ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

堀江貴文「ゼロ-なにもない自分に小さなイチを足していく」

2014-02-19 23:40:50 | Book

 堀江さんの本は初めて読んだ。オンライン・メディアについていろいろ発言しているので興味を持ち、有料メルマガを購読していて、ついこの本を読んでみたくなった。

 第一の感想は、「文章うまいな」ということだ。美文ではなく、ハキハキとしていて読みやすい。リズムがある。特別うまいのか、と言われればそうでもないが、文章を書くのが本職ではない人でも、やっぱりこれくらいのレベルの文章は書けるんだよな、と再認識した。こんな感想は、記者の仕事をしている人じゃないと持たないかもしれないけど。

 文章の話を抜きにしても、そこそこ刺激的でおもしろい本だった。一番気に入ったのは、堀江さんが読者に対し、「成功」や「働きがい」のようなものを手に入れるのに必要なものとして「ノリのよさ」を訴えていたこと。「そうそう、そうなんだよね」とうなずく自分がいた。私自身は理屈っぽい性格で、何事も硬派にとらえたがる傾向がある。だから、もっとノリよく行きたいなーというのは最近考えていたことだった。

 振り返れば、私が最初に就職活動をしていた2005年頃、まさにライブドアの球団買収などが話題になり、村上ファンドも登場して「会社とは」みたいなことが世間でもよく議論された時期だった。就職面接でも聞かれたことがある。私自身は、いろんな動きを醒めた目で見つつ、村上ファンドのようにお金を転がしているだけの会社より、インターネットとテレビを融合させてコンテンツビジネスを変えていこうとしているように見えたライブドアの方が理解できるな、と思っていた。

 時々買うKindle本。こういう新書っぽい本は親和性がある。だけど、新書でもKindleで最初から売り出している本ってけっこう少ない。Amazonよ、読者の期待に応えて頑張ってくれ。何なら、読者の要望ツイッターのようなものを用意して、データにしてくれてもいいのに。それと、今度は撤退しないでね、さっそく申し込んだAmazonクレジットカードをよろしく。


女性と子育て

2014-01-24 17:16:19 | Book
最近読んだ本から学んだこと。
Facebook CEO のシェリル・サンドラバーグ『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』
私自身もまた、「自分は女性だから」「結婚や出産で人生が左右されてキャリアが築けない部分があるとしても仕方ない」といった考えが根底にあったことを自覚させられてびっくりした。人は、同じメッセージを「これでもか」というほど言われないと、気づかないものだ。この本も、女性は「女性だから」と諦めている部分、諦めがちであることを十分自覚して、そうならないように、その分野でトップの人間になるということを遠い世界の話と考えないように、といったことを、彼女の経験や研究者の論文、身近なエピソードから繰り返し繰り返し説く。
この本で気づかされたもう一つのことは、「私みたいな人間をフェミニストと言うのかも」ということ。この著者自身も告白しているが、自分をフェミニストだと言うことには抵抗があった。フェミニストというと、わからずやの権利主義者のようで。でもそれは、フェミニストも定義の方が間違っているのであって、彼女自身、自分をフェミニストだと宣言している。私にも共通する部分がある。こないだ生まれた自分の娘に、第一印象でははっきりと女の子か男の子か分からない名前をつけたのも、うまく説明できないが、「男も女もなく、自信を持って生きていってほしい」というような思いがあった。名前から女性だということが分かり、それが前提で物事が進むことで、メリットもあるがデメリットもある気がしているからだ。それがどんなケースかうまく説明できないけど。

加藤尚武『子育ての倫理学―少年犯罪の深層から考える』からは、赤ちゃんの脳は小さく、3歳までに急成長すること、その間に十分な愛情に触れられないことを「母性剥奪」といい、その後子供にどれだけ愛情を注いでも子供の敵対心や攻撃性(潜在的なものを含む)を取り除くことはできなくなる可能性が高まることなどが書かれていた。始めて興味を持った分野で新鮮だった。(夫に勧められて読んだのだけど)

