風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

アジア再び(3)機内にて続々

2015-10-12 19:44:31 | 永遠の旅人
 アジアとは関係がない話が続く。
 エコノミークラスの狭い機内で隣り合わせに座る人は、当然のことながら余り大きくない方がいい。そして何より図々しくない人に限る(私の経験則だからアテにならないが、お隣の大国やその属国(歴史的に、の意)のおじさんやおばさんはなるべく敬遠したいもの)。そんな中、多少図々しくても許せる人がいる。欧米系の白人のおばあちゃんである。今回も、シンガポールからメルボルンに向かう機内で、隣に座ったおばあちゃんは、多少肘を張り出して来ようが、照明がつかないとか、現地時間ではいま何時かなどと、何かと絡んで来ようが、一向に気にならず、優しく受け止めることが出来る。
 つらつら考えるに、一種の刷り込みのせいであろう。
 アメリカ駐在の頃、オフィスの身近なところに二人の白人のオバサンがいた。一人はローズマリー(Rosemary)という、今の私くらい(50前後)の年齢だったかもしれない、社長秘書をしており、もう一人はパット(Patricia)という、やはり同じような年齢で、部門長秘書をしていた。30そこそこだった私にとって、いずれも親の世代に近く、二人は仲良くやっているのだが、見た目や性格は対照的だった。ローズマリーは社長秘書らしく、若かった頃はさぞ美人だったろうと想像させる痩身で気品ある顔立ちで、いつもすました落ち着いた雰囲気を醸し出していたのに対して、パットは小太りでちょこまかとよく動き、いつもニコニコ、何くれとなく私の世話を焼いてくれる、気の好いオバサンだった。ではローズマリーはお高く止まっていたのかと言うと、それは見た目だけで、私がメールや会話の中に一所懸命ひねったジョークを仕込むと、からからと笑ってくれたし、立食パーティで一緒に写真に納まる時はふざけて、別れの時には濃厚に後で拭わなけければならないほど、頬にキスをしてくれた。そんなお茶目なところが大好きだったのだが、アメリカ東海岸は余りに遠いし、20年もの年月が流れてしまった。
 当時のローズマリーやパットのことをおばあちゃんと呼ぶと怒られるに違いないが、私より20ほど離れた白人系のおばさま方・・・今の私の年齢からすればおばあちゃんになってしまうのだが・・・の、年老いてなお楚々として、つまりは可愛らしい天然系のわがままは、俄然、許せてしまうのである。なんたる偏見であろうか。
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アジア再び(1)機内にて

2015-10-10 21:07:50 | 永遠の旅人
 月曜夜から、メルボルン、シンガポール、ニューデリーに出張し、今宵、帰国した。アジアと言っても、東の果てから西の果てまで、フライト移動時間は丸5日間で37時間に及び、その間、空港~ホテル~オフィス間のタクシー移動も含めると40時間を軽く越えてしまう。いつもにも増して過酷な旅となったのは、いつも同行するシンガポール駐在の日本人が帰任することになり、その挨拶回りを兼ねて訪問先が決められたためである。
 その過酷さは、食事をどこで取ったかを見れば分かる。行きこそシンガポール経由で火曜夕方にメルボルンに到着し、その夜は現地法人の方も含めて食事会となったが、翌・水曜午前中に打合せ後、午後シンガポールに移動し、夜の食事はその機内、翌・木曜日午前中はシンガポールで打合せ後、午後ニューデリーに移動し、夜の食事はその機内、翌・金曜日は一日打合せ後、帰国は夜行便だったため、辛うじて夜はインド料理を堪能することが出来た。
 以前の出張でも言ったことだが、この歳になると、安易に流されてしまい、機内では日本食かそれに近いものを求めてしまう。最初のメルボルンで一気飲みならぬ肉500g食いなど皆で余計なことをしたものだから、胃がもたれて後々まで響いてしまう。哀しいことだ。そんな中、火曜日は一日移動の気安さから、昼間からアルコール漬けですっかりリラックスしてしまったのだが、男性アテンダントは、ちまちまとケチ臭くワインを注ぐのに対して、おかわりを頼んだ女性アテンダントは、まるでジュースのようにコップに並々と注いでくれた。余り手を煩わせるなというシンガポーリアンのいい加減さあるいは手抜きと言うより、やはり女性の大胆さあるいは度胸であろうか。おもてなしは、滝川クリステルならずとも、女性の方が得意だと、誰しも同意されるのではあるまいか。
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台湾と香港の旅(下)

2015-08-31 21:25:24 | 永遠の旅人
 弾丸ツアーの出張なので、毎度のことながら、楽しみと言えば食事しかない(と言い切ってしまうのは何だか情けないか)。なんのことはない、ただの食べ歩き自慢である。
 台湾では、到着した昼、台湾のファーストフードである牛肉麺あたりを久しぶりに食してみたかったのだが、なかなか見つけることが出来ず、30年来贔屓にしている(!?)と言うより、30年近く前によく連れて行って貰った「梅子」という地元・台湾料理の店を見つけて、つい引き込まれるように入ってしまった。実は、4年前にも訪れて、健在であることは知っていたのだが、今もまだ、昔ながらに続いているのが何となく嬉しい。日本人ツアー観光客の日本語が飛び交って、日本人駐在員ご用達だったことも思い出した。部下と二人で、ビーフンと数品取っただけだが、相変わらず美味かった。夜は、久しぶりに台湾の小龍包を堪能した。京鼎楼 JIN DIN ROUという店で、後で調べたら、なんと日本にもいくつか支店が出ている有名店のようである(そごう千葉店、横浜店、ららぽーと新三郷店、池袋パルコ店、アクアシティお台場店)。そこでは念願の牛肉麺にもありつけることが出来た。中華料理は、何日も続くと、日本人には胃にもたれてキツいものだが、たまに食する台湾料理は、中華料理の中ではあっさり系、田舎料理風の素朴な味わいで、実に美味い。
 続いて香港である。到着後、昼はホテルに隣接するショッピングモールのレストランで、軽い昼食に、日替わり定食の揚げ麺を取った。お茶ではなく白湯が出て来たのにはびっくりしたが(お茶はなんと有料!だった)。夜は、ダウンタウンの広東料理レストランJade Garden(翠園大酒樓)に行った。後で調べたら、ランチタイムにはその筋では人気の点心の店のようで、夜は所謂本格中華で、紹興酒との取り合わせが絶妙で、つい飲み過ぎ、食べ過ぎてしまった。そして翌日、空港で午後のフライトに搭乗前、お決まりの点心で、香港を名残り惜しむ。
 台湾にしても香港にしても、どれもこれも外れがない(まあ、そこそこの店なら・・・と言うべきかも)。
 上の写真は、ホテルの部屋から見た香港島。やはりどこか霞んでいる。
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台湾と香港の旅(中)

2015-08-28 21:09:47 | 永遠の旅人
 香港を、20数年前、まだ中国に返還される前に観光で訪れたことがあるが、返還後、何がどう変わったというほどの勘も記憶も働かない。ただ、当時、香港島がここまで霞んで見えることはなかったと記憶する。それはだがイギリスからの返還という事象とは関係がなく、深センをはじめ隣接する広東省の経済発展による大気汚染のせいだろう。そこで現地の人に聞いたところ、かつての香港を知る人に言わせれば、やはり香港は変わりつつあるのを実感するものらしい。端的に、中国化しているということのようだ。タクシー(的士)の運ちゃんが英語を話せないのは昔からだったのかも知れないが、学校で英語に代えて中国語を教えるようになって、英語を解さない人も増えて来ているようだ。台湾では、第二外国語を英語にするか日本語にするかで今もって悩むらしいが、香港にはそんな選択肢はなさそうだ。不動産をはじめとする物価も、中国大陸からの投資が増えて上がり続けているのは、日本でも報道されている通りである。
 しかし、日本の報道とは裏腹に、雨傘革命は意外にマイナーなものだったらしい。台湾の向日葵革命と何が違うのか尋ねると、勿論、ここ18年の歴史が違うのだが、地続きかどうかで違うのだと諦め気味に話す人がいた。そのあたりは、海を挟んだ日本に対して、韓国が地続きで常に日和見(いわゆる事大主義)なのに似ている。私たち日本人は鈍感なのかも知れないが、国境を接する脅威は別格なのだろう。
