ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

『勝者の代償―The Future of Success』

2007-07-08 22:51:01 | Book
アメリカ 2002年 ロバート・ライシュ

 金融市場のヒートアップ、CEOのびっくりするような高給、インターネット支配、人々の過剰労働―――アメリカでいったい何が起こっているのか!?を見事に解明している本。的確な抽象化、言葉の選び方、ストーリーの創り方、そして説得力に驚く。本の中核部分は以下のようなものである。

・ニューエコノミーがもたらした新しい仕組み

 大量生産時代から、いろいろなものが変わった。とくにITが、生活や仕事を変 えたと実感している。これが意味しているものは何か?
 それは、「取引コストの著しい低下」である。
 消費者は非常に低いコストで情報を手に入れ、比較し、買うものを決めるようになった。生産者側への圧力は飛躍的に大きくなり、

 →常に技術革新が求められるようになった

 →一部の創造的労働者の価値が急上昇した

 より良い製品・サービスへの消費者の願望に応えられる、アイディアマンのニー ズが急上昇した。新しい分野を作り出してしまう創造者と消費者の潜在的な欲求 を掘り起こすのに成功する創造者(変人と精神分析医、と著者は呼んでいる)に 仕事が集中し、

 →常時対応を求められるようになり、、「常時出勤中」の仕事中毒状態が恒常化した

 →ブランドの力が増大

 「ハーバード」を含め、ブランドがブランド・ポータル化し、名前を使ってナンにでも進出するようになった

・雇用の終焉

 雇用システムが変化し、誰もが「企業人」でなく「個人」で働くようになった。これは「不確実性の増大」を意味する。人々は(時折仕事の出来不出来に関わらず)解雇されうる状況に居る。その不確実性をカバーするために猛烈に働く。

 前工業時代にも雇用関係は無かった。ただ、そのリスクをプールすることのできる地域や大家族のコミュニティがあった。それがない今、人々は自らの「今」で未来のリスクをプールするしかない。

・・・「人々がこれまでにないほど「今日」一生懸命働くようになったのは、「明日」の支払いの必要のためなのである。」

 すなわち、人々は進んで残業を申しであるのである。

・「個人的な気配り」の削減

 個人的な気配りは、総じて生産性の低いサービスとも言える。技術に代替できるサービス―――電話交換手、銀行の窓口係、小売店の店員など―――からはもうすでに人がいなくなっており、それが出来ない「個人的な気配り」産業へと人が流れてきている。

・・・

 つまり、「ひとは、消費者であると同時に生産者である」ということを彼は随時呼びかけている。ニューエコノミーの恩恵を、消費者として、自由でハイレベルな取引を行えるようになった。より買いたいものをより安く、より簡単に手に入れられる。しかし、その分生産者として、非常に長い労働時間と、過労と、粗悪な地域サービスと、気配りの無い生活を受け入れなければいけない―――代償として。

 この、ひとつの要因に対する二つの側面を、どのように対処すればアメリカ人はよりハッピーになれるのか。

 いくつかの提言は、社会保障の枠組みの中にあった。急激な所得変化への社会保険、義務教育などのサービスの公共化などである。

 このような経済構造の変化は、多くの面で日本と共通している。その中で、情報の重要性―――著者は、ブランド力の増加、顔見知りネットワークの価値増加について言及している―――は増すばかりだろう。「メディアの権力」はまさに現実のものとなっている。かつては企業の「予測整合性の上昇」のために生まれたのが広告だ、と著者は言う。独占を試みて価格、収益の予測性を高めるというのと同じ行動原理である。
 メディアは、逆かもしれない。それ自体が「不安定性」を求めているかのように動く。

 より、「ビジョン」が重要になってきているとも言えるのかもしれない。アメリカの労働長官だった著者は、それを仕事とするために執筆活動をしているのかもしれない。(いずれにせよ、労働長官というような行政トップの仕事をする人が、これだけ創造的な、上手い文章と分析をしていることが結構ショッキングだった。)

クリントンからブッシュに変わり、ITバブルが崩壊した後のアメリカについて、この次の著作も読んでみたいと思う。

 


伊能忠敬

2007-07-08 09:10:17 | Book
伊能忠敬(1745~1818)享年73歳。

 昨日、初めて佐原を訪れた。水郷の町、そして伊能忠敬の故郷である。

 忠敬が家業を隠居後に測量をはじめ日本地図を描いたことは有名だが、正確にはそれは55歳からのことであるらしい。伊能忠敬記念館での印象を書いておきたい。

 九十九里に生まれ、佐原には婿養子として移り住んでくる。妻にとって忠敬は二人目の夫(前夫とは死別ではないようだ)であったらしい。忠敬自身も、最初の妻と死別後何人も後妻を持っている。江戸中後期のこのとき、婚姻関係はかなり自由だったのだろうか。伊能家が裕福な商家だった(農家ではなかった)のが大きいのかもしれない。

 村で何回か紛争解決などで名をあげる。津田氏から苗字帯刀を許されるのが39歳のとき。

 49歳で家業を息子に譲り、隠居。忠敬の時代に家業(運輸、倉庫、販売など)の売り上げは3倍になったとのこと。商才があったようだ。

 1789年、44歳、フランス革命、ワシントンん初代大統領、老中・松平定信の寛政の改革

 1792年、47歳、ロシア使節が日本(根室)に来て通商を求め始める

 1799年、54歳、幕府は蝦夷地を直轄地とする
 
 1800年、55歳、測量開始。奥州街道~蝦夷地。事業費の1、2割が政府から補助されたらしい。

 1802年、57歳、第三次測量から公用事業として無賃の人馬使用を認められる。
 
 1808年、間宮林蔵、松田伝十郎、樺太探検
 1811年、66歳、間宮林蔵、忠敬に測量を学ぶ
 ・・・
 1818年、73歳、死去

 1823年、シーボルト来日、
 1829年、シーボルト、忠敬の地図の国外持ち出しを罰せられ、国外追放

・・・
 ちょうど『菜の花の沖』の頃だと思う。同時代の人に本居宣長(1730-1801)、杉田玄白(1733-1817)などが書いてあった気がする。

 商人だっただけあって、帳簿付けの要領からか様々な記録が几帳面に残っている。記念館には、本の所蔵録、紀行記、勉強ノートなどがたくさんあり、私にでも読める字で、文で、書いてある。測量なのでもちろん数学的記述も多く、筆で書かれている縦書きの図式が面白い。読書量にも圧巻。

 記録に残すという作業は、記録それ自体よりも重要である、と最近思う。最先端で「記録に残す技術」を開発し、用いていた江戸時代の商人たちは、実は相当頭が良かったんだろうと思う。船を使った輸送、気候に大きく左右される作物量やその質など、多くの不確実性をさばいていたのが彼らだと言えるだろう。佐原の町は、おそらく、銚子から利根川を登ってくる輸送船を逗留し、取引を定め、江戸に送る役割で栄えたのだろう。それで利を得た商人たちの邸宅が少々立派で、街並みの保存に声がかかって今のような風情ある街並みになったのだろう。

 この時代の江戸時代の知識人が持っていた、知識へのバイタリティは敬服モノである。伊能忠敬の面白い伝記があれば読んでみたい。

 うなぎ屋・山田が、大変おいしかった。非常に満足、非常に贅沢なお昼ご飯でした。