呪われた五輪というのは、麻生副総理が言われたのだっただろうか。まさに呪われたほど直前まで不祥事が続き、始まってなお賛否両論が絶えず、開会式の黙祷の場面では場外から「五輪やめろ」のデモの声が響いて、清少納言ならさしずめ「あな、あさまし」などと眉を顰めたのではなかろうか(笑)。一体、この混乱をどう収拾すればいいのか。
既に5日目に入って、連日、繰り広げられる熱戦に、涙をぼろぼろ流しながら感情移入する私は、パンデミックで荒んだ心がすっかり浄化されたかのように爽やかである(笑)。もはや開会式のことなどどうでもいいが、とりあえず順を追って書き残すことにしたいと思う。
何より印象に残るのは、天皇陛下の開会宣言は、もっと大仰なものかと思っていたら、「全文」を伝える記事には僅か一行、「私は、ここに、第三十二回近代オリンピアードを記念する、東京大会の開会を宣言します」というだけのシンプルなものだったことだ。過去には、「オリンピアードを」「祝い」と言われて来たところ、「記念する」と言い換えられたところに、現下の環境における天皇陛下の、そして世間の苦悩が凝縮しているように思えた。
海外のメディア報道は、開会式を揶揄するものもあるにはあったが、「非常に控えめなセレモニー」(英ガーディアン紙)だとか、「簡素だが、詩的、文化的側面は劣っていない」(仏国営テレビ)だとか、「カラフルではあるが、妙に落ち着いたセレモニーが独特なパンデミックの中でのオリンピックにふさわしい雰囲気を醸し出した」(AP通信)などと、大人の寛容を見せてくれたものだけ引用しておく(笑)。ベルギー通信社ベルガの記者に至っては、「厳しい状況だが、大会中止より、無観客でも開催される方がいい。他の国がホスト国だったら、日本のように開けるかは分からない」とまでヨイショしてくれた。他方、NYタイムズ紙のように、「2016年のリオ五輪では施設の建設が遅れた問題があった。五輪が始まる前はいつもネガティブなニュースが出る」と指摘し、現在の東京五輪に対する批判も特別な状況ではないといった冷静な声もあった。いやまさにその通りなのだ。だからこそ、根本に立ち返るべきなのだが、これについては後述する。総じて、社交辞令を剥ぎ取ってしまえば、無観客であるのはやはり寂しく、世界的なイベントに相応しい派手さに乏しい、地味なものだった、ということに尽きるのかも知れない。そのため、当初、東日本大震災からの力強い復興を示すことを目指しながら、パンデミックに今なお翻弄されて打ち勝ったことすら示すことができず、メッセージ性がないと、実に安易で残酷な言い草まであった。しかし、メッセージなど、所詮フォーマリティを整えるための自己満足でしかなく、そこに拘る必然性はもはや乏しいように思う。
選手団の入場行進に使われたのは、ドラクエやFFなどのゲーム音楽だった。此度のオリンピック参加世代には恐らく馴染みのものだろうし、日本が世界に誇るポップ・カルチャーの代表であるのは間違いないが、私のようにゲームに関心がない者は物足りなく思ったに違いない。
50種目のピクトグラム・パフォーマンスは、欽ちゃんの仮装大賞のようだと揶揄する声があった。日本人らしい職人技はなかなかよく出来ていると思う一方、世界の檜舞台でこの手作り感がどこまで通用するのか疑問に思っていたら、案に相違して、そのコミカルな動きが好感を集めたようだ。NBC Olympicsのウェブサイトでは、「オリンピックの開会式には、厳かで感動的なものなど多くの印象的な場面があった。しかし“人間ピクトグラム”のパフォーマンスほど純粋に楽しめたものはない」などと紹介された。
さらに、競技場の上空で1824台のドローンが市松模様のエンブレムを形成したかと思うと、地球の形に変わるパフォーマンスを見せて、日本の技術は素晴らしいと感嘆する声があがった。しかし、使われたのは米インテルのShooting Starシステムだった。因みに、2018年の平昌五輪でも使われたが、本番でトラブルがあったため、事前に撮影された映像が使われたらしい。なお、2~3年前に中国が100機超のドローンを軍事演習に使って話題になった。しかし、軍事で言うところの「ドローン・スウォーム」は、本来は各ドローンが自己判断で自律戦闘を行う徘徊型兵器であり、さらに群れの仲間同士で連携を行いながら、群れ全体が一つの生き物のように戦う群体兵器システムであって、敵と味方と非戦闘員を識別して戦闘を行うには高度な人工知能を完成させる必要があり、実用化はまだ当分先の話のようで、予めプログラムされた今回のような趣向とは次元が違うようだ。