 もともと中国4000年の歴史は民主的であったためしはなく、易姓革命を受け入れ、政治とは適当に距離を置きながら、現世をしたたかに生きるのが庶民の知恵というイメージがある。その一つの典型は、「明るい北朝鮮」の異名をもつ、華人の都市国家シンガポールに見ることが出来る。選挙制度はあるものの、事実上の一党独裁であり、現地に所在する日系企業のある社長は、監視社会だから、電話やメールは盗聴されていることを前提に生活していると淡々と語っていた。政治的な自由はなくとも、経済的な自由が認められさえすれば、割り切ってそれなりの生活をすることが出来る・・・中国が目指す(ということは香港の行く末の)国家像の一つは、間違いなくシンガポールにあるように思う。もっとも香港の場合、ここまで経済的に中国に依存し過ぎてしまえば、シンガポールのような独立独歩と違って、緩やかに衰退するばかりのような気もするが。
 上の写真は、二階建バスの向こうに霞む香港島。
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台湾と香港の旅(上)

2015-08-27 01:25:34 | 永遠の旅人
 月曜朝に台湾に向かい、一泊して翌・火曜朝に香港に移動し、一泊して翌・水曜夜に帰国した。相変わらずの駆け足の出張、弾丸ツアーである。いずれの地も4年振りの訪問だった。
 台湾は、新入社員の頃、というのは、ちょうど戒厳令が解除される前後のことだが、毎月のように修行のために出張させられたことがある。その当時の台湾のことはシカとは覚えていないのだが、なんだか当時も今も余り変わらない気がする。薄汚かったタクシーが見違えるようにキレイになったのは確かだし、さすがに街の佇まいも近代的に立派になったことだろう。屋台の車は見かけなくなったし、若い人たちも垢抜けたに違いない。しかし、目抜き通りのすぐ傍に場末のようなところ、日本人ならそれなりにキレイにするところ、ぽつりぽつりと開発し忘れたようにそこかしこに残る。一見派手で豪華だが、洗練を貫徹できないところがあり、それを気にしないのもまた台湾だ。そして台湾の人々は賑やかで調子がよくて、相変わらず日本人に優しい。現地駐在の同僚の中に、北京駐在のあと横滑りで台湾に駐在することになった人がいて、緊張感のある生活から一気に楽園に来たようだと形容していた。この20数年で、台湾は経済的には中国との関係が深まったが、政治的には依然中国に対して拒絶反応があるのは、ひまわり革命でも、この前の選挙でも明らかだったし、来年の総統選挙でもその通りに予想されている。台湾(国民党)は、自ら中国を代表するものであると(中国共産党に対して)正統性を主張し得る立場にあるのだが、所謂中国たり得なくて、やはり台湾なのである。諸事情あって台湾島に亡命した中国国民党の中国ではもはやなく、台湾なのである。
 若い人と、日本のキャラクターの話になった。アニメのしんちゃんやドラえもんや、キティちゃんのことである。台湾で絶大な人気を誇るのは周知の通りだが、その若者は、その理由について、人物(果たして一言で人と言ってよいのか躊躇われるが)造形が良く出来ているのだと解説した。いろいろ話しながら、じゃあ、そんな人物造形を何故台湾人はつくりあげることが出来ないのか、ふと疑問に思った。しかし日本人なら出来るであろうことを確信するのは、何故か・・・それは日本人の職人技そのものだからだ。
 日本人は、ゼロから全く新しいものを発明するのは苦手だが、現にあるものを改善するのは得意だと、言われ続けたもので、それはちょっと癪だった。例えばIT業界でビジネスモデルを変革するのは、だいたいアメリカの企業や起業家であって、日本ではない。他方で、アメリカで生まれた家電製品などのエレクトロニクス製品に磨きをかけたのは日本だったし、同じくアメリカで生まれた自動車の燃費を上げ使い勝手を良くしたのも日本だった。大陸から伝わった米を、ブランド米として本家の米以上に美味しく仕上げたのも日本だ。セブンイレブンは元はアメリカの氷販売の小売店であり、ローソンは看板のミルク缶に見られるようにアメリカのミルク・ショップだったが、日本でコンビニとして独自の進化を遂げた。だからと言って、発明家が日本にいないわけではない。要は芸を磨くことにかけては、日本の職人技に勝るものはない、ということではないだろうか(イタリアやドイツにも近いものがありそうだが、第二次大戦で同盟を組んだのは何の因果であろうか)。それが何故日本の強みになったのかは、歴史的に検証する必要があり、島国で、よその民族の侵略を受ける機会がなく、仲良く住みなした、あるいは今西進化論のように棲み分けをしたことが影響していそうに思うが、そのあたりの思考の遊びは別の機会に譲りたい。
