風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

大相撲における品格

2019-04-30 02:27:22 | スポーツ・芸能好き
 今日は(平成最後の)昭和の日だった。私が子供の頃は(昭和)天皇誕生日として親しまれた日だ。そう言えば、昭和天皇は大相撲が大層お好きだった。それだけに、白鵬がモンゴル国籍離脱申請をし、日本国籍取得に向けて動き出すや、そんな柄じゃないとばかりの白鵬バッシングが俄かに湧き起こり(便宜上、ここではそれを守旧派と呼ぶ)、いや、それこそ外国人排斥の頑迷固陋で、そんなことでは大相撲の将来はないと非難する声が対抗する(同じく、革新派と呼ぶ)場外戦には、草葉の陰でさぞ渋い顔をなさっていることだろう。
 双方の主張の間には、「品格」という問題が横たわる。
 「品格」の問題は実は古くない。革新派によれば、大鵬と柏戸が拳銃を不法所持していても、輪島が年寄株を抵当に入れて借金して廃業しても、双羽黒がおかみさんを突き飛ばして部屋を飛び出しても、いずれも日本人横綱であれば品格は問題にされなかったではないかとの剣幕だが、当時の横綱にそもそも「品格」の問題はありようがなかった。
 問題になるようになったのは、外国出身力士が活躍するようになってから、しかも単なる活躍ではない。例えば小錦(ハワイ出身)が1992年春場所までに13勝(優勝)、12勝、13勝(優勝)の成績で横綱に推挙されたが見送られた際、小錦自ら「横綱になれないのは人種差別があるからだ。もし自分が日本人だったらとっくに上がっているはずだ」と語ったという趣旨の記事がニューヨーク・タイムズ紙に掲載されて物議を醸し(後に、本人ではなく付き人のハワイ出身力士が本人に成り済まして語ったとされた)、作家の児島襄氏が月刊誌「文藝春秋」に「『外人横綱』は要らない」という論文を寄稿して、「国技である相撲は、守礼を基本とする日本の精神文化そのものであり、歴史や言語の違う外国人には理解できない」と述べたあたりから、後に外国出身横綱が曙、武蔵丸、朝青龍・・・と誕生するようになる頃に、顕在化してきた問題であることが想像される。言わば文化摩擦である。
 しかし守旧派の気持ちも分からないではない。
 最近のことで言えば、2017年の九州場所11日目、立ち合いで先に嘉風の顔を張ったがそのまま嘉風に攻められ黒星を喫した取組みで、白鵬は立ち合いが合わず「あれは待っただ」と物言いをつけて土俵上で立ち尽くし、土俵下でも残って抗議を続けたことがあった。同じ場所の千秋楽表彰式では万歳三唱し、懲りずに今年の春場所千秋楽ではインタビューのときに「平成最後なので皆さんで三本で締めたいと思います」と観客に三本締めを強いた。こんなことは、これまでの横綱にはあり得ないことだ。
 こうした、何様!?と思わせるような傲慢な振る舞いだけでなく、以前はよく立ち合いで相手の顔を張り、強烈な「カチ上げ」をかまし(プロレスのエルボーのような威力で)、ときには「猫だまし」までし、また勝敗が決まった後も、ダメ押しで相手を土俵下につき飛ばすこともあり、その取り口は横綱としての「品格」に欠けると横審(横綱審議委員会)から「物言い」をつけられていた。私に言わせれば、懸賞金の受け取り方も勿体をつけており(笑)、三代目若乃花の花田虎上氏に言わせれば、白鵬の立ち合いは「ずるい」のだそうだ。本来、横綱の立ち合いと言えば「後の先」などと表現されるように、相手有利の呼吸で受けて立ち、それでも勝ってこそ横綱のはずだが、ただでさえ強い白鵬は相手と呼吸を合わせると言うより100%自分の呼吸で、つまり白鵬の左手がついた瞬間に立ち合い成立という暗黙の了解になっているとまで解説する人もいて、そんな自分本位の絶対優位の立ち合いでは、勝っても有難みがないではないか。
