか。しかも即位した13歳から死ぬ49歳まで、36年もの歳月をかけるという、途方もない権力を見せつけるかのように労力をかけてのことである。近年の調査によると、来世に旅立つ始皇帝のために造成されたというこの遺跡は、始皇帝の身を守る軍隊だけでなく、宮殿のレプリカや文官や芸人等の俑まで発見されており、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたのではないか・・・という見方が有力らしい。死してなお皇帝として天下統一する野望が垣間見えるのである。恐ろしい執念ではないか。
 因みに兵馬俑坑の西約1.5キロメートルにある始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業は行われておらず、比較的完全な状態で保存されているらしい(Wikipedia)。考古学者が墓の位置を特定して探針を用いた調査を行ったところ、自然界よりも濃度が約100倍も高い“水銀”が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だったことが確認されたらしい(Wikipedia)。古代においては、辰砂(主成分は硫化水銀)などの水銀化合物は、その特性や外見から不死の薬として珍重され、とりわけ中国の皇帝に愛用され、不老不死の薬「仙丹」の原料と信じられていたという(錬丹術)。それが日本にも伝わり、飛鳥時代の女帝・持統天皇も、若さと美しさを保つために飲んでいたと言われるが、これは現代の私たちから見れば毒を飲んでいるに等しく、危険極まりない。始皇帝を始めとして多くの権力者が中毒で命を落としたと言われる所以である。どうやら、水銀が毒として認知されるようになったのは、中世以降らしい。
 いずれにしても、この壮大なる兵馬俑の広さは、実は始皇帝陵墓の僅かに0.00035%(どこかの国の金利かと見紛うが)というから、これまた驚きである。いやはや、中国の皇帝の権力の絶大なること、私たち日本人の想像を絶するものがある。現代でも中国共産党の中央幹部が海外に逃す資金は数千億円という、日本人の我々からすると途方もない規模に達するのも、その名残りであろうか。
 戦前の日本で語り継がれた中国の残酷さは、その権力の絶大なることと裏腹のように見える。
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中国・上海の旅

2015-12-06 20:06:11 | 永遠の旅人
 水曜日から上海と西安に出張して来た。先ずは上海の印象から。
 相変わらず一泊しただけの駆け足の旅だから、雑な印象に過ぎないのだが、この街を見ていると、得体の知れない中国という統治機構あるいは国家体制を論じることの難しさを思う。上海は、東南アジア諸国の開発独裁の大都市とさほど変わらない(結果としてそうなのではなく、実際にそのような発展を目指して来たのだろうが)。まったく国家というものの実体の不思議を思わざるを得ない。一つには、よく言われるように、中国の(北京を中心とする)北と(上海を中心とする)南とでは国柄が違うと言われるほどの違いがあるのだろう。もう一つには、それとも関連するが、私たちが普段、新聞・雑誌で目にする中国は、政治的には共産党一党独裁であり、経済的には国家資本主義で、対内・外政策は強権・覇権的であり、そんな硬い言葉で形容される中国を総称して中華帝国と揶揄され、そこでは13億の民の一人ひとりに完全な自由はないし国家権力のもとでは全く無力なのだが、国家を支えているのはそんな13億の民の日々の経済活動であり、西欧的な価値観としての選挙制度はないにしても、そんな13億の民の信認なくして国家(共産党の統治)はやはり成り立ち得ない、ということである。
 今の中国を象徴するようなエピソードを聞いた。この夏の上海株式市場の株価暴落で、影響を受けたのは株式投資できる一握りの高額所得者だけであって一般民衆には関係がなかったと話す著名エコノミストがいたが、話半分のようだ。実は民衆の9割方は多かれ少なかれ株式投資に手を染めているらしい(と聞いていたが、本当らしい)。ギャンブル好きな中国人の面目である。他方、彼らは株価が多少下がっても国が何とかするだろうと高を括っていたらしい。実際のところ、暴騰のあと暴落したところで、3月頃の水準に戻しただけで、その間、慌てて売り買いをして多少のボロ儲けをしたり損をこいたりということはあっただろうが、3月以前から株を持っていた大多数の一般民衆にとっては今の水準でも十分に高いままなのである。当時、習近平政権のなりふり構わぬ株価維持対策は、まさにこうした民衆の信認を失わないがためであったことと考えると合点がいく(と、当時もそのような議論があったが、まさにそのようだ)。
 しかし上海の人々の所得水準を侮ってはいけない。スタバのドリップ・コーヒーは、トール・サイズが17元(320円)、グランデ・サイズが20元(380円)と、為替によっては日本より高くなるほどである。以前、マレーシア(ペナン)に駐在していた頃、徒然なるままに訪問した東南アジア主要都市に所在するスタバのコーヒーの値段を調べたことがあったが、マック指数に似て、スタバ指数も実感として生活水準を反映していたことを確認した。上海で、この金額を払ってコーヒーを買う購買層が当たり前に大勢(店を成り立たせるほどには)いるというのは、やはり驚きである。