 台湾に目を戻すと、パソコンやスマホの製造では、これまでのところ世界をリードしてきたが、果たしてこれからもスマホあるいはその後継となる情報機器でリードを守ることが出来るだろうか。先進国でも順調に経済成長する国とそうでない国があるように、新興国でも経済成長する国もあれば遅咲きの国もあり、浮かばれない国もあるだろう、そんなことをふと思った台湾訪問であった(台湾が新興国だと言っているわけではないし、実際にそうではないのだが)。
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アジア太平洋の旅(下)

2015-07-03 00:27:15 | 永遠の旅人
 NZは、冬だったせいばかりでなく、暑くて湿度が高いモンスーン・アジアの諸都市とは違いが際立っていた。年季が入って落ち着いた街の佇まいはもはや西欧であり、アジアの果てにありながら、どこかヨーロッパの片田舎を思わせる。現地人社長が、羊の頭数の方が多いけど・・・と自ら語ったのにはビックリしたし、最果ての地・・・とも卑下していたのには破顔してしまったが、南シナ海の緊張をよそに、中国の海洋進出の脅威はNZまで及んでいないらしく、あらためて安全保障上のリスクを尋ねると、ちょっと首を捻って、ISISなどのテロリストがNZにいったん入ってしまうと比較的容易に欧米諸国に移動出来てしまうGatewayになり得ることだと答えた。そう言えばNZは、アングロサクソン系5ヶ国の諜報機関で構成される国際諜報同盟、所謂“Five Eyes”(第二次世界大戦中に米・英が結んだ秘密条約に端を発し、戦後、英連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わったもの)の一員で、諜報活動で得た情報をお互いに共有するとともに、相手国に対してはスパイ活動をしない非スパイ協定も結んでいることが、スノーデンが暴露した文書から明らかになった。名実ともにNZは欧米の片割れである。
 続いてタイ。中国の生産工場勤務の経験があり、今はタイの生産工場に勤務する日本人の同僚は、タイ人のことを、中国人と比べて格段に日本人に近いと断言した。まあそんなものだろうとは想像できるが、彼曰く、タイ人は個人主義的な主張が激しいわけではなく、離職率もそれほど高いわけではなく、実際、長年勤務するタイ人は珍しくなく、僅かな報奨金を見返りにカイゼン提案を通して献身的に会社に貢献し、エルゴノミクスの観点から製造設備をちょろちょろ改造し、カンバンやミズスマシなどの日本的生産革新がまがりなりにも根付いていると言うのである。タイにはインラック前首相をはじめ華人が多く、逆に華人ではない首相を探すのが難しいくらいであり、バンコクに住むタイ人の8割は中国人の血を引いているとまで言われながら、華人であってもタイ人はタイ人なのである。風土や歴史は、違う民族を形造るものらしい。
 そしてインドネシアは、食事も言葉も、マレーシアのそれに近い、マレー系の国で、ペナン暮らしをした私にとってはなんとなく懐かしく思えて来る。実際、インドネシア語は、マレー語のリアウ州の一方言を、国家の共通語としたものだと言われる。ナシゴレンやミーゴレンなど、マレーシアと共通の料理が多いし、食事のとき、右手にスプーン、左手にフォークを持って、スプーンをナイフ代わりに器用に使いこなすのも、マレーシアと同じ。握手の手を差し出すと、自信なげにそっと握る奥床しさは何とも言えない。インドネシアは平均年齢が28歳とか29歳と言われ、2040年くらいまで人口ボーナス期を享受できて、消費・労働の両面から経済を牽引することが期待される若い国で、羨ましいのだが、そうとばかり言っていられず、日本から出向している現地法人社長は、サービスに対価を払う習慣がまだ確立されておらず、ビジネスが成り立ちにくいとぼやいていた。発展途上の国に特徴的であり、悩ましいところだ。