ことほど左様に、いまどき、何をするにしてもcontroversialにならざるを得ない。オリンピックという格式を重んじる方からは厳しい目が向けられ、三枝成彰さんは、「ロンドン五輪では英国を代表する指揮者のサイモン・ラトルが演奏し、北京五輪では国際的映画監督のチャン・イーモウが演出した。どちらもその国の文化の顔ともいえる人物で、スポーツと文化の大国であることを十分にアピールしていた。東京五輪の人選にはそうした文化への深い理解がまったく感じられない。元文科相や政府首脳らのお歴々が、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを知らないからこうなるのだ」と手厳しい。その限りでは仰る通り。たけしさんは、「きのうの開会式、面白かったですね。ずいぶん寝ちゃいましたよ」と皮肉を交えながら、「驚きました。金返してほしいですよね。税金からいくらか出ているだろうから、金返せよ。外国に恥ずかしくて行けないよ」と、これまた突き放された。巨匠には物足りなかったのかも知れない。
誰のための五輪か?といった議論もあった。こうした国際的な舞台を日本が演出するのは、もはや私の世代が思うほど晴れがましいものではなく、成熟した日本が国民の総意として歓迎するのは難しいのかも知れない。子供の頃、大坂万国博覧会に心躍らせ、札幌五輪のテレビ放映にかじりついたといった記憶は、スガ総理が国会で、子供たちに夢を見させたいというような答弁をされたことと大同小異で、昭和という時代のノスタルジーでしかないのかも知れない。今や海外には(パンデミックさえなければ)簡単に出掛けることができるし、SNSでリアルタイム・コミュニケーションを取ることができ、多様性と調和といった五輪テーマとは真逆の、トランプ氏のように自国第一を公言して憚らないアメリカ合衆国大統領が登場する時代である。日本代表というプレッシャーに圧し潰されて自害された円谷幸吉さんのような方はもう出て来ないだろう(と言う意味では、実感と言うより観念的に日本を捉えているのではないかと思える大坂なおみさんが3回戦で敗退して謝罪したのは、ちょっと気の毒だった)。むしろ、オリンピックでなくとも、実力を試すために物おじすることなく世界の舞台に飛び出し、のびのびとプレーし、プレッシャーさえ楽しむような時代だ。他方で、旧態依然たるIOCの運営が物議を醸し、コマーシャリズムや五輪貴族ぶりが批判された。テニスの参加選手からクレームがあがったように、日本のこのクソ暑い時期の、しかも最悪の時間帯に競技を行わせる理不尽が、最大のスポンサーであるアメリカに配慮されたものであることを知らない者はない。かつて8割の日本人が東京五輪誘致を歓迎し、今、8割の日本人が延期や中止を訴えるのは、パンデミックの閉塞感がもたらすストレスのせいではないのではなく、こうした前時代を引き摺る五輪の虚飾に嫌悪しているに過ぎないのではないだろうか。競技が始まれば、日本人は熱中すると、スガ総理は見切っておられたようで、その限りにおいてはその通りだが、根本的な不信が消えるものではなさそうだ。もはや金満国しか誘致出来ないほどにぶくぶくに膨れ上がった肥満体の五輪は、手垢にまみれて、魅力に乏しく、見苦しくすらある。いっそのこと持ち回りを止めてアテネでの永久開催にしてはどうかという斬新な意見が出ていたが、そういうことを考えてもよいのではないかと思う。純粋に、スポーツのドラマ性に、限界に挑む人間の美しさに、感動するだけでよいのではないかと思う。
そんな中、唯一、選手団の入場行進が「あいうえお」順であったことに新鮮な驚きを覚えた。台湾がこれまでの「チャイニーズ・タイペイ」の「チャ・・・」ではなく「タイペイ」に基づいて、大韓民国とタジキスタンの間に登場したこと、NHKの和久田麻由子アナウンサーが「台湾」と紹介したことは、台湾の多くの人を歓喜させた。他方、米NBCテレビは、中国の選手団の入場行進の際、台湾を含まない中国の地図を画面上に映したため、中国から「中国人民の尊厳と感情を傷つけた」としてクレームを受けた。今だに国民ではなく人民と呼ぶのは奇異以外の何ものでもないし、「人民の尊厳と感情を傷つけた」などと文句を言う国も、この広い世界に他にいなさそうだ(いや、韓国や北朝鮮はそれに近いことを言うかも知れない 笑)。そんな中国の、歴史を逆行するような在り様もまた、いずれ手厳しいしっぺ返しを受けるのではないかと思う。
