作詞家のなかにし礼さんが亡くなった。享年82。日経は追悼記事で、「ライバルでもあった作詞家の阿久悠とともに昭和の歌謡曲黄金期を彩った才人」と称えた。
作詞は4000曲以上にも及ぶらしい。しかし少なくとも私にとって歌はメロディから入るので、詞を気にすることは余りない。ところが、なかにし礼さんが手がけた曲を挙げて行くと、「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ、67年)、「天使の誘惑」(黛ジュン、68年)、「夜と朝のあいだに」(ピーター、69年)、「恋の奴隷」(奥村チヨ、69年)、「人形の家」(弘田三枝子、69年)、「あなたならどうする」(いしだあゆみ、70年)、「手紙」(由紀さおり、70年)、「グッド・バイ・マイ・ラブ」(アン・ルイス、74年)、「時には娼婦のように」(黒沢年男、78年、作曲も担当)など、子供のころに何気なく口ずさんで、メロディーもさることながら、タイトルや歌詞にもインパクトがあって強い印象が残っていることに気がつく。歌がヒットする理由を尋ねられて、「屈折」と即答されたというのは実に興味深い。旧満州に生まれ、旧ソ連軍が侵攻する中で命からがら引き揚げてきた幼少時の体験をもつ、なかにし礼さんが、「人形の家」について、晩年のインタビューで、「終戦時、国は在外邦人をできるだけ現地に定着させるという方針を出した。あれは帰ってくるなということでしょう。日本国や日本国民から顔もみたくないほど嫌われたという思いがあった。それを歌にしたんです」と明かしているのは象徴的だ。生まれ故郷や祖国や愛する人への愛情が、心ならずも成就されなかったりある種の裏切りにあったり、昭和元禄とも言われた熱狂や喧噪の世相の中で満たされない思いを抱いたり、「屈折」こそ、昭和の歌謡を生み出す原動力としての、地下の奥深くでどろどろと煮えたぎるマグマのような情念だったのだろうと思う。昭和という時代は、暗い中にも明るい未来があり、しばしば絶頂から谷底に突き落とされもし、騒然とした中にも突き抜けた青空があって、苦労が多いけれども幸せとも言えた、そんな陰影に富む二律背反の時代だったように思う。
音楽評論家の富澤一誠さんは、なかにし礼さんの作詞の特徴を、「極めて文学的な要素が強い」と表現し、「作詞を俳句や短歌と並ぶ日本文学にまで昇華させた」と評価された。ご本人も、「歌謡曲は日本文学の1つのジャンルであり、自分は万葉集からつらなる伝統の中にいると明確に意識していた」と語られたそうで、今日のブログ・タイトルはその言葉に触発されて頂戴した。他方で、それまでの流行歌や軍歌が「七五調」が主流だったのに対し、「自分は絶対に七五調は使わない」ことを作詞の鉄則とし、「破調のリズムで日本人の心を動かしたい」とも語られていたそうで、屈折ゆえの反骨のようなものの面目、「守・離・破」の「破」を気取りながら、日本の伝統の内にあることを強烈に意識されていたことに共感を覚える。「万葉集」と言えば、防人の歌で有名だが、4割は恋愛の歌だと言われる。戦地に赴く山本五十六・連合艦隊司令長官が艦内に持ち込んだ本の中にも「万葉集」はあった。ほんの80年前のことである。祖国を守ることは、祖国の人々を守ることであり、情の発露として「万葉集」は心の支えになったのだろうか。
日本は、今も昔も、情の細やかな、という意味で稀有な国柄だと、あらためて思う。
作詞は4000曲以上にも及ぶらしい。しかし少なくとも私にとって歌はメロディから入るので、詞を気にすることは余りない。ところが、なかにし礼さんが手がけた曲を挙げて行くと、「恋のフーガ」(ザ・ピーナッツ、67年)、「天使の誘惑」(黛ジュン、68年)、「夜と朝のあいだに」(ピーター、69年)、「恋の奴隷」(奥村チヨ、69年)、「人形の家」(弘田三枝子、69年)、「あなたならどうする」(いしだあゆみ、70年)、「手紙」(由紀さおり、70年)、「グッド・バイ・マイ・ラブ」(アン・ルイス、74年)、「時には娼婦のように」(黒沢年男、78年、作曲も担当)など、子供のころに何気なく口ずさんで、メロディーもさることながら、タイトルや歌詞にもインパクトがあって強い印象が残っていることに気がつく。歌がヒットする理由を尋ねられて、「屈折」と即答されたというのは実に興味深い。旧満州に生まれ、旧ソ連軍が侵攻する中で命からがら引き揚げてきた幼少時の体験をもつ、なかにし礼さんが、「人形の家」について、晩年のインタビューで、「終戦時、国は在外邦人をできるだけ現地に定着させるという方針を出した。あれは帰ってくるなということでしょう。日本国や日本国民から顔もみたくないほど嫌われたという思いがあった。それを歌にしたんです」と明かしているのは象徴的だ。生まれ故郷や祖国や愛する人への愛情が、心ならずも成就されなかったりある種の裏切りにあったり、昭和元禄とも言われた熱狂や喧噪の世相の中で満たされない思いを抱いたり、「屈折」こそ、昭和の歌謡を生み出す原動力としての、地下の奥深くでどろどろと煮えたぎるマグマのような情念だったのだろうと思う。昭和という時代は、暗い中にも明るい未来があり、しばしば絶頂から谷底に突き落とされもし、騒然とした中にも突き抜けた青空があって、苦労が多いけれども幸せとも言えた、そんな陰影に富む二律背反の時代だったように思う。
音楽評論家の富澤一誠さんは、なかにし礼さんの作詞の特徴を、「極めて文学的な要素が強い」と表現し、「作詞を俳句や短歌と並ぶ日本文学にまで昇華させた」と評価された。ご本人も、「歌謡曲は日本文学の1つのジャンルであり、自分は万葉集からつらなる伝統の中にいると明確に意識していた」と語られたそうで、今日のブログ・タイトルはその言葉に触発されて頂戴した。他方で、それまでの流行歌や軍歌が「七五調」が主流だったのに対し、「自分は絶対に七五調は使わない」ことを作詞の鉄則とし、「破調のリズムで日本人の心を動かしたい」とも語られていたそうで、屈折ゆえの反骨のようなものの面目、「守・離・破」の「破」を気取りながら、日本の伝統の内にあることを強烈に意識されていたことに共感を覚える。「万葉集」と言えば、防人の歌で有名だが、4割は恋愛の歌だと言われる。戦地に赴く山本五十六・連合艦隊司令長官が艦内に持ち込んだ本の中にも「万葉集」はあった。ほんの80年前のことである。祖国を守ることは、祖国の人々を守ることであり、情の発露として「万葉集」は心の支えになったのだろうか。
日本は、今も昔も、情の細やかな、という意味で稀有な国柄だと、あらためて思う。