労働者のどのような利益がどのように政治に反映され、実現されるのか。これが「労働政治研究」だという。この本は、労働組合の、特に統一を目指す過程を追いながら、どのように規制改革に賛成する労働団体(連合)ができあがっていくのか、彼らはなぜ労使交渉よりも政府に働きかける政治団体化していくのかを説明する。団体名がいろいろと出てきて、労働政治の初心者には内容を租借するのに苦労したところも多いが、その構図としてこんな風に捉えた。団体間の距離として「民間使用者組合-民間労組」「民間労組-官公系右派組合」は近かったけれども、「官公系右派組合-官公系左派組合」は非常に遠かったということだ。企業別組合で歴史が築かれたことで、「民間使用者-労組」が近すぎた、ことも日本的特徴なのだろう。
ブログでは特に、規制改革の賛成・推進の姿勢について書き留めておきたい。本の中で、中曽根政権・村山政権のころの行政改革に対して「物足りない」と言うほど推進派であったことを紹介している。なぜそのような姿勢だったのかは、端的に言えば民間セクター主導の団体が力を持っており、彼らが連合の結成を主導したからだ。具体的には、IMF-JC(金属労協、全日本金属産業労働組合協議会)が1960年代後半に結成され、かれらが労働政治の中心を担っていく過程を指す。
IMF-JCの顔ぶれが、電機、自動車、造船、機械金属産業の労組であり、いずれも民間輸出セクターであることが、国内の規制改革に寛容であることの理由だろう。行政改革は、彼らの所属企業が納める税金を削減しうるだろうし、もしくはそれら産業への補助金を増やす方向になるかもしれない(とまでは本で丁寧に書いてあるわけではない)。IMF-JCはIMFという国際労働組合団体の日本組織であり、IMFはどうやら各国の輸出条件としての労働者賃金整備に力を入れる団体だったらしい。日本の場合、結成当時の60年代後半には、賃金水準の低い日本の労働環境に対しアメリカが「ダンピングだ」と非難していた。この非難をかわすことは、すなわち賃上げを求めて活動することでもあった。加入労組の産業の拡大もあり、春闘のリーダー的存在となっていった。
このほかにも、共産系、反共系などの国際団体への加入や反発が、国内統一労組団体の設立を阻んだり、後押ししたりしした場面があり興味深かった。
連合が規制改革路線に肯定的な理由はほかにもある。それは、「連合」になったときに、どうしても相容れない左派(自治労と日教組)は参加しなかったからだ。統一への綱引きで、最後までもめたのが、この両組合を含む総評系官公労と、右派の友愛会議(旧同盟)系全官公、つまり公的セクター組合の左派VS右派だったという。(連合結成を受けて総評も官民統一組織として「全労協」全国労働組合連絡協議会を結成した)
実は著者は、本を貫く大きな問いとして、「80年代に規制緩和や行政改革に積極的であった民間の労働組合が、彼ら主導で連合を結成したにもかかわらず、90年代以降は改革に積極的でなくなったのか」と設定している。これに対する答えとして、「労働戦線の統一を急ぐあまり、共産系労組の排除という組織問題の解決で満足し、民間労組主導でやってきた路線を連合内で十分に貫徹させなかった」と書いている。ただ、読んでいる限り、また自分の実感からして、現在の連合はやはり改革志向であり、非常に民間労組、というより民間企業の志向に近いと感じる。なので、問い自体があまり共感できなかった。とはいえ、連合が民間企業指向になったのはなぜか、というシンプルな問いを考えるのに十分な歴史本だった。
以下はメモ。 これらの団体の実態を考える資料 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3814.html
<戦後のナショナルセンター>
産別会議(全日本産業別労働組合会議):左派・共産党支持、戦後初期の最大ナショナルセンター
1946年設立、共産党の影響を受けて組織された、資本主義経済体制の変革(議会制民主主義の否定)、官公庁系労組・民間大企業も加入、1947年に2.1ストを計画、失敗、産別民主化同盟を経て新産別に
※戦後、民間労働者に比べて官公庁と公共企業体の労働者の待遇改善は、財政状況やインフレ抑制政策のために遅れており、これげあえ過激路線の原因となった
新産別(全国産業別労働組合連合):右派・共産党の指導に反発して組織されたが、総評との合併には躊躇。共産党には反発するが、社会主義勢力には親近感、ゆえに国際反共団体「国際自由労連」への加入は躊躇したため
総同盟(日本労働組合総同盟):右派・社会党支持
資本主義経済体制内での労働者の地位向上・利益の追求、左派は総評設立に合流、右派は同盟に
総評(日本労働組合総評議会):右派→左派・社会党支持
GHQの支持も受け1950年に設立、社会民主主義から左旋回「ニワトリからアヒルへ」、体制変革を目指すように。1952年の電産・炭労争議で強行を貫き敗北、第二組合が組織されていった。企業収益の枠組みを越える分配を要求。官公労組の比率が高かった?1955年ごろから路線変更、1961年から66年まで「春闘」確立、右派は同盟にも流れていった
全労会議(全日本労働組合会議):右派・生産性向上と産業発展
総評に反発した繊維、海員、放送、演劇の産別が組織
同盟(全日本労働総同盟):右派=民社党支持
1964年設立、産業民主主義、労働組合主義
民間労組
全民労協(全日本民間労働組合協議)
1975年の春闘、賃上げの自粛、賃上げ以外を求めて政府との政治的交渉=雇用維持のための補助金、減税など労使協調で要求
IMF-JC(金属労協、全日本金属産業労働組合協議会):右派、行革推進派
1964年結成、電機労連、造船総連、全国自動車、全機金など民間輸出志向セクターが参加。アメリカからのダンピング非難を回避する目的も。賃上げと両立する要求。必ずしも産別の統一要求にこだわらず、各企業ごとの柔軟性を重要視
<連合結成後の支持政党の分裂>
1989年、連合の誕生
1993年、非自民連立政権
1994年、自社さ連立の村山政権 →連合支持の議員が与野党に分裂
1996年、橋本政権、社会党が社民党へ、組合出身議員は民主党結成に参加し連立与党から離脱
1998年、民主党結成