 上の写真は、ジャカルタのホテルの窓から見たプール。
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アジア太平洋の旅(中)

2015-06-30 00:01:16 | 永遠の旅人
 今回は食のつれづれ。
 月曜の夜行便で出て、翌朝、NZ・オークランドに到着し、さらにウェリントン行きの国内線ターミナルへは、バスが周回しているほか、歩いて10分、路面に緑の線が引いてあるので、子供でも間違えない・・・というので、3時間の時差で寝惚けた身体を起こすのに丁度よいと、てくてく歩くことにした(写真 上)。そういえばボストンのダウンタウンにも、歴史的な建造物を巡って歩くのに、路面に線を引いて誘導していたのが、外国人には便利だった。観光立国を目指す日本でも覚えておいて損はない知恵ではないか。
 そのオークランドの国内線ターミナルには、マクドナルドの横にHAYAMAなる日本食レストランがあった。まだ目が覚めていない身体は、ハンバーガーより、うどんを欲して、これも市場調査だと自分に言い訳して、日本食レストランに向かった。きつねうどん12ドルは高いと、一瞬、思ってはみたものの、先進国の、しかも空港という立地で、同じ空港のコーヒーの値段の3倍程度であれば、目くじら立てることではないのだろう。レトルト麺だが、麺つゆは関西風であっさりしていて、機内で上手く寝付けなかった身体に優しかった。
 食べ終わって食器を片付けようと立ち上がって、さて、ここはNZだと思い直した。アメリカでもマレーシアでもオーストラリアでもそうだったが、片付ける人の仕事を奪ってはいけないのである。言葉は悪いが低階層の人に仕事を分け与えるという意味で、移民社会の合理的な知恵と言うべきなのだろうが、一億総中流を自負してきた日本人には、いまひとつ居心地がよいものではない。しかしピケティさんが言うように、資本主義に内在する格差の現実に、日本人はいつまで目をつぶっていられるのか(それとも日本の資本主義はやはり異質なのか)。
 1時間のフライトでウェリントンに到着したあと、シンガポールから合流する同僚と会うまでちょっと時間があったので、軽い昼食でも取ろうと、ホテル付近をぶらぶらして、When Hanoi meets Parisなどと小じゃれたサブタイトルが付いたベトナム料理の店を見つけて、つい引き寄せられるように入ってしまった。なるほど洗練されているが、確かなアジア的な美味しさにホッとする。それでもNZの夜は、せっかくだからと、地元のシーフードレストランでカニを楽しんだ。ワインは何故か(シンガポールの同僚の勧めで)安いチリ・ワインにしてしまって、何故、多少高くとも地元ワインにしなかったかと後悔したが、料理はなかなか美味かった(ワインはいまひとつだった)。
 その後、バンコクに到着した夜は、前回のブログでぼやいたように韓国料理で、翌日の昼はささやかにローカルのタイ料理を楽しんだものの、夜は再び日本風居酒屋で、翌日ジャカルタに移動した昼も日本食で、夜も日本風居酒屋で・・・とまあ、駐在員の勧めに応じているとは言い訳で、敢えてローカル・フードにチャレンジすることなく流れに身を委ねるのが楽でいい・・・といった気持ちに囚われて、ことほどさように、歳をとると、食事に柔軟性がなくなって行くのが寂しくもある。
 そんなこんなで地上での食事は我が儘のし放題だが、機内食はチョイスが限られるので、そもそも期待しないことにしている。というのも実は強がりで、特にアジア系の航空会社には、同じアジア人(などという存在はただの幻でしかないが)として秘かに恃むところがあって、実際に、タイ航空で行くバンコク~ジャカルタ間は朝食にChicken Porridge(粥)が出たのが嬉しかった。さらに微笑みの国そのままに、飲み物はどうかと何度も笑顔で勧めてくれるので、つい調子に乗ってワインを何杯も重ねてご機嫌だった。続いてジャカルタからの帰国便はJALで、本格的な牛丼が出たのが、疲労困憊した身体に嬉しかった。なでしこジャパンが「JALで移動中」などとTVコマーシャルが流れているが、海外生活が長くて倦んだ人、外の食に珍しさを感じない人、そして私のように歳を重ねて我が儘な身体を持て余す人には、ナショナル・フラッグのJALがいいと、つくづく思う今日この頃である。Star Alliance加盟の航空会社では、米国駐在当時からユナイテッドのFrequent Flyer Programに参加していて、買い物ポイントも含めて今でも25万マイル以上貯めているが、こちらもそろそろANAに切り替えようかと思案しているところ(因みにJALはoneworld加盟)。この歳になると、やっぱり自分は日本人なのだと思う。
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アジア太平洋の旅(上)

2015-06-28 00:00:23 | 永遠の旅人
 海外出張で、月曜の夜行便でオークランド経由ウェリントン(NZ)へ、次いで水曜日一日かけてバンコクへ、更に金曜朝にジャカルタへ移動して、今朝は4時に起きて一日かけて戻って来た。僅か三ヶ所だが、飛行機に乗ったのは6回、延べ36時間、旅好きの私も歳には逆らえず、さすがに金曜日の朝は身体が重く、心がどんより沈んでしまって、奮い立たせるのにかなり気合いを入れる必要があった。
 毎度のことながら、仕事以外は空港とホテルとオフィスを移動するばかりで、食事以外の楽しみを見つけるのは難しい。路地裏を歩いたり・・・といった楽しみはもとより、現地人と触れ合ったり・・・といったチャンスも少ない。食事にしても、いずれも初めての場所ではないので、現地の駐在員まかせにすると、バンコクでは韓国料理と日本食、ジャカルタでは日本風の居酒屋といった塩梅で、ブログに書くような刺激的な話にはなりようがない。
 というわけで、言い訳がましい前置きが長くなったが、ま、つれづれなるままに。
 36時間の飛行時間は、資料を持ち込んで次の仕事の予習をしなければならず、また時間が限られた中でホテルでメール・チェックするせいで寝不足が続き、睡眠をとる貴重な時間でもあり、映画は僅かに2本見ただけ、あとは音楽を聴きながら夢うつつの状態だった。
 行きのNZ航空で、なんと「マジソン郡の橋」を見つけて、話題になったけれども見ていなかったなあと思って、気紛れについ見てしまった。かれこれ20年前の作品で、まだ若いメリル・ストリープが、田舎の主婦ながらも4日間の切ない恋にときめくあたりをうまく演じている。アメリカ・アイオワ州の片田舎というシチュエーションも、美しくていい。クリント・イーストウッドは、いかすけど、淡々と演技していて、結局、テーマがテーマだけに、あるレベル以上は観る者に委ねている作品なんだと思った。この作品がヒットしたということは、受け手側の問題、つまり観る者がこの作品を補って余りある思い入れを持っていたということか。
 Diana Krallという歌手の最新作Wallflowerというアルバムを聴いたところ、”Alone Again”(1972年リリース)というギルバート・オサリバンの名曲が出て来て、つい泣けてしまった。学生時代なので1970年代後半のことになるが、大阪・朝日放送の「ヤングリクエスト」というラジオの深夜放送に「たむたむタイム」という素人のDJコーナーがあって、しらやまえいこさん通称白い猫が、最終回だったか、想い出の曲として流したのがこれで、今も記憶に残っている。まあ、あの年代なので、この曲ばかりではなく、リクエストがかかった曲はよく覚えていて、今、振り返ると、受験勉強などと称して、深夜放送を聞きながら勉強する所謂「ながら族」で、結局、20%からひどい時には50%も時間をロスしていた(つまりラジオに聞き入っていた)のではないか。そんなこと言ったら、今だって、以前何かの調査で読んだことがあるが、E-Mailの40%は仕事以外のジャンクなのだそうな。20/80の法則があるが、さしずめ20%は自分が直接関わる業務に関すること故、真面目に返信するなどして仕事し、40%は情報共有と称する参考メールで、流し読むだけで終わり、残りの40%はジャンクに近いお楽しみメールなのではないだろうか。
 人生の時間というのは、その程度のものかも知れないと、この歳になって思う。
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訪欧(下)オランダよもやま話

2015-02-18 00:51:15 | 永遠の旅人
