前回触れた話題の三つの大学、「秋田公立美術大学美術学部美術学科」(入学定員100、3年次編入学定員10)、「札幌保健医療大学看護学部看護学科」(入学定員100)、「岡崎女子大学子ども教育学部子ども教育学科」(入学定員100)の行く末を、伊東乾さんが、素人の私とは違って専門家の立場から具体的に案じておられましたので、そのエッセイから抜粋します。
伊東乾さんの、「東京大学で建学以来初の音楽実技教官として13年」やって来られた経験から、また「東京芸術大学はじめ伝統を誇る芸術系教育機関で非常勤指導」もされてきた現場の証人として、と断った上で、「秋田公立美術大」に入学する100人からの若い人が「貴重な青春の4年を『美術』に使ったとして、その先に『美術』の仕事が100は(中略)ない、まったくない、ぜんぜん、もう呆れるほど一切、ない」と断言されていました(苦笑)。例えば欧州、中でも旧東欧には「音楽大学の大学院を出ると『国家演奏家資格』が取得できて生活が一定保証される可能性が高くなる国が少なくなく(中略)要するに医者や弁護士と同様、社会人として活躍して行けるプロとしての資格とそれを支える国の経済システムがある」そうですが、所詮、日本では「確かに学校を出て数年は、OBもOGみんないろんな形で頑張りますが、20代後半になり30を過ぎ、結婚し子供ができ・・・なんて間に、だんだん別の生活になってゆく、それが今の日本社会の現実」だという訳です。
また、「岡崎女子大学」は、短期大学を4年制大学に発展改組することを望んでいるもので、「保母さんや幼稚園の先生は、(美大と比べれば)専門性をもった就労の可能性や資格などとは親和性が高いのかもしれない」けれども、「札幌保健医療大学」は、専門学校を晴れて4年制大学としてスタートするものですが「果たしてこれを4年制大学にする必要があるのか?」と素朴に疑問を投げかけます。「少なくとも4年制の『看護学科』をさらに『大学院重点化』して看護師の修士という珍しい存在を作ったところ、そういった環境から先日の、世にも恥ずかしいiPS細胞移植詐欺・森口さんという人が出てきたのも、記憶に新しいところだ」と、伊東さんは手厳しい。
前置きが長くなりましたが、芸術や医療の世界だけではなく、そもそも一般企業社会でも労働者に決して明るい未来が待っているわけではないことに関して、かれこれ8ヶ月前の日経・経済教室で、東大の伊藤元重教授が展開されていた議論が興味深かったので、要約して紹介します。
随分昔に聞いた話と断りつつ、「働く」という言葉には3つの異なったタイプがあると言います。肉体を使った労働が「レイバー」、工場や事務所での仕事が「ワーク」、そして「プレイヤー」というのは説明が難しいですが、指揮者や歌手やスポーツ選手を例に挙げておられました。「遊ぶ」意味ではなくて、本論稿からすると、人間本来にしか出来ない付加価値の高い仕事というような意味合いでしょうか。かつて産業革命では、多くの「レイバー」が機械に置き換わり、労働者は苦役から解放された反面、仕事を失って、機械に八つ当たりする「打ち壊し」運動が起こったのは、昔、歴史の授業で学んだ記憶があります。もっとも機械が「レイバー」としての労働を奪っても、長い目で見ると、機械の利用が進む中で産業が成長し、「レイバー」より高所得をもたらす「ワーク」としての仕事が増え続けたという意味ではハッピーだったと言えます。そして今や、工場の中の「ワーク」は自動化機械に吸収され、オフィスでの「ワーク」もIT化やビジネス革新や海外の低賃金労働者に奪われ、「ワーク」が減って人が余りつつあります。中には一部に高所得の「プレイヤー」が出ていますが、多くは低賃金の海外の労働者に引き摺られて、所得が上がらない単純労働に成り下がっています。日本をはじめとする先進国で、現在、起こっているのは、こうした構造変革だというわけです。
伊藤教授は、(労働の)需要サイドから、新たな産業を創出する必要があると説きます。ユニクロを展開するファーストリテイリングのような合理的なビジネスモデルの企業が成長すれば、「ワーカー」の仕事は海外に出て行きますが、グローバル化を見据えたマーケティング戦略やデザインなどのプロである「プレイヤー」の仕事は増えるはずだと言います。また製造業が高度化すれば、例えば炭素繊維や高度な産業機械のように日本でなければ出来ない素材や機械を開発するエンジニアの需要は拡大し、「ワーカー」の仕事は海外に一部は取られますが、「プレイヤー」の仕事は増えるはずだと。そして高齢化に伴って、国内で不足する医療や介護の人材を、どれだけ「ワーカー」から「プレイヤー」に変えていくのかも大きな課題だと述べます。理想を言えば、「レイバー」や「ワーカー」部分は出来るだけ機械や情報機器に回して、人間にしか出来ない仕事をどれだけ創り出せるか、これが医療や介護の高度化の課題だと言うわけです。現実はそんなに簡単ではないけれども、少なくともそうした方向を目指さない限り現状は打破できないのだと。
