アメリカが北京五輪を外交ボイコットすることを発表した。東京五輪では次回開催国フランスを別にして首脳級の参加が近年では最少(15人程?)と言われていたことを思えば、このパンデミックのご時世に首脳級が参加しないこと自体は大した問題ではないはずだが、わざわざボイコットを発表するのは、中国のメンツを潰すことになる。かねて中国は報復を示唆して牽制してきたが、アメリカには効かなかった。在米中国大使館の報道官は「この人たちが来るかどうかは誰も気にしないし、北京冬季五輪の成功には全く影響しない」と強がり、環球時報は「正直なところ、中国人はこのニュースを聞いて安心している。米国の役人が少なくなればなるほど、持ち込まれるウイルスも少なくなる」とせいせいしたかのような言い草だった(それにしても、なんと品のないモノの言いであろう)。その割りに、中国のSNSランキング・トップに躍り出ていたこのボイコットの話題が、ほどなくランキング一覧から消えてしまった。分かり易い国だ。
バイデン政権発足に当たっては、長男坊の中国コネクションから、中国に対して宥和的になりかねないと懸念されたものだが、党派を超えて中国に強硬な議会を背景にしているとは言え、今のところ協力・競争・対立の関係そのままに、とりあえずはメリハリをつけた対応をしている。この点、資源小国で貿易立国の日本は、今も昔も、敗戦の負い目もあって、八方美人の外交(かつて全方位外交と呼ばれた)しか出来ないのが、日本らしくもあり、また物足りなくもある。
他方、中国は大国として台頭するに従い、大国らしく横柄に振舞い、大国らしく扱われたいのに、そうならない苛立たしさを抑えかねて、対外的にトゲトゲしく対応する様子が「戦狼外交」と揶揄されるようになった。西欧的な(ウェストファリア体制下の)価値観に従えば、原則として外交に大国も小国もない。ところが東アジアに伝統的な華夷秩序観に従えば、中国は中華として天下を治める唯一の権威的存在であり、大国は大国らしく、小国は小国らしく、中華文明になびかないものは(例えば日本が典型例だが)野蛮な夷狄として蔑むのが習いである。これら東西の秩序観はお互いに相容れることはない。
それでも、習近平国家主席は5月末の共産党の会議で、対外情報発信の強化を図るように訴えた。時事通信によれば、習氏は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国のイメージづくりに努力しなければいけない」と語り、党が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、親中的な国際世論の拡大」を実現するように求めたという。珍しくも殊勝な心掛けだ(が、わざわざ言うところが中国らしい)。ところがその後の中国のやることなすこと裏目に出て、世界中で敵をつくるばかりに見える。ちぐはぐである。人民に対して共産党の威信を示したいばかりに、対外関係を顧慮する余裕がないのだろう。
この9~10日に開催される民主主義サミットに対する反応も同様だった。
バイデン大統領の呼びかけによる民主主義サミットに参加する110ヶ国・地域が公表され、NATO加盟30ヶ国の内のトルコとハンガリー以外が、またASEAN加盟10ヶ国ではフィリピン、インドネシア、マレーシアの3ヶ国が、そして何より台湾が含まれ、中国とロシアは外されたことが分かると、中国は4日に『中国の民主』と題する報告書を発表し、「中国式」民主主義を完成したことを誇示する一方、翌5日に『米国民主主義の状況』と題する報告書を発表し、米国内の人種差別や新型コロナウイルスの蔓延などを根拠に「米国は民主主義の優等生ではなく、自省する必要がある」などとアメリカの民主主義をこきおろした。
ここで中国が言う民主主義は、彼らの言う法治主義などと同様、西欧諸国が理解するものと定義が異なるようだ。形ばかりの多党制は、実質的には共産党一党独裁であり、主権が存する「国民」ではなく支配層たる共産党と乖離した「人民」という古来の存在のままで、公正な選挙制度によって自らの代表を選ぶ権利がなく、政治参加の機会が与えられない。仮に古代中国の思想そのままに徳治を行う賢帝(現代で言えば共産党の書記長または総書記)がいれば、それもアリだと思うが、それは飽くまで理念上のことであって、現実の中国がその逆を行くことの反動に過ぎない。Wikipediaによると、民主主義の対義語には「神権政治」「貴族政治」「寡頭制」「独裁制」「専制政治」「全体主義」「権威主義」などが並び、「神権政治」かどうかは別にして、それ以外の言葉は全て中国に当てはまる。それでも「中国式」民主主義などと強弁する。
ことほどさように中国の言うことは理解不能で、やることはチグハグで、何かというと突っかかって強硬である。そんな中国に関する記事を二つ紹介したい。