 次の訪問地オランダ・アムステルダムで到着したのはスキポール空港・・・なんだか聞いたことがあるなあと、微かな記憶を頼りにググってみると、マレーシア航空第二の悲劇、昨年7月17日、クアラルンプールに向かって飛行中にウクライナ上空で何者かに撃墜された、あのマレーシア航空17便が飛び立った空港でした。オーストラリアで開催される何かの会議に出席するというので多くのオランダ人が搭乗していて犠牲になったのでしたが、あらためて調べていみると、乗客・乗務員298名中、実に192名ものオランダ人が含まれており、乗客らの遺体が帰国した2014年7月23日をオランダではおよそ半世紀ぶりとなる国民服喪の日として定め、各地の公共の建物ではこの日、半旗が掲げられることになった、とあって、これが日本人だったら・・・と思うと、まさに大惨事でした。
 さて、オランダ到着にあたっては、同じEU域内のイタリアからということで入国審査がなく素通りで、まさに国内線に搭乗した感覚でした。ところが、その次の訪問地ロンドンの入国審査は、同じEU域内でも厳しく、パスポートをぱらぱらめくってチェックを入れながら、訪問目的は何か?何の仕事か?何日滞在か?どこの会社か?勤続何年か?と畳みかけるように質問を浴びせられました。勤続何年なんて関係ないだろうと思うのですが、役人の言うことに抵抗するつもりはありません。このあたり、オランダとイギリスの国際政治上の立ち位置の違いを象徴するようです。
 そのオランダに降り立ったのは、私にとって生まれて初めてのことでした。もっとも、いつものように空港とホテルとオフィスの間を行き来しただけで、風車すら目にしませんでしたので、訪れたという実感はありません。従い、以下はただつれづれなるままに・・・
 オランダという国に対して、日本人として親近感を覚えるのは、江戸時代に鎖国(最近では国を閉じていたとは言わないようですが)中も交易を続けた唯一の貿易相手国だったせいでしょう。子供の頃から、チューリップ、風車、木靴などといった可愛らしいイメージと繋がりますし、同じ王国(立憲君主制)という事情もあります。近くでは、皇太子・雅子妃一家の長期静養を受け入れてくれたこともありました。こうして両国は一見良い関係を保っているかに見えますが、実は第二次世界大戦中、日本が蘭印(現インドネシア)を占領したのが、戦後のインドネシア独立(つまりオランダの植民地放棄)に繋がったと見られて、オランダでは暫くは反日感情が強かったという話を聞いたことがあります。昭和天皇は戦争犯罪人と見なされ、1971年にオランダを歴訪されたときには卵を投げつけられる事件が起こるなど混乱もありました。2007年には下院で慰安婦問題謝罪要求決議が採択されるなど、今も是々非々で厳しい追及は続いています。
 しかし、前回のコーヒーの話を引っ張りますと、コーヒーが初めて日本に伝えられたのは、17世紀初頭、オランダ商人によってと言われ(実際に普及するのは20世紀に入ってからのことでしたが)、オランダ人もコーヒー好き、正確に言うと、北欧人こそコーヒー好きと言うべきです。ある統計によると、ルクセンブルクがダントツの1位で、1人1日平均8杯飲んでいる計算になるそうです(飽くまで計算上の話で、個人輸出があるとか、ドイツ、ベルギー、フランスに囲まれた小国で、嗜好品に掛かる消費税が低いため、周辺諸国から買い物客を呼んで、数字かさ上げに貢献しているといった話もあります)。2位以下は、フィンランド(3.3杯)、デンマーク(2.6杯)、ノルウェー(2.5杯)、スイス、スウェーデンあたりは2杯以上、ドイツ、オーストリアが1.8杯前後と続き、確かに北欧系の国が多いですが、絶対量のスケール感にはピンと来ないかも知れません。因みに日本はずっと下って30位で、1人1日1杯弱、飲む人は1日に5杯も6杯も飲むでしょうし、飲まない人もいて、平均すればこんなものかと思います。緑茶の約3倍の量が飲まれているというのは、多いと見るか、まあそんなものと見るか。