この他に読んだ本…思い出したら書くことにします。



ブログを書く

2014-01-24 17:09:00 | Book
ブログを書くことを毎日のやりたいことリストに入れているのだけど、なぜかできない。やる気にならない。一日赤子と一緒だと、スケジュールを立てるということをしなくなるし、いくつかのことをやろうとして、モチベーションの采配にも難しさがある。でも、ツイッターやっているくらいの量は書いて行こうと思う、少しずつ。ブログなんて文章量は少ない方が良いのだ。

ちなみに、iPad miniで書いていて、gooアプリがなぜか立て画面にしか対応しないので、書きづらい時があり、誤字脱字にはご容赦ください。

久米郁男(2005)『労働政治 戦後政治のなかの労働組合』

2013-09-19 08:27:29 | Book

 労働者のどのような利益がどのように政治に反映され、実現されるのか。これが「労働政治研究」だという。この本は、労働組合の、特に統一を目指す過程を追いながら、どのように規制改革に賛成する労働団体(連合)ができあがっていくのか、彼らはなぜ労使交渉よりも政府に働きかける政治団体化していくのかを説明する。団体名がいろいろと出てきて、労働政治の初心者には内容を租借するのに苦労したところも多いが、その構図としてこんな風に捉えた。団体間の距離として「民間使用者組合-民間労組」「民間労組-官公系右派組合」は近かったけれども、「官公系右派組合-官公系左派組合」は非常に遠かったということだ。企業別組合で歴史が築かれたことで、「民間使用者-労組」が近すぎた、ことも日本的特徴なのだろう。

 ブログでは特に、規制改革の賛成・推進の姿勢について書き留めておきたい。本の中で、中曽根政権・村山政権のころの行政改革に対して「物足りない」と言うほど推進派であったことを紹介している。なぜそのような姿勢だったのかは、端的に言えば民間セクター主導の団体が力を持っており、彼らが連合の結成を主導したからだ。具体的には、IMF-JC(金属労協、全日本金属産業労働組合協議会)が1960年代後半に結成され、かれらが労働政治の中心を担っていく過程を指す。
 IMF-JCの顔ぶれが、電機、自動車、造船、機械金属産業の労組であり、いずれも民間輸出セクターであることが、国内の規制改革に寛容であることの理由だろう。行政改革は、彼らの所属企業が納める税金を削減しうるだろうし、もしくはそれら産業への補助金を増やす方向になるかもしれない(とまでは本で丁寧に書いてあるわけではない)。IMF-JCはIMFという国際労働組合団体の日本組織であり、IMFはどうやら各国の輸出条件としての労働者賃金整備に力を入れる団体だったらしい。日本の場合、結成当時の60年代後半には、賃金水準の低い日本の労働環境に対しアメリカが「ダンピングだ」と非難していた。この非難をかわすことは、すなわち賃上げを求めて活動することでもあった。加入労組の産業の拡大もあり、春闘のリーダー的存在となっていった。
 このほかにも、共産系、反共系などの国際団体への加入や反発が、国内統一労組団体の設立を阻んだり、後押ししたりしした場面があり興味深かった。

 連合が規制改革路線に肯定的な理由はほかにもある。それは、「連合」になったときに、どうしても相容れない左派(自治労と日教組)は参加しなかったからだ。統一への綱引きで、最後までもめたのが、この両組合を含む総評系官公労と、右派の友愛会議(旧同盟)系全官公、つまり公的セクター組合の左派VS右派だったという。(連合結成を受けて総評も官民統一組織として「全労協」全国労働組合連絡協議会を結成した)

 実は著者は、本を貫く大きな問いとして、「80年代に規制緩和や行政改革に積極的であった民間の労働組合が、彼ら主導で連合を結成したにもかかわらず、90年代以降は改革に積極的でなくなったのか」と設定している。これに対する答えとして、「労働戦線の統一を急ぐあまり、共産系労組の排除という組織問題の解決で満足し、民間労組主導でやってきた路線を連合内で十分に貫徹させなかった」と書いている。ただ、読んでいる限り、また自分の実感からして、現在の連合はやはり改革志向であり、非常に民間労組、というより民間企業の志向に近いと感じる。なので、問い自体があまり共感できなかった。とはいえ、連合が民間企業指向になったのはなぜか、というシンプルな問いを考えるのに十分な歴史本だった。

以下はメモ。 これらの団体の実態を考える資料 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/3814.html

<戦後のナショナルセンター>

産別会議(全日本産業別労働組合会議):左派・共産党支持、戦後初期の最大ナショナルセンター
1946年設立、共産党の影響を受けて組織された、資本主義経済体制の変革(議会制民主主義の否定)、官公庁系労組・民間大企業も加入、1947年に2.1ストを計画、失敗、産別民主化同盟を経て新産別に
※戦後、民間労働者に比べて官公庁と公共企業体の労働者の待遇改善は、財政状況やインフレ抑制政策のために遅れており、これげあえ過激路線の原因となった

新産別(全国産業別労働組合連合):右派・共産党の指導に反発して組織されたが、総評との合併には躊躇。共産党には反発するが、社会主義勢力には親近感、ゆえに国際反共団体「国際自由労連」への加入は躊躇したため

総同盟(日本労働組合総同盟):右派・社会党支持
資本主義経済体制内での労働者の地位向上・利益の追求、左派は総評設立に合流、右派は同盟に

総評(日本労働組合総評議会):右派→左派・社会党支持
GHQの支持も受け1950年に設立、社会民主主義から左旋回「ニワトリからアヒルへ」、体制変革を目指すように。1952年の電産・炭労争議で強行を貫き敗北、第二組合が組織されていった。企業収益の枠組みを越える分配を要求。官公労組の比率が高かった?1955年ごろから路線変更、1961年から66年まで「春闘」確立、右派は同盟にも流れていった

全労会議(全日本労働組合会議):右派・生産性向上と産業発展
総評に反発した繊維、海員、放送、演劇の産別が組織

同盟(全日本労働総同盟):右派=民社党支持
1964年設立、産業民主主義、労働組合主義

民間労組
全民労協(全日本民間労働組合協議)
1975年の春闘、賃上げの自粛、賃上げ以外を求めて政府との政治的交渉=雇用維持のための補助金、減税など労使協調で要求

IMF-JC(金属労協、全日本金属産業労働組合協議会):右派、行革推進派
1964年結成、電機労連、造船総連、全国自動車、全機金など民間輸出志向セクターが参加。アメリカからのダンピング非難を回避する目的も。賃上げと両立する要求。必ずしも産別の統一要求にこだわらず、各企業ごとの柔軟性を重要視

<連合結成後の支持政党の分裂>

1989年、連合の誕生
1993年、非自民連立政権
1994年、自社さ連立の村山政権 →連合支持の議員が与野党に分裂
1996年、橋本政権、社会党が社民党へ、組合出身議員は民主党結成に参加し連立与党から離脱
1998年、民主党結成 

 


井上志津(2004)『仕事もしたい 赤ちゃんもほしいー新聞記者の出産と育児の日記』

2013-09-17 08:18:25 | Book

 こんな本や出産・育児本、そのほかは新聞ばかりに目を通す毎日。「毎日」といっても産休に入って1週間半、岐阜に越して来て1週間ちょっとしか経っていないが、間延びした時間を過ごしている実感はある。夫と私がこれまでに買ったたくさんの本が並ぶ家の2階の自宅図書館にも、岐阜県図書館にも、手元にも読みたい本はたくさんあるのに集中力が続かない。それと、頭の奥には出産への不安もあるのだと思う。その割に、こんなエッセイは通読してしまった。何が書いてあるというわけでもないし、それを分かっているのだが。

 著者は毎日新聞の女性記者で、希望していた学芸部に配属されてまもなく妊娠が分かる。夫も同じ会社の記者。電車通勤や臨月での夫の異動、女の子が産まれてから・・・というさほど変哲のない展開。我が家も、おなかの子は女の子らしいし、夫の仕事も新聞記者だから、なんか知り合いのブログを読むかのように読んだ。
 その中で、何か書き留めておくとしたら、彼女の第一希望で、産休・育休前に就いていた映画担当の仕事が復帰時にははずされ、その理由として上司に「井上さんは本当は映画担当ではなかった」「デスクの指示は独断であって、デスク会で了承されていなかったため無効」「担当でもないのに試写に行っていたからよく思われていない」と言われていること。休業中にもいくつか記事を頼まれたことについては、「育児に飽きて書いているのだと思っていた」とも言われたこと。私の前の職場が新聞社だっただけに雰囲気が良く分かる。あり得る話で、人に一番やる気をなくさせる対応だ。