折しも昨日の日経に、秋田浩之さんの『中国、やはり目を離せない 衰退期も変わらぬ強硬路線』と題する記事が出た(*1)。中国はこのまま台頭を続けるのか、それとも、人口減少、エネルギー・食糧の輸入依存の高まり、環境汚染など、さまざまな足枷によって成長率が落ち、衰退期に入りつつあるのか、どちらが正しいのか? と問いかける。「中国共産党リーダーは、強い自信と不安を同時に抱いているのが特徴だ」というシンガポールの論客の声を紹介しながら、台頭期には自信過剰が、衰退期には焦りや不安が、危うい行動を招きかねないとして、いずれにしても強硬な路線は変わらない(このうち、後者の行動パターンのほうが予想が難しく、より厄介)、と結論づける(引用された図表には、短・中期は対等継続説、長期では衰退期突入説が妥当と記するが、タイトルからすれば後者、すなわち衰退期に入りつつあると見ているようだ)。
もう一つ、一昨日のサーチナによると、中国メディアの網易が、「中国が最も警戒すべき国は、米国やベトナムではない」「最も恐ろしいのは日本であり、日本を強く警戒すべき」と主張する記事を掲載したらしい(*2)。米国は今でも「世界のボス」と言えるが、国内に多くの問題を抱え、安易に中国にちょっかいを出すことはできないはずだから、「中国にとってはすでに恐るに足らない存在」と主張する一方、日本は敗戦後は軍隊を持てないはずなのに自衛隊を作り、今では実質的に「相当な規模の軍隊」と変わらなくなっており、先進的な武器も保有し、「日本はこっそりと核兵器を研究開発している」などと根も葉もない主張をするばかりでなく、「日本は自分の本分を守ることをしない国であり、国土面積が小さく、いつ沈没してしまうかもわからない島国なので、日本人は自分たちの将来について考えざるを得なくなっている。以前の過ちを徹底的に改めることのない日本は、いつか必ず再起してくるはずだ」と警戒し、中国は「後ろから刃物で刺されないよう」十分に注意し、歴史を忘れるべきではないと結んでいるという。(アメリカに対しては)自信満々で、さんざん日本をも手玉に取りながら、この不安感は(中国の全てがそうだとは言わないが)一種のパラノイアであろうか。
戦後76年の(あるいは過去1500年の内の大部分の)平和な歩みより、古来の野蛮な夷狄(!?)のイメージそのままに受け止められている日本は、北京五輪ボイコットに関してどのような結論を出すだろうか。それに対して自信と不安を抱えた巨大な混沌とも言える中国はどんな反応を示すだろうか。考えるだに憂鬱であり、優柔不断に見える岸田首相の心中は察するに余りある(願わくば、多数のボイコット同調国が出て、その中に紛れんことを 笑)。
(*1) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD026G00S1A201C2000000/
(*2) http://news.searchina.net/id/1703991?page=1
バイデン政権発足に当たっては、長男坊の中国コネクションから、中国に対して宥和的になりかねないと懸念されたものだが、党派を超えて中国に強硬な議会を背景にしているとは言え、今のところ協力・競争・対立の関係そのままに、とりあえずはメリハリをつけた対応をしている。この点、資源小国で貿易立国の日本は、今も昔も、敗戦の負い目もあって、八方美人の外交(かつて全方位外交と呼ばれた)しか出来ないのが、日本らしくもあり、また物足りなくもある。
他方、中国は大国として台頭するに従い、大国らしく横柄に振舞い、大国らしく扱われたいのに、そうならない苛立たしさを抑えかねて、対外的にトゲトゲしく対応する様子が「戦狼外交」と揶揄されるようになった。西欧的な(ウェストファリア体制下の)価値観に従えば、原則として外交に大国も小国もない。ところが東アジアに伝統的な華夷秩序観に従えば、中国は中華として天下を治める唯一の権威的存在であり、大国は大国らしく、小国は小国らしく、中華文明になびかないものは(例えば日本が典型例だが)野蛮な夷狄として蔑むのが習いである。これら東西の秩序観はお互いに相容れることはない。
それでも、習近平国家主席は5月末の共産党の会議で、対外情報発信の強化を図るように訴えた。時事通信によれば、習氏は「自信を示すだけでなく謙虚で、信頼され、愛され、尊敬される中国のイメージづくりに努力しなければいけない」と語り、党が組織的に取り組み、予算を増やし、「知中的、親中的な国際世論の拡大」を実現するように求めたという。珍しくも殊勝な心掛けだ(が、わざわざ言うところが中国らしい)。ところがその後の中国のやることなすこと裏目に出て、世界中で敵をつくるばかりに見える。ちぐはぐである。人民に対して共産党の威信を示したいばかりに、対外関係を顧慮する余裕がないのだろう。
