洗心 senshin

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一年前の記事。「与え給う。」

2024-02-27 19:07:34 | つぶやき

与え給う。

天気も良く絶好の散策日和だったので 2時間ほど近くの野山を歩き回った。子供の頃はこの界隈は自分の庭のように思っていたものだ。 あの頃は里山の手入れも行き届き野良仕......

天気も良く絶好の散策日和だったので 2時間ほど近くの野山を歩き回った。
子供の頃はこの界隈は自分の庭のように思っていたものだ。
 
あの頃は里山の手入れも行き届き野良仕事に精出すお年寄りも沢山おられた。
それで住民と野生の動物たちの棲み分けも自然調和で出来ていたようだ。
 
シカ類は奥山にこもり人目に付くような行動はしなかった。せいぜい狸や野兎が畦道を徘徊するくらいでそれは長閑なものだった。そんな童話の世界はもうない。
 
畑という畑にはバリケードが施され まるで獣害と闘う戦場である。何がどうなった? 「人間」が自然から見放されようとしている象徴なのかもしれない。

… … … … … 

そう。あの頃は長閑な中にも創造根源からの平和のひと時があった。少なくとも 『人』が自然にその『魂』を以て帰依する限り 自然は『人』を裏切ることはなかったのだ。それが 何時頃からだろう 『人』が「人間」に変容し 「悪魔性」をその各自の心身に住まわせるようになってから 『人』は自然神の代行者では無くなったのである。

絶対レベルで信じることは(信を超える)地球の優良未来を拓くには不可欠だと思う。

2024-02-27 12:17:15 | つぶやき
物の価値なんて当てにならないものである。長い人生の間には 若い頃あれほど憧れた「あんなもの」や「こんなもの」が 年齢を重ねてからはまるで価値を喪っているなんて そんなことも当たり前にあるんだね。

逆に 年齢を重ねたら若い頃には見向きもしなかった『別角度の物の価値』や『物ではない価値』に氣付くなんてことも多いね。長い人生を通じて 次第に眞實の素晴らしさが価値を超えて輝いて来るなんてサプライズを超えている。

やはり 何といっても『自然クライン環』を妄想に陥れず(悪魔の手に渡すことなく) 自らの『魂』の眞實として 艱難辛苦にも諦めず 絶対レベルで信じることは(信を超える)地球の優良未来を拓くには不可欠だと思う。