他方、(労働の)供給サイドの取り組みは更に重要だと述べます。次世代の人材を育てない限り「プレイヤー」は増えないだろうし、「プレイヤー」が増えない限り日本の成長もない、教育や技能習得には時間がかかる、しかしそうした道筋をきちんと示せれば、多くの若者は自分の将来に対して明るい展望を持てるだろう、それが経済を活性化するはずだ、人的投資が「プレイヤー」を増やす鍵となる、と。
これまで「レイバー」や「ワーク」が着実に機械や情報機器に置き換わって来たのは確かな現実です。四半世紀前には(そして、つい最近まで)、事務職の女性が部やライン毎に一人はいて、伝票処理やコピー取りを代行してくれて、朝十時と午後三時にお茶を出してくれるという、今となっては信じられないほど長閑で贅沢な風景が当たり前でした。プレゼンテーション資料も、上司が構想を手書きした下書きの紙をもとに、事務職の女性や下積みの若者がワープロや表計算ソフトに入れてプリントアウトして切り貼りしたものをOHPシートと呼ばれる透明シートにコピーし更に半透明の色セロハンを貼りつけて資料として完成させ(なんて長ったらしい説明・・・)、OHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)で映し出すという、前近代的作業を繰り返し、お陰で当時若かった私は誰よりも手際良く「レイバー」をこなせるようになりました。そんなオフィス内の「レイバー」はいつしか駆逐され、今では、アメリカ人のエグゼクティブよろしく、管理職自らパワーポイントで構想の段階からプリントアウトまで全て一人でパソコン上で作業する(あるいは前工程と後工程を分担する)など「レイバー」は「ワーク」や「プレイヤー」業務に吸収されていきました(それは景気が悪くなって若者が入社しなくなった悲劇と裏腹でもあります)。アメリカのエグゼクティブと言えば、日本では部下を一人か二人引き連れて大名旅行するのが当たり前だった当時(というのはアメリカに駐在していた15年くらい前のことです)、一人でレンタカーを運転して顧客やベンダーに乗り込むのが新鮮でカッコ良くもありました。その頃から、アメリカでは各種申請などの事務処理をパソコン上で本人自らが行なうようになるとともに、アシスタントの女性がオフィスから消えて行き、それは程なくして日本でも一般的になりました。
以上のようにIT化がオフィスの生産性をあげ、「レイバー」が駆逐されて「ワーク」や「プレイヤー」業務に取り込まれて行く過程が雇用構造の変化の第一の波だとすれば、マーケットのグローバル化が第二の波となります。勿論、日本の労働市場がグローバル化すれば計り知れない衝撃を与えることになるでしょうが、そんな直接的な影響は当面は限定的で、むしろ間接的にじわじわっと真綿で首を絞められているのが現状です。つまり、競争がグローバルになるということは、コスト競争がグローバルに行われ、日本のように高コストの国内雇用がグローバルな競争に負けることと同義であり、端的には仕事が海外に逃げていく、あるいは正社員が減って派遣社員のように低コストの労働に置き換えれれていく、というのが失われた20年の日本で起こった確かな現実でした。これらの事実を見れば、最低賃金や派遣労働制限など、雇用ありきで考えることの愚は明らかです。
こうした中で、「プレイヤー」全盛の時代ともてはやせるのかどうか、そもそも「プレイヤー」だけで事業が成り立つとは思えませんし、「プレイヤー」にどれほどの需要があるのかも疑問ですし、供給サイドのタレント(人財)もそれほど大量に存在するのか疑問です。しかし、鎖国でもしない限り、あるいはTPPやFTAに参加せず孤立してガラパゴス化していくならいざ知らず、グローバル社会と共存する以上、労働者が生活レベルを落とさないためには相当の覚悟が必要であることは論を俟ちません。一つは、伊藤教授も指摘されていたように、医療や介護のような内需型サービス産業を開拓・拡大することは国内雇用の受け皿の基本であること、もう一つはMade in Japanを支える国内のものづくりはもとよりMade by Japanをも支えグローバルに活躍できる人材を育成するというように、国内にせよ海外にせよ日本企業の労働の全ての領域で高品質をめざし、プロフェッショナル化することが必要であるように思います。日本の教育は、こうした国のありようを支える人材の基礎教育を提供できるか。田中真紀子文科相の投げかけた課題は重いと思います。