 組織のマネジメント、仕事の配分がしっかりなされていないことのツケを記者に押しつけ、理由にもならない理由で片づけようとする。まるで我が事のようにうんざり、げんなりしてしまった。

 それにしてもやっぱり、出産・育児では体力も時間も使うのだから、今の時間をもっと大切に、有意義に使わないとなあ。ハードルを上げすぎず、ブログを書いていくことにしよう。育児が始まっても、できればこの著者のように文章を残しておきたいとも思った。自分にとって、何か残るかもしれない。最近ツイッターを読みながら思うが、自分で発信しない限り(人のつぶやきをリツイートしているだけでは)、絶対にフォロワーはつかない「当たり前の話なのだが、ちょっとした発見。今日みたいに、ポメラを持って出かけよう。


熊沢誠(2013)『労働組合運動とはなにか-絆のある働き方をもとめて』

2013-05-03 09:06:14 | Book

熊沢誠(2013)『労働組合運動とはなにか-絆のある働き方をもとめて』

 タイトルだけ見ると、イデオロギーの強そうな本に見えるが、中身は大方が実証的、つまり歴史を客観的に分析した本で、それを論拠として「今こそ労働組合運動が必要だ」と説いている。日本の労働界を見ていては分からない、元来の「労働組合の機能」と、「なぜ日本はそこからかい離したのか」という問いへの答えがある。連続講座をもとにしたものだから、全体を俯瞰するのにちょうどよい難易度とボリュームになっている。著者は京大出身、労使関係論の研究者で、甲南大名誉教授。

 著者の根底にある考え方は、「労働組合はノンエリートのためのもの」ということ。有名大を出て、社長を目指して出世欲高く働く人たちというより、家庭を大事にしながら、ほどほどに、生活のために働くという大多数の労働者。この人たちは転職による処遇改善が難しい。だから、労働組合で団結し、使用者に対峙する必要がある。
 この意味で、日本では一般的ではない労組の役割は、「競争制限」だ。こう書くと少し過激な感じがするが、要はワークシェアリング。著者は「就業者と失業者の協力」とさえ書いている。少し考えれば当然の考え方だ。みんなが追い立てられて、サービス残業をしながらどんどんと仕事をこなしていけば、「こんなに従業員は必要ではなかった」ということになる。

 非常に印象深かったのは、アメリカで実施されている(実施されていた)という「ストレート・セニョリティ」という解雇ルール。能力主義を否定し、勤続年数のみで評価する仕組み。これの一番重要な点は、レイオフが必要になった場合に、企業に被解雇者を恣意的に選ばせない、ということ。勤続年数はごまかしようがないから、業務量の減少により3人の解雇が必要となれば、比較して新しく入ってきた順に3人を選ぶことになる。その後スタッフを増やす必要が出てきた場合には、そのレイオフされた人の中から、勤続年数に従って雇用する。もうひとつ重要なこのルールのポイントは、レイオフされた人が全員復職するまで、就業者の残業は原則禁止すること。
 人事部が査定し、希望に関わらず地域・部署横断的に異動を命じる(代わりに解雇はしない)日本では、「勤続年数のみで評価を」と訴えることはできないだろう。労働組合も、「競争的に働く」ことを前提にしているところがあると思う。上記のルールは、一般・非熟練労働者の要求であって、専門的労働者ではないが、まさに「ノンエリート」らしい、合理的な要求だと思う。

 日本は、なぜこのような「ノンエリートらしい要求」をしない労働組合運動が発展したのか。やはり大きな理由は「企業別組合」となったことだ。企業別組合では、「企業の支払い能力に、要求範囲を抑制する」ことが自然と求められる。業界のスタンダード、労働者としてのスタンダードというより、企業の中でのスタンダードを整備していく中では、当然そうなるだろう。また、経営者文化と労働者文化が未分化だ、とも指摘する。労働組合の役員になることが、企業の中での出世コースである企業は多い。明日は使用者側、という人が、労組側として強い要求をするのは難しい。