既に5日目に入って、連日、繰り広げられる熱戦に、涙をぼろぼろ流しながら感情移入する私は、パンデミックで荒んだ心がすっかり浄化されたかのように爽やかである(笑)。もはや開会式のことなどどうでもいいが、とりあえず順を追って書き残すことにしたいと思う。
何より印象に残るのは、天皇陛下の開会宣言は、もっと大仰なものかと思っていたら、「全文」を伝える記事には僅か一行、「私は、ここに、第三十二回近代オリンピアードを記念する、東京大会の開会を宣言します」というだけのシンプルなものだったことだ。過去には、「オリンピアードを」「祝い」と言われて来たところ、「記念する」と言い換えられたところに、現下の環境における天皇陛下の、そして世間の苦悩が凝縮しているように思えた。
海外のメディア報道は、開会式を揶揄するものもあるにはあったが、「非常に控えめなセレモニー」(英ガーディアン紙)だとか、「簡素だが、詩的、文化的側面は劣っていない」(仏国営テレビ)だとか、「カラフルではあるが、妙に落ち着いたセレモニーが独特なパンデミックの中でのオリンピックにふさわしい雰囲気を醸し出した」(AP通信)などと、大人の寛容を見せてくれたものだけ引用しておく(笑)。ベルギー通信社ベルガの記者に至っては、「厳しい状況だが、大会中止より、無観客でも開催される方がいい。他の国がホスト国だったら、日本のように開けるかは分からない」とまでヨイショしてくれた。他方、NYタイムズ紙のように、「2016年のリオ五輪では施設の建設が遅れた問題があった。五輪が始まる前はいつもネガティブなニュースが出る」と指摘し、現在の東京五輪に対する批判も特別な状況ではないといった冷静な声もあった。いやまさにその通りなのだ。だからこそ、根本に立ち返るべきなのだが、これについては後述する。総じて、社交辞令を剥ぎ取ってしまえば、無観客であるのはやはり寂しく、世界的なイベントに相応しい派手さに乏しい、地味なものだった、ということに尽きるのかも知れない。そのため、当初、東日本大震災からの力強い復興を示すことを目指しながら、パンデミックに今なお翻弄されて打ち勝ったことすら示すことができず、メッセージ性がないと、実に安易で残酷な言い草まであった。しかし、メッセージなど、所詮フォーマリティを整えるための自己満足でしかなく、そこに拘る必然性はもはや乏しいように思う。
選手団の入場行進に使われたのは、ドラクエやFFなどのゲーム音楽だった。此度のオリンピック参加世代には恐らく馴染みのものだろうし、日本が世界に誇るポップ・カルチャーの代表であるのは間違いないが、私のようにゲームに関心がない者は物足りなく思ったに違いない。
50種目のピクトグラム・パフォーマンスは、欽ちゃんの仮装大賞のようだと揶揄する声があった。日本人らしい職人技はなかなかよく出来ていると思う一方、世界の檜舞台でこの手作り感がどこまで通用するのか疑問に思っていたら、案に相違して、そのコミカルな動きが好感を集めたようだ。NBC Olympicsのウェブサイトでは、「オリンピックの開会式には、厳かで感動的なものなど多くの印象的な場面があった。しかし“人間ピクトグラム”のパフォーマンスほど純粋に楽しめたものはない」などと紹介された。
さらに、競技場の上空で1824台のドローンが市松模様のエンブレムを形成したかと思うと、地球の形に変わるパフォーマンスを見せて、日本の技術は素晴らしいと感嘆する声があがった。しかし、使われたのは米インテルのShooting Starシステムだった。因みに、2018年の平昌五輪でも使われたが、本番でトラブルがあったため、事前に撮影された映像が使われたらしい。なお、2~3年前に中国が100機超のドローンを軍事演習に使って話題になった。しかし、軍事で言うところの「ドローン・スウォーム」は、本来は各ドローンが自己判断で自律戦闘を行う徘徊型兵器であり、さらに群れの仲間同士で連携を行いながら、群れ全体が一つの生き物のように戦う群体兵器システムであって、敵と味方と非戦闘員を識別して戦闘を行うには高度な人工知能を完成させる必要があり、実用化はまだ当分先の話のようで、予めプログラムされた今回のような趣向とは次元が違うようだ。