 さて、北欧ではコーヒーが日常的によく飲まれ(などと言って、オランダは一般には北欧に入りませんが)、学校では学生は講義中にもコーヒーを飲み、職場でも頻繁にコーヒー休憩があり、街には親しみやすいカフェが多く、屋内でも暖かいコーヒーが大切なひとときを演出する・・・冬が長い北欧ならではと言うべきでしょう。日本人は「深煎りの苦めのコーヒー」を好むのに対して、北欧のコーヒーのプロたちは最高品質の豆を使用した(とは余計ですが)「浅煎りの酸味があるコーヒー」を好むと言われます。実際のところ、“節酒”政策としてアルコール類の価格を高く設定して、コーヒーが多く飲まれるように仕向けられた・・・といったあたりの俗説が、案外、的を射ているのかも知れません(コーヒー1杯は約1ユーロですが、アルコール類はその5~6倍もするらしい)。
 繰り返しますが、もとよりオランダを北欧に括るわけには行きませんが、訪問した当日も雪化粧に覆われ、凍てつく寒さを体感し、コーヒーの美味しさも実感しました。それにも関わらず、アンティークなホテルには暖房がなく、震える一夜を過ごしました。上の写真は、そのホテルの部屋から見た明け方の可愛らしい街並みです。
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訪欧(中)イタリアのコーヒー

2015-02-14 00:16:23 | 永遠の旅人
 イスタンブールから、再びトルコ航空で、次の訪問地イタリア・ミラノに向かいました。
 ミラノには、かつて個人旅行でドゥオーモや「最後の晩餐」のある教会を見に行ったことがありますが、今回は、到着したマルペンサ空港から、そんな市街地をかすりもせず、市街地を越えて対面にあるリナーテ空港界隈に到着した頃には、夜8時をまわっていました。その日はホテルで食事を済ませて寝るだけ。そのため、丸一日のイタリア滞在で印象に残っているのは、コーヒーの話です。
 イタリアのコーヒーと言えばエスプレッソ。初めて本場の味を口にしたのは、かれこれ四半世紀前、個人旅行でローマを訪れ、折角なので「ローマの休日」よろしくスペイン広場で先ずはアイスクリームを食べてから、傍のコンドッティ通り86番地、1760年に開業したという歴史的なカフェ・グレコに立ち寄ったときのことでした(なんともミーハーな行動パターンです)。ゲーテやスタンダールやイプセンやアンデルセン、音楽家ではリストやメンデルスゾーンも訪れたという、伝説のカフェのエスプレッソですから、日本の喫茶店のように、サイフォン式なのか、さもなければ気難しそうなオヤジが自らとぽとぽ湯を注いでくれるのか・・・と思いきや、機械式だったのには驚かされました。しかも、量が少ない。しかし・・・実に美味い!
 今回、昼食をとりながら、イタリア人の同僚から聞かされたコーヒーの話に、再び驚かされました。スタバ?のテイストなんて邪道。コーヒーは飲むのに30秒とかけるものではない・・・と。
 さらにイタリアにはスタバが進出していないと聞きましたので、ググってみると、確かに一店も出店していないという記事がぞろぞろ出て来ました。寄せられたコメントに曰く、イタリアにはとにかくチェーン店が少ない。飲食業が深夜営業できないのが法律でも定められているので、チェーン店が進出しにくい。独自のバールの文化が根付いている。カフェ文化がとても浸透していて、各都市に美味しい本物のカフェバーがある。イタリアのバールは基本的に立ち飲みで、エスプレッソ一杯が日本円で約90円と格安なので、とても気軽に入れる。立ち飲みでクイッっと飲んですぐ出て行ってしまう。等々。まさに。
 そう言えば、オーストラリアのシドニーでも、イタリア移民のカフェが街中にあって、駐在していた6年ほど前、「スタバ撤退」のニュースを聞いて、さもありなんと納得したものでした。そして私はご多聞に漏れずイタリアン・コーヒーの虜に・・・。そうは言っても、オーストラリアは原理主義ではありませんので、エスプレッソを「ショート」と呼ぶのに対して、ダブルあるいは馴染みのサイズのコーヒーを「ロング」と呼んで、普通に提供していました。私は「ショート」ではどうしても物足りなくて、いつも「ロング・ブラック」。
 さりとて、その昔、「違いが分かる男のゴールド・ブレンド」なんてテレビCMがありましたが、私に違いなど分かろうはずもなく、イタリアン・コーヒーも好きですが、スタバ・フリークでもあります。念のため。
 本日の話題はイタリアでしたが、上の写真は、トルコ航空の機内で振舞われた菓子。イスタンブールの空港で見つけて、つい買ってしまいました。
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