 ではなぜ、企業別組合になっていったのか。著者が挙げていたのは、

・欧米に比べて急速な機械化→旧職人型の労働者は不必要になり、権利意識の低い非熟練労働者が大量に生まれた
・農家の余剰人口(次男、三男など)がその送り出し元であり、彼らは家族でではなく、個人で上京した。
→ほかによりどころがない人たち=企業への執着性が強かった
→半農半工の人が多く、企業内で技術を習得した=企業への執着強い
→年功賃金など、企業個別に整備される労働条件が非常に魅力的だった
・昭和初期のこのころ、労働組合法、失業保険はなく、労働者側がストライキや解雇されたとしても保護するものはなかったため、労働組合運動の継続は難しかった
・企業側の徹底的な「横断組合」の阻止→「縦型(企業別)組合」として第二組合を支援、超強力労組として知られた電産が、過激運動過ぎたことなどが原因で、企業が支援した企業別に分裂した歴史は有名

 この企業への執着性が、欧米のように「失業者を含む労働者としての平等を求める」志向ではなく、「従業員としての平等を求める」志向となったのではないか、と読みながら思った。具体的には、非正規労働者が近年まで労組の保護の外に置かれていたことの理由になる。

 昭和40年代(1960年代後半)以降、「日本的能力主義」が確立され、能力=年齢+査定という定義(決して、特定の仕事に対してどれほどの成果を出せるか、という意味での能力ではない)で、配属、職務の範囲、仕事の質や量、残業への適応を労働者に求めるようになった。すなわち「なんでも屋」の能力が、査定に反映された。何でも屋の能力を、フレキシビリティと呼ぶとすれば、「フレキシビリティを競う」のが労働者の姿となった。だから、競って残業をする。

 非常に共感したのは、「多くの女性は、”強制された自発性”により、一般職、非正規になっていった」という記述だ。少し思想的な表現かもしれないが、上に書いたような「フレキシビリティを競う」職場では、結婚、子育てを両立させようという女性は相当ハードな生活を強いられる。配属、転勤などではどうしても「フレキシブル」にはなれない場面もある。もし、彼、彼女たちが、学歴や知的労働のスキルなどの意味で「ノンエリート」だったとしても、エリート並みのフレキシビリティを求められてきた。これが、現在にわかに議論が出てきている「限定正社員」導入の、本当の意義だと思う。そういう背景で出てきた議論ではないのかもしれないが。

 国民会議をネットで傍聴していて、連合の発表には本当にがっかりした。彼らには、こういう思想はきっとないだろうと思うと、現実に目を向けてため息が出る。著者は最後に、確かコミュニティユニオン(非正規の人たちなどが、業種横断的に駆け込み寺的に入れる労働組合)に期待をしていたが、もし希望があるとすればそこなのだろうか。

 


ロナルド・ドーア(2005)『働くということ』

2013-02-11 22:36:10 | Book

 一行一行が的確で興味深い意味を持っているので、再読にもかかわらず時間がかかった。細かいところで興味深く思えたのは、自分が前に読んでいたときが学生で、今が就労者だという違いもあると思う。また、最近労働系の本を読んでいるおかげで、日本の雇用慣行の課題・焦点が分かってきた気がする。今回は、労働時間に的を絞って書いてみたい。

 本書の最初のテーマは、「なぜ(ケインズの頃に比べて)人々の生産性は上がったのに、労働時間は短くならなかったのか」。1930年、ケインズは「100年語には、われわれは週15時間程度だけ働くようになっているはずだ」と予言したという。でも、事実はもちろん異なっている。
 その理由の第一に、著者は「人間の欲望の限りない拡大」を挙げる。社会から「排除された」と思わない程度の消費のレベルは上がっていて、広告業者はその欲望を膨張させるべく努力してきた。
 非常に面白かった研究は、「労働生産性の大幅な上昇は、生涯労働時間の減少(余暇の増加)と、消費の増加の2つでどのように影響したのかというもの」。20世紀の100年の間に、イギリスは、3分の1が労働時間の減少で、3分の2が消費の増加だった。期間は異なるが、日本は1975年から95年の間で、余暇時間の増加がたった4分の1、残りは消費の増加だったという。「消費の増加」が研究の中でどういう指標を使っているのか分からないが、結果的に消費の増加のために労働時間を増やしているんだ、という意識は日本人には少ないと思う。私は、(会社の人には内緒だが)これをすごく感じていて、「そんなに消費するつもりはないから、労働時間を減らそう」と意識している。
 なぜ消費が拡大したのか。この点でも面白い研究が紹介されている。それは、所得水準と労働時間の相関を見たもの。所得水準が低いほど、たくさん働かなければ一定の収入を得ることはできず、労働時間は増えるーという考え方はごく普通に思える。しかし実体は(会社員の人なら体感しているだろうが)違うーアメリカや日本では。所得水準の高い人ほど長時間働く。これを、著者は「競争的消費」の帰結として紹介する。

 このほか、(労働時間のみを問題にしている章ではないが)、労働市場の規制緩和で解雇がしやすくなった(=いつ解雇されるかわからない、という雇用不安からくる精神的脅しがある)ことなどによる「労働強化」や、労働者の多様化により「標準労働者」像が薄くなったことを理由に、経営者側が「成果給」を導入し、簡単に言えば(賃金を成果に応じて差を付けるというより)「賃金を下げることもできる」体系にしていったことなども挙げられる。

 これらの労働問題を扱う政府の姿勢は変化してきた。もちろん、企業やいろんな要因があり、本書では説明しているが、面白かった部分として政府の変化を紹介したい。
 かつて、「完全雇用」は政府の至上命題だったが、どうやらそれはすごく難しいと言うことになり、それを導く環境としての「低インフレ」と「経済成長」が優先事項となった。コンピュータの普及で単純労働は機械化・自動化され、失業者は非熟練労働者に固定化されるようになった。こういう人たちは、職を得たとしても低賃金。社会的影響力も少なく、政治的にも重要でなくなってきて、経済成長という目標で経営者側に取り入る方がよっぽど票を集められるようになった。
 同じ背景に、労働の多様化などが重なり、労働組合は衰退。かつて、インフレ抑制と言えば、労使での痛み分け(=所得抑制)が主流だったが、今は通貨政策がメインで、より労働組合の存在感は小さくなった。

 「そのまた背景」という形で、著者はいろいろ触れている。すなわち、こういった傾向に絶望してあきらめているのではなく、とるべき方向性も示している。こういった、労働経済学の論文や歴史書をしっかり把握した上での「社会学者」(?本人はそう書いている)の役割は大きい。ただ、規制緩和や組合の衰退など、他国より急激に「改革」資源が枯渇しているように見える日本で、実現性を高めるにはどうしたらよいのだろう、と悩む部分もやはりある。


海老原嗣生『雇用の常識「本当に見えるウソ」』

2013-02-02 22:36:13 | Book

海老原嗣生『雇用の常識「本当に見えるウソ」』

選挙の前になると、選挙の争点にすべき日本の課題を新聞各社が企画連載することが多い。昨年末の朝日新聞もそうだ。「結婚したいけれど」といった見出しで、若者の非正規雇用、不安定で低賃金で…と雇用問題をかいていた。こういう非正規雇用の拡大=若者のかわいそう、というメディアのイメージ報道に切り込むのが本書だ。

(とここから長々と書いたのに、iPadのメモ帳が保存されずに消えて落ち込む)

知っておいた方がいいこと。

・非正規雇用が増えたと問題視されるが、内訳の半数強は主婦。続いて学生で、足すと全体(1700万人)のうちの76%にもなる

・正社員の替わりに非正規雇用が増えたというより、雇用形態別の推移からみれば個人事業主とその家族の減少が、非正規雇用に流れていると考えられる

・年齢的には40歳以上が6割で、若者の中でも学生が多いことを考えると、「若者が非正規雇用で結婚できない」という層は多くない

・それでも、非正規雇用の主婦は、「本当は正社員として働き続けたかったが、出産を機に辞めてしまい、非正規雇用でしか戻って来れなかった」ということはありそうだ。学歴・性別で見れば、高卒男性の非正規率は21%なのに対し、大卒・院卒女性の非正規率は33%。