 習近平政権は、前の胡錦濤政権が2012年の共産党大会で発表した所得倍増計画(2020年の国民所得を2010年比で2倍にする)の旗をおろすつもりはないようだ。むしろ所得倍増ありきで経済運営しているように見える。7%成長を続けて行けば、計算上は10年後に1.967倍になる、7%というのはマジック・ナンバーである。しかし、今回訪問した西安のような地方都市でも高層マンションが立ち並ぶ様は壮観と言うより異様だった。売り出し中の垂れ幕が、長らく風に晒されて薄汚れて、所謂ゴーストタウン化しているのだ。この広大な中国で誰がどうやって計算したのか知らないが、今や13億の国民の約3倍の人が住める収容能力があると、西安・兵馬俑を案内してくれたガイドのお姐さんが話していた。観光ガイドのお姐さんが喋るくらいだから、人口に膾炙していることなのだろう。そこまでして頑張って維持して来た7%を(実際にはその水準すら疑われてきたわけだが)、今後も維持できるわけがないことは、もはや自明である。
 結局、「世界の工場」を返上せざるを得ないほどに、民心維持に汲々としているのが実態ではあるまいか。経済的な活力(あるいはGDP)を落とすことなく、いかにして内需主導のサービス経済にスムーズに移行(すなわちソフトランディング)出来るか、そしてその過程で、「世界の工場」は沿岸部のみが栄えたが、今後はその繁栄をあまねく国内に、とりわけ内陸部にも行き渡らせ、所得格差をそれなりに解消できるかどうかが、習近平政権に課せられた課題なのだろう。
 フォルクスワーゲンの偽装問題は、中国では問題ではなくて、VW車は相変わらず売れているそうで、数少ないながらも話をした中国人はモノともしないと話していた。そんな中国をしたたかと見るか、品質の低い薄っぺらな社会と見るか、意見は割れようが、少なくとも上海の人々の、中共という異形を感じさせないほどの日々のごく当たり前の力強い経済活動や自信を見ていると、私たちは中共を過大評価しているのではないか・・・そんなことを思わせるほどの繁栄だった。
 なお上の写真は、上海ではなく、西安・兵馬俑の前に軒を連ねるレストラン。右手看板にあるけったいな文字は、中国で最も画数が多く、58画あるとされるが(私には57画にしか思えないが、旧字体としてカウントする部分があるのだろうか)、どうやら正式の漢字ではないようだ。陝西省で一般的な麺「ビャンビャン麺」を意味する。もともと水の乏しい同地域の田舎で食された貧民食だったが、近年ではその風変わりな表記が注目を集め、西安市などの都市でも提供されるようになったという。ラーメンと言うよりきし麺に近いが、唐辛子や刻み葱やピーナッツ油をかけた中国的な味付けは、ラーメン好きの日本人にも受け容れられるなかなか美味い麺だ。
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アジア再び(4・完)点描

2015-10-13 20:42:22 | 永遠の旅人
 最後に訪問国の印象を点描する。
 メルボルンは遠い。シンガポールまで7時間半、更に7時間半、待ち時間を挟んで16時間以上の長旅である。日本からの直行便がないのも一つの理由だが、そもそもオーストラリアという国が東の最果て、南の最果てなのである。イギリスが流刑の地としたのも故なしとしないが、そんなところにポツリと白人社会が出来たのだから不思議である。皮膚癌を気にしなければならないほどの陽光と、農業と資源で食って行けるほどの豊かな自然の恵みを受けて、どこか大らかな余裕を感じさせ、それが昔も今もなお人々を惹きつけるのであろう。シドニー駐在の頃、国の歴史にまつわる本を読んだところ、オーストラリアでは先祖のことを尋ねてはいけないとあった。勿論、今なお移民一世が増え続ける中では、もはやそんなことはあるまいが、アメリカが移民の国として所謂サラダボールと言われ、さまざまでありながらも、なおアメリカという国のアイデンティティを色濃く確立しつつあるのに対し、オーストラリアはサラダボールの素材がむき出しのままだ。その分、美味いイタリア料理やシーフードや、美味い珈琲に出会うことが出来る(アメリカでは素材が薄まってしまって、何もかも味が薄い)。
 シンガポールは、この季節、ヘイズ(Haze)で曇っていた。越境汚染として問題となっている「煙霧」で、PM2.5も含まれる。主にスマトラ島(インドネシア)のプランテーションでの野焼きや森林火災が原因で、発生した煙がモンスーンの風に乗って渡ってくる。私も、ペナン島(マレーシア)に住んでいた三年間(2005~08年)で一度だけ、朝、煙に気付いて目が覚め、火事でも起こったのかと不安になったことがあった。実際にヘイズ自体は毎年のことなのだが、Wikipediaによると、「2006年と2013年に大規模な煙霧が越境汚染を引き起こした」とあるので、まさにこの2006年のことだったのだろう。周辺国のシンガポールやマレーシアとしては文句を言いたいところだが、近年、需要が急増するパーム油のために熱帯雨林が伐採され、焼き払われてパームヤシに植え替えられるのを、実はシンガポール資本やマレーシア資本が主導しているという話もあって、ややこしい。隣近所はとかく仲が良くないのは、東南アジアにしても同じことで、日本も気にすることはない。
 ニューデリーは、まだまだ混沌としている。そのため、出張すると現地の人は(現地の水準からすれば)高級ホテルを予約してくれるのだが、そのホテルが植民地支配の時代の名残りか、大英帝国趣味を彷彿とさせて、余り気分が良いものではない。しかし、貧富の差がありながらも社会がそれほど混乱することなく、まがりなりにも民主的な政治が行われているのは、身分社会ゆえの安定性のお陰だろう。そう思うと、社会というのはそれぞれで、「アラブの春」で犯したアメリカの浅はかさを思う。
 上の写真は、シンガポールのホテルからマリナ・ベイ方面を望む。朝の爽やかなはずの空も、ご覧の通り曇っている。
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