伊東乾さんの、「東京大学で建学以来初の音楽実技教官として13年」やって来られた経験から、また「東京芸術大学はじめ伝統を誇る芸術系教育機関で非常勤指導」もされてきた現場の証人として、と断った上で、「秋田公立美術大」に入学する100人からの若い人が「貴重な青春の4年を『美術』に使ったとして、その先に『美術』の仕事が100は(中略)ない、まったくない、ぜんぜん、もう呆れるほど一切、ない」と断言されていました(苦笑)。例えば欧州、中でも旧東欧には「音楽大学の大学院を出ると『国家演奏家資格』が取得できて生活が一定保証される可能性が高くなる国が少なくなく(中略)要するに医者や弁護士と同様、社会人として活躍して行けるプロとしての資格とそれを支える国の経済システムがある」そうですが、所詮、日本では「確かに学校を出て数年は、OBもOGみんないろんな形で頑張りますが、20代後半になり30を過ぎ、結婚し子供ができ・・・なんて間に、だんだん別の生活になってゆく、それが今の日本社会の現実」だという訳です。
また、「岡崎女子大学」は、短期大学を4年制大学に発展改組することを望んでいるもので、「保母さんや幼稚園の先生は、(美大と比べれば)専門性をもった就労の可能性や資格などとは親和性が高いのかもしれない」けれども、「札幌保健医療大学」は、専門学校を晴れて4年制大学としてスタートするものですが「果たしてこれを4年制大学にする必要があるのか?」と素朴に疑問を投げかけます。「少なくとも4年制の『看護学科』をさらに『大学院重点化』して看護師の修士という珍しい存在を作ったところ、そういった環境から先日の、世にも恥ずかしいiPS細胞移植詐欺・森口さんという人が出てきたのも、記憶に新しいところだ」と、伊東さんは手厳しい。
前置きが長くなりましたが、芸術や医療の世界だけではなく、そもそも一般企業社会でも労働者に決して明るい未来が待っているわけではないことに関して、かれこれ8ヶ月前の日経・経済教室で、東大の伊藤元重教授が展開されていた議論が興味深かったので、要約して紹介します。
随分昔に聞いた話と断りつつ、「働く」という言葉には3つの異なったタイプがあると言います。肉体を使った労働が「レイバー」、工場や事務所での仕事が「ワーク」、そして「プレイヤー」というのは説明が難しいですが、指揮者や歌手やスポーツ選手を例に挙げておられました。「遊ぶ」意味ではなくて、本論稿からすると、人間本来にしか出来ない付加価値の高い仕事というような意味合いでしょうか。かつて産業革命では、多くの「レイバー」が機械に置き換わり、労働者は苦役から解放された反面、仕事を失って、機械に八つ当たりする「打ち壊し」運動が起こったのは、昔、歴史の授業で学んだ記憶があります。もっとも機械が「レイバー」としての労働を奪っても、長い目で見ると、機械の利用が進む中で産業が成長し、「レイバー」より高所得をもたらす「ワーク」としての仕事が増え続けたという意味ではハッピーだったと言えます。そして今や、工場の中の「ワーク」は自動化機械に吸収され、オフィスでの「ワーク」もIT化やビジネス革新や海外の低賃金労働者に奪われ、「ワーク」が減って人が余りつつあります。中には一部に高所得の「プレイヤー」が出ていますが、多くは低賃金の海外の労働者に引き摺られて、所得が上がらない単純労働に成り下がっています。日本をはじめとする先進国で、現在、起こっているのは、こうした構造変革だというわけです。
伊藤教授は、(労働の)需要サイドから、新たな産業を創出する必要があると説きます。ユニクロを展開するファーストリテイリングのような合理的なビジネスモデルの企業が成長すれば、「ワーカー」の仕事は海外に出て行きますが、グローバル化を見据えたマーケティング戦略やデザインなどのプロである「プレイヤー」の仕事は増えるはずだと言います。また製造業が高度化すれば、例えば炭素繊維や高度な産業機械のように日本でなければ出来ない素材や機械を開発するエンジニアの需要は拡大し、「ワーカー」の仕事は海外に一部は取られますが、「プレイヤー」の仕事は増えるはずだと。そして高齢化に伴って、国内で不足する医療や介護の人材を、どれだけ「ワーカー」から「プレイヤー」に変えていくのかも大きな課題だと述べます。理想を言えば、「レイバー」や「ワーカー」部分は出来るだけ機械や情報機器に回して、人間にしか出来ない仕事をどれだけ創り出せるか、これが医療や介護の高度化の課題だと言うわけです。現実はそんなに簡単ではないけれども、少なくともそうした方向を目指さない限り現状は打破できないのだと。
他方、(労働の)供給サイドの取り組みは更に重要だと述べます。次世代の人材を育てない限り「プレイヤー」は増えないだろうし、「プレイヤー」が増えない限り日本の成長もない、教育や技能習得には時間がかかる、しかしそうした道筋をきちんと示せれば、多くの若者は自分の将来に対して明るい展望を持てるだろう、それが経済を活性化するはずだ、人的投資が「プレイヤー」を増やす鍵となる、と。
これまで「レイバー」や「ワーク」が着実に機械や情報機器に置き換わって来たのは確かな現実です。四半世紀前には(そして、つい最近まで)、事務職の女性が部やライン毎に一人はいて、伝票処理やコピー取りを代行してくれて、朝十時と午後三時にお茶を出してくれるという、今となっては信じられないほど長閑で贅沢な風景が当たり前でした。プレゼンテーション資料も、上司が構想を手書きした下書きの紙をもとに、事務職の女性や下積みの若者がワープロや表計算ソフトに入れてプリントアウトして切り貼りしたものをOHPシートと呼ばれる透明シートにコピーし更に半透明の色セロハンを貼りつけて資料として完成させ(なんて長ったらしい説明・・・)、OHP(オーバー・ヘッド・プロジェクター)で映し出すという、前近代的作業を繰り返し、お陰で当時若かった私は誰よりも手際良く「レイバー」をこなせるようになりました。そんなオフィス内の「レイバー」はいつしか駆逐され、今では、アメリカ人のエグゼクティブよろしく、管理職自らパワーポイントで構想の段階からプリントアウトまで全て一人でパソコン上で作業する(あるいは前工程と後工程を分担する)など「レイバー」は「ワーク」や「プレイヤー」業務に吸収されていきました(それは景気が悪くなって若者が入社しなくなった悲劇と裏腹でもあります)。アメリカのエグゼクティブと言えば、日本では部下を一人か二人引き連れて大名旅行するのが当たり前だった当時(というのはアメリカに駐在していた15年くらい前のことです)、一人でレンタカーを運転して顧客やベンダーに乗り込むのが新鮮でカッコ良くもありました。その頃から、アメリカでは各種申請などの事務処理をパソコン上で本人自らが行なうようになるとともに、アシスタントの女性がオフィスから消えて行き、それは程なくして日本でも一般的になりました。
以上のようにIT化がオフィスの生産性をあげ、「レイバー」が駆逐されて「ワーク」や「プレイヤー」業務に取り込まれて行く過程が雇用構造の変化の第一の波だとすれば、マーケットのグローバル化が第二の波となります。勿論、日本の労働市場がグローバル化すれば計り知れない衝撃を与えることになるでしょうが、そんな直接的な影響は当面は限定的で、むしろ間接的にじわじわっと真綿で首を絞められているのが現状です。つまり、競争がグローバルになるということは、コスト競争がグローバルに行われ、日本のように高コストの国内雇用がグローバルな競争に負けることと同義であり、端的には仕事が海外に逃げていく、あるいは正社員が減って派遣社員のように低コストの労働に置き換えれれていく、というのが失われた20年の日本で起こった確かな現実でした。これらの事実を見れば、最低賃金や派遣労働制限など、雇用ありきで考えることの愚は明らかです。
こうした中で、「プレイヤー」全盛の時代ともてはやせるのかどうか、そもそも「プレイヤー」だけで事業が成り立つとは思えませんし、「プレイヤー」にどれほどの需要があるのかも疑問ですし、供給サイドのタレント(人財)もそれほど大量に存在するのか疑問です。しかし、鎖国でもしない限り、あるいはTPPやFTAに参加せず孤立してガラパゴス化していくならいざ知らず、グローバル社会と共存する以上、労働者が生活レベルを落とさないためには相当の覚悟が必要であることは論を俟ちません。一つは、伊藤教授も指摘されていたように、医療や介護のような内需型サービス産業を開拓・拡大することは国内雇用の受け皿の基本であること、もう一つはMade in Japanを支える国内のものづくりはもとよりMade by Japanをも支えグローバルに活躍できる人材を育成するというように、国内にせよ海外にせよ日本企業の労働の全ての領域で高品質をめざし、プロフェッショナル化することが必要であるように思います。日本の教育は、こうした国のありようを支える人材の基礎教育を提供できるか。田中真紀子文科相の投げかけた課題は重いと思います。