そして、最近読む、ジョブ型提唱の濱口さんや、ブラック企業に詳しい今野さんなどの本でも出てくるが、「総合職=全員エリート型のがむしゃら働き強要」という日本の雇用の特異さにも触れられる。欧米でいう「ノンエリート」がない。日本では、高卒の男女がそれを担っていたが、大学進学率が高まるにつれ、なくなり、大卒のだれもが、転勤あり、残業ありのエリート型労働になっている。ワークライフバランスがとれるようなノンエリートの選択肢はない。これは、この本にもあった、「大規模な会社の女性ほど出産退職が多い」というところにも表れているかもしれない(大企業の方が一般職女性が多く働いているというだけかもしれないが)

著者は、どちらかというとこれを評価している。
本の中では、具体的には新卒一括採用のところで書いているのだが、

・超優良大学を出ていなくても、とりあえず社内競争のスタートには立てるという意味でチャンスを得やすい
・新卒ということは未経験者だが、それを採用することで若者のスキルがボトムアップされる
・転勤・人事異動が前提であるため、合わない上司がいたとしても会社を辞めずに部署異動で対応できる
・適材適所に人材を用いることができる
・欧米型(エリートとノンエリートのキャリアパスが異なる)だと、エリートとノンエリートの間が分断され、ノンエリートのモチベーション維持が難しい。ノンエリートは一般的に転職が多くなるため、社内組織の生産性が上がらない

といったことだ。だが、私情を交えて言わせてもらえば、これは「人事部万能主義」とでもいえるような、素晴らしい人事部がいることが前提となっていると思う。「リヴァイアサン」ではないが、人事部はそんなに最適な資源配分ができる能力があるのだろうか。

ただ、新卒総合職の半分は管理職になれない現代において、管理職になれるか慣れないかの40台までエリート競争をすべての総合職に課すのは酷だ、というわけで、著者は「途中からノンエリート」のような仕組みを提案している。確か、32、33歳くらいで、係長になる人はエリートで、そうでなければ、職務専門型・ワークライフバランスのとりやすいノンエリートにすると。

私の印象としては、30代前半でエリート(将来は管理職)の判断がされるとすれば、やっぱりエリートを目指す女性はつらいだろうなと思う。うまいこと、キャリア中断(復帰)プログラムみたいなものが設計できれば、いいのかもしれない。

そのほか、今の雇用状況の改善には、若者がどんどん中小企業に目を向けていくべき、といったようなことを書いている。雇用収容能力は中小企業の方がある、と。

ワークライフバランスや、女性の管理職登用、主体的なキャリアパス、などに価値をおくなら、中小企業がいい。その玉石混合の世界で、ハンドリングを助ける人材会社は、価値が高まってくるかもしれない。
新卒一括採用は、私は辞めた方がいいと思うし、1~2年辛くともいくつか探して、腰を据えるところを自分で見つけ、職務がある程度限定された「ジョブ型」の働く範囲が広い方が労働者として自由になれると思う。ある程度エリートがいてもいいと思うけど。
ただ、こういうことを言えるのは、自分が割と(学歴としては)エリート側にいるからかもしれないな、とも思う。今の日本で、ジョブ型の転職しやすい社会になったら、かなり取り残される若者が出そう。でも、ビジョンを明確にすることは大事だ。

参考までに、著者の文章

http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/6e2b1a79bee4cc7858194ef40475c871?fm=rss

 




リンダ・グラットソン(2012)「WORK SHIFT」

2013-01-14 11:09:16 | Book

副題は「孤独と貧困から自由になる働き方の未来図2025」。
内容は、ロバート・ライシュの「勝者の代償」と、リチャード・フロリダの「クリエイティブクラス~」の類で、この2冊からの引用も多い。今後どのような労働市場になっていくか。流れに任せているとどのような職業人生になりそうで、自主的により良いものにするにはどうしたらいいか。

どのようになるか、という点では、
世界中でベビーブーム世代が高齢化すること。日本だけでなく、第二次世界大戦後のベビーブームは欧米でも起きたことなので、この世代の引退により労働不足は世界的に起こる。
ただ、高度経済成長の中で職業人生を送り、所得に価値をおいてワークワークバランスを生きてきた世代が交代することで、日本でもよくとりあげられる、社会貢献への価値とか、自己実現やワークライフバランスの考え方が一層拡大するだろう。