ことほど左様に、いまどき、何をするにしてもcontroversialにならざるを得ない。オリンピックという格式を重んじる方からは厳しい目が向けられ、三枝成彰さんは、「ロンドン五輪では英国を代表する指揮者のサイモン・ラトルが演奏し、北京五輪では国際的映画監督のチャン・イーモウが演出した。どちらもその国の文化の顔ともいえる人物で、スポーツと文化の大国であることを十分にアピールしていた。東京五輪の人選にはそうした文化への深い理解がまったく感じられない。元文科相や政府首脳らのお歴々が、歴史、哲学、芸術などのリベラルアーツを知らないからこうなるのだ」と手厳しい。その限りでは仰る通り。たけしさんは、「きのうの開会式、面白かったですね。ずいぶん寝ちゃいましたよ」と皮肉を交えながら、「驚きました。金返してほしいですよね。税金からいくらか出ているだろうから、金返せよ。外国に恥ずかしくて行けないよ」と、これまた突き放された。巨匠には物足りなかったのかも知れない。
誰のための五輪か?といった議論もあった。こうした国際的な舞台を日本が演出するのは、もはや私の世代が思うほど晴れがましいものではなく、成熟した日本が国民の総意として歓迎するのは難しいのかも知れない。子供の頃、大坂万国博覧会に心躍らせ、札幌五輪のテレビ放映にかじりついたといった記憶は、スガ総理が国会で、子供たちに夢を見させたいというような答弁をされたことと大同小異で、昭和という時代のノスタルジーでしかないのかも知れない。今や海外には(パンデミックさえなければ)簡単に出掛けることができるし、SNSでリアルタイム・コミュニケーションを取ることができ、多様性と調和といった五輪テーマとは真逆の、トランプ氏のように自国第一を公言して憚らないアメリカ合衆国大統領が登場する時代である。日本代表というプレッシャーに圧し潰されて自害された円谷幸吉さんのような方はもう出て来ないだろう(と言う意味では、実感と言うより観念的に日本を捉えているのではないかと思える大坂なおみさんが3回戦で敗退して謝罪したのは、ちょっと気の毒だった)。むしろ、オリンピックでなくとも、実力を試すために物おじすることなく世界の舞台に飛び出し、のびのびとプレーし、プレッシャーさえ楽しむような時代だ。他方で、旧態依然たるIOCの運営が物議を醸し、コマーシャリズムや五輪貴族ぶりが批判された。テニスの参加選手からクレームがあがったように、日本のこのクソ暑い時期の、しかも最悪の時間帯に競技を行わせる理不尽が、最大のスポンサーであるアメリカに配慮されたものであることを知らない者はない。かつて8割の日本人が東京五輪誘致を歓迎し、今、8割の日本人が延期や中止を訴えるのは、パンデミックの閉塞感がもたらすストレスのせいではないのではなく、こうした前時代を引き摺る五輪の虚飾に嫌悪しているに過ぎないのではないだろうか。競技が始まれば、日本人は熱中すると、スガ総理は見切っておられたようで、その限りにおいてはその通りだが、根本的な不信が消えるものではなさそうだ。もはや金満国しか誘致出来ないほどにぶくぶくに膨れ上がった肥満体の五輪は、手垢にまみれて、魅力に乏しく、見苦しくすらある。いっそのこと持ち回りを止めてアテネでの永久開催にしてはどうかという斬新な意見が出ていたが、そういうことを考えてもよいのではないかと思う。純粋に、スポーツのドラマ性に、限界に挑む人間の美しさに、感動するだけでよいのではないかと思う。
そんな中、唯一、選手団の入場行進が「あいうえお」順であったことに新鮮な驚きを覚えた。台湾がこれまでの「チャイニーズ・タイペイ」の「チャ・・・」ではなく「タイペイ」に基づいて、大韓民国とタジキスタンの間に登場したこと、NHKの和久田麻由子アナウンサーが「台湾」と紹介したことは、台湾の多くの人を歓喜させた。他方、米NBCテレビは、中国の選手団の入場行進の際、台湾を含まない中国の地図を画面上に映したため、中国から「中国人民の尊厳と感情を傷つけた」としてクレームを受けた。今だに国民ではなく人民と呼ぶのは奇異以外の何ものでもないし、「人民の尊厳と感情を傷つけた」などと文句を言う国も、この広い世界に他にいなさそうだ(いや、韓国や北朝鮮はそれに近いことを言うかも知れない 笑)。そんな中国の、歴史を逆行するような在り様もまた、いずれ手厳しいしっぺ返しを受けるのではないかと思う。