この9~10日に開催される民主主義サミットに対する反応も同様だった。
バイデン大統領の呼びかけによる民主主義サミットに参加する110ヶ国・地域が公表され、NATO加盟30ヶ国の内のトルコとハンガリー以外が、またASEAN加盟10ヶ国ではフィリピン、インドネシア、マレーシアの3ヶ国が、そして何より台湾が含まれ、中国とロシアは外されたことが分かると、中国は4日に『中国の民主』と題する報告書を発表し、「中国式」民主主義を完成したことを誇示する一方、翌5日に『米国民主主義の状況』と題する報告書を発表し、米国内の人種差別や新型コロナウイルスの蔓延などを根拠に「米国は民主主義の優等生ではなく、自省する必要がある」などとアメリカの民主主義をこきおろした。
ここで中国が言う民主主義は、彼らの言う法治主義などと同様、西欧諸国が理解するものと定義が異なるようだ。形ばかりの多党制は、実質的には共産党一党独裁であり、主権が存する「国民」ではなく支配層たる共産党と乖離した「人民」という古来の存在のままで、公正な選挙制度によって自らの代表を選ぶ権利がなく、政治参加の機会が与えられない。仮に古代中国の思想そのままに徳治を行う賢帝(現代で言えば共産党の書記長または総書記)がいれば、それもアリだと思うが、それは飽くまで理念上のことであって、現実の中国がその逆を行くことの反動に過ぎない。Wikipediaによると、民主主義の対義語には「神権政治」「貴族政治」「寡頭制」「独裁制」「専制政治」「全体主義」「権威主義」などが並び、「神権政治」かどうかは別にして、それ以外の言葉は全て中国に当てはまる。それでも「中国式」民主主義などと強弁する。
ことほどさように中国の言うことは理解不能で、やることはチグハグで、何かというと突っかかって強硬である。そんな中国に関する記事を二つ紹介したい。
折しも昨日の日経に、秋田浩之さんの『中国、やはり目を離せない 衰退期も変わらぬ強硬路線』と題する記事が出た(*1)。中国はこのまま台頭を続けるのか、それとも、人口減少、エネルギー・食糧の輸入依存の高まり、環境汚染など、さまざまな足枷によって成長率が落ち、衰退期に入りつつあるのか、どちらが正しいのか? と問いかける。「中国共産党リーダーは、強い自信と不安を同時に抱いているのが特徴だ」というシンガポールの論客の声を紹介しながら、台頭期には自信過剰が、衰退期には焦りや不安が、危うい行動を招きかねないとして、いずれにしても強硬な路線は変わらない(このうち、後者の行動パターンのほうが予想が難しく、より厄介)、と結論づける(引用された図表には、短・中期は対等継続説、長期では衰退期突入説が妥当と記するが、タイトルからすれば後者、すなわち衰退期に入りつつあると見ているようだ)。
もう一つ、一昨日のサーチナによると、中国メディアの網易が、「中国が最も警戒すべき国は、米国やベトナムではない」「最も恐ろしいのは日本であり、日本を強く警戒すべき」と主張する記事を掲載したらしい(*2)。米国は今でも「世界のボス」と言えるが、国内に多くの問題を抱え、安易に中国にちょっかいを出すことはできないはずだから、「中国にとってはすでに恐るに足らない存在」と主張する一方、日本は敗戦後は軍隊を持てないはずなのに自衛隊を作り、今では実質的に「相当な規模の軍隊」と変わらなくなっており、先進的な武器も保有し、「日本はこっそりと核兵器を研究開発している」などと根も葉もない主張をするばかりでなく、「日本は自分の本分を守ることをしない国であり、国土面積が小さく、いつ沈没してしまうかもわからない島国なので、日本人は自分たちの将来について考えざるを得なくなっている。以前の過ちを徹底的に改めることのない日本は、いつか必ず再起してくるはずだ」と警戒し、中国は「後ろから刃物で刺されないよう」十分に注意し、歴史を忘れるべきではないと結んでいるという。(アメリカに対しては)自信満々で、さんざん日本をも手玉に取りながら、この不安感は(中国の全てがそうだとは言わないが)一種のパラノイアであろうか。
戦後76年の(あるいは過去1500年の内の大部分の)平和な歩みより、古来の野蛮な夷狄(!?)のイメージそのままに受け止められている日本は、北京五輪ボイコットに関してどのような結論を出すだろうか。それに対して自信と不安を抱えた巨大な混沌とも言える中国はどんな反応を示すだろうか。考えるだに憂鬱であり、優柔不断に見える岸田首相の心中は察するに余りある(願わくば、多数のボイコット同調国が出て、その中に紛れんことを 笑)。
(*1) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD026G00S1A201C2000000/
(*2) http://news.searchina.net/id/1703991?page=1