余暇時間が増える、という現象も起きるはず。
ITにより、一層労働時間が増えるかもしれない、という見方と反するところもありそうだが、ここで紹介されているのは「テレビからの脱却」ということ。これまで、余暇時間をテレビを見るという受動的な消費的活動に費やされてきたが、社会の多様化、価値の変化などで、違う使い方がされるようになる。
「テレビは人々の物質主義的志向と、欲求を強く助長してきた。
これが一方で、所得のために個人の資源を投資し、人と関わるための事への過小投資を招いた」という指摘は共感。

・テクノロジーの進展で、ミニ起業家が増え、存在感が高まる
・グローバル化が進んで、24時間働いている、ような状況になりかねない
という点が、やもすると「どこでも働ける」ということにつながりそうだが、クリエイティブな仕事や人脈のために、都市化は進む。
都市間競争が激しくなるために、国内の不平等に関心が払われなくなることも起きうる。

大企業や政府に対する不信感を抱く層も増える。
IT化などで、透明性の向上、ソーシャルメディアを通じた企業や政府の悪事の「拡散」、エンロンやリーマンブラザーズなど大企業の破綻、労働契約の短期化などで、この傾向が進むという。

では、どのような選択をすべきなのか。
というところは読んで見てください。

書き留めておくべきは、
大企業や政府が信用されなくなる一方で、専門家が信頼されるということ。それと自分が感じたのは、一度分散方向にあった家族のつながりが、再認識されるようになるのではないか、ということ。家族が持っていた機能の必要性が今より高まるのではないか、と。

そして、日本では今も大量に、大企業で育成されている「ジェネラリスト」の需要が低くなるだろうということ。「ジェネラリストの敵はWikipediaだ」という指摘は、その現実性を実感させる。

大泉実成(1988)『説得-エホバの証人と輸血拒否事件』

2012-10-20 12:50:19 | Book
 1985年、キリスト教の宗派のひとつである「もろみの塔」の信者、「エホバの証人」の家族の小学生男児が、トラックにはねられて病院に搬送され、手術のために輸血が必要となった際、親が「信仰上の理由」として輸血を拒否し、男児が死亡した。医者の再三の説得に、両親は応じなかった。

 この事件を、エホバの証人の生活の視点から描いたノンフィクションが本書。目の前の「事実」を、無意識のうちに「テキパキ」考えてしまいがちな記者の仕事をしている自分にとって、それを戒めるような事件だった。エホバの証人の信仰はどんなものか、その信仰と生活がいかに密接なものか。10歳の少年も、もしかしたら死の淵にいたとしても「エホバの証人は輸血を受けちゃいけない。死んだとしても『復活』するから大丈夫」と考えていたかもしれない―だなんて、ちょっとやそっとでは考えが及ばない。本を読みながら、少しずつそんな理解に近づいていく。

 先月読んでいた本は、『洗脳の楽園-ヤマギシ会という悲劇』。集団生活、集団営農、農産物の宅配販売などで一時期全国に農場があったヤマギシ会の実態、特に子どもが強制労働や暴力の中で痩せて小さくなっていったり、社会活動ができなくなったり、でもそれを肯定してしまう親がいたり、やりきれずに戦う祖父母たちがいたりといった状況を書いたノンフィクション。

 こういうノンフィクションを読んでいると、まずはその事件や団体そのものを知らなかった自分に驚く。どんな形であれ、事件の存在を知らなくては、「恥ずかしい」と思うような歴史の一部なのだ。「事件は社会を映す鏡」と、新聞社の社会部は自分たちの存在意義を掲げるが、否定できない部分はある。ただ、20代のメディアに関わる人間として感じるのは、「過去の事件をもっと知らないといけない」ということ。現在、全国規模で「横」で起きている事件や出来事を知るのも大事だけど、「縦」があまり入ってない。「テキパキ」と思考を作るうえでも、「そんな簡単な話じゃないかも」「医療と信仰の話では、こういうのもあったし」と考えるのは、常識的に求められることだと思った。

 ちなみに、『説得」この作家は、おそらくこの本の取材をしている間は現役の中央大大学院・哲学科の学生だったようだ。この作品でデビューしている。私が佐野眞一の『別海から来た女』(連続殺人の木嶋香苗を書いた本)で感じたような、「上から目線」が全くなく、読み進めるのに好感が持てたし、何より「だんだん文章がうまくなっていく」感じがひとつの楽しみだった・笑。