 そんなこんなで、白鵬が何らかの処分を受けた不祥事の数は、今回の三本締めを入れると23件と、暴行事件を起こして引退した元横綱・朝青龍の25件に次ぐそうだ。言うまでもないことだが、横綱推挙状の文面には「品格、力量抜群に付、横綱に推挙す」とあり、ただ強いだけでは横綱にはなれない。「力量」より先に「品格」が挙げられているように、勝ちっぷりにも負けっぷりにも横綱らしい「品格」が求められる。この点で、白鵬にしても朝青龍にしても、勝ちに拘るのは立派だが、それだけに大相撲を格闘技としてしか見ていないフシがあり、それは外国人(と差別するつもりはないのだが)には仕方ない面があるのかも知れない。なにしろ相撲は、元々は神道に基づいた神事であり、日本国内各地で「祭り」として奉納相撲が行われているように、礼儀作法が重視される言わば伝統芸能の一つと言うべきであって、純粋な意味でのスポーツでも格闘技でもないことは、日本人であれば感覚的に分かっていることだからだ。
 守旧派による白鵬バッシングが外国出身だからだとすれば気の毒だが、どうも多くの人の反応は、革新派がなじるように、日本の大相撲がモンゴル出身者(のような外国出身者)に牛耳られる、というような薄っぺらな警戒ではなく、大相撲が長年守ってきた風情が変わってしまうことへの哀惜であろうと思われる(というのは必ずしも明示的ではないかも知れないが)。もし巷間伝えられるように、白鵬が日本人横綱として2020年東京五輪開会式で土俵入りし、これまで4人しかいない「一代年寄」となって白鵬部屋を開き、ゆくゆくは理事長の椅子まで狙っているとすれば、「郷に入っては郷に従え」で、横綱の「品格」とやらを理解し、横綱らしい立ち居振る舞いを身につけてこそ、日本の伝統芸能を担う一員たり得るのだろうと思う。モンゴル出身力士が、長らく低迷する日本の伝統芸能を支えてくれたのは事実だが、だからと言って古来のしきたりや規則を(意味があるかどうかは別にして)曲げてまで、おもねる必要があるとは思わない。所謂ウィンブルドン現象そのものなのだが、グローバルなスポーツであるテニスと、日本古来の伝統芸能である大相撲との違いである。
 こうして見ると、19年ぶりの和製横綱となった稀勢の里が如何に歓迎されたかが昨日のことのように思い出されるし、今年初場所での引退は今さらのように惜しまれる。横綱在位12場所で皆勤は僅かに2場所にとどまり、横綱としての通算成績36勝36敗97休は実に不本意なもので、他にも金星献上や8連敗(不戦敗を除く)など、横綱としての不名誉な記録は数多あるが、白鵬のような横綱らしからぬ「明るさ」「軽さ」(と言っては失礼だが 笑)とは対極の、横綱らしい「孤高」のイメージが好まれ、それがそのまま「品格」を感じさせた。ケガのことを聞かれても多くを語らないような、勝負師としての厳しさがあったし、引退を決意したときの心境を問われて、「そうですね。横綱として、皆さまの期待に沿えられないということは、非常に悔いは残りますが、私の…土俵人生において一片の悔いもございません」と答える有名な一節の中で、横綱として「期待」に応えることの重大さに触れた。振り返れば、2年前の春場所で、左上腕などのケガを押して奇跡の逆転優勝を成し遂げ、表彰式の君が代斉唱で涙を流したのは感動的だったが、責任感の強さが却って仇になり、無理がたたって、横綱の寿命を縮めてしまったようなものだった。一つの悲劇ではあるが、これも守旧派にしてみれば、稀勢の里のようなやや思い入れの強い横綱の宿命として甘受すべきなのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする