いよいよ押し詰まってきて、これもやらねば、あれもやらねば、ということから何を優先させる(切り捨てる)のかにモードが切り替わるタイミングになってきた。特にこの正月は元旦が日曜日ということで従来の感覚では正月休みは少なく、時間的余裕がないために、なおさらである。年末というと日本国内では、音楽それもクラッシックの世界ではベートーヴェンの「第九」が定番ということで、例年この時期になると各地でコンサートが催され、市民コンサートなどだとニュースになったりする。それを他人事として見ていたのだが、この年末といっても24日のクリスマス・イブの日だが、東京フィルの演奏会を聴く機会に恵まれた。じつは全体で4楽章からなるこの交響曲を通して、しかも生で聴くのは初めてだった。これまでTVで途中までなんとなく聴く(というか見るというか)機会はあったが、途中で止めてしまった(長いからね)。今回の会場は、東京オペラシティ。ある外資系保険会社の冠コンサートだったが、結論からいって「非常に良かった」。第九といえば、「喜びの歌」で知られる合唱付きの交響曲だが、恥ずかしながらほとんど知識はなかった。クラッシックのコンサートには年に2回くらい行く程度で、「第九」について深く知りたいとか調べたいとか思ったこともなかった。
東京フィルも良かったし、合唱部分も良かったのだけど、添付されていた解説書がまたよかった。コンサートが始まるまで間があったので何気に読み始めたが、すぐに引き込まれた。後で確認したら「野本由紀夫」なる人の手によるものだったが、とにかく分かり易く、しかも面白かった(興味深い内容)。お陰で「第九」を全体の構成のなかで聴くことができた。そこだけ有名になってしまった第4楽章の意味も知ることができた。もしかしたら中学高校時代にちゃんと音楽の教科書を読んでいたら、この程度は常識なのかもしれないが、“スポンジ”のような自分には知的な満足感を得るのに充分だった。
有名な「喜びの歌」が歌われるのは1時間20分くらいかかる曲全体の最後の25分くらいで、そもそも交響曲(シンフォニー)とは、本来は楽器だけの音楽であって、第1楽章、2、3、と進み4で「歌」が入ること自体が「反則」なんだそうだ。解説書をそのまま引用すると
・・・・「そば」を食べていたら、どんぶりの下半分が「ラーメン」になっていたみたいな違和感が、初演時はあったはずである。ベートーヴェンもそのことを気にしていた。『第九』を毎年聴いている私たちはもはや慣れてしまって、別におかしいとも感じなくなっているが、「合唱なし」の第1楽章から第3楽章までと、「合唱付き」の第4楽章が異質であることは、作曲者本人がいちばんよくわかっていた。そりゃそうである。じつは第4楽章は、あとから取り替えられたのだから。ベートーヴェンは当初、合唱など入れるつもりはなかったのである。・・・・・・
解説は、このように続いていくんだけれど、読むうちにそうなのか、ならばどうして入れ替えたんだ?と思うよね。解説によるとベートーヴェンは交響曲第8番の完成の後、次のアイデアを1816年ごろからメモしながらも本格的な作曲には取り掛からなかったらしい。結局ロンドンのフィルハーモニー協会から作曲依頼があり、それで重い腰をあげ1823年から1824年の実質的に2年間で第1から第3までを集中的に作曲したとされる。最後の4になり、ここでこの人(ベートーヴェン)は30年もの間暖めてきたシラーの詩「歓喜に寄せて」に曲をつけるという構想を思い出してしまったらしい。そこでシラーの「歌」付き楽章を前編3楽章にドッキングさせたんだと。それで、その部分(4)は異質なものになってしまったらしい。流れが切れてしまうことを気にしたのであろう“この人”は、第4楽章の冒頭で、音楽でその“言い訳”を表現しているのだと(解説書では「レチタティーヴォ」となっている、一種のナレーションをさすらしい。本来は言葉で表現されるものを音楽だけでやったとなっている)。天才の考えることは、違うのだ・・・。
これ以上書いても、分かりにくくなるばかりなので、やめるが、興味のある方は簡単な解説書を読まれると面白いと思う。まぁ、「第九」とは、蕎麦だと思って食べていたらラーメンが出てくる構成なんだね。そういえば、追い出された形の“本来の”第4楽章を聴いてみるのも面白いと解説書には書いてある。それは弦楽四重奏曲第15番の最終楽章(第5楽章)に流用されているんだそうだ・・・むむむ。。。。分かる人はわかるんだろうね(当たり前だが・・)。 なんか、今日は、文化的だわ。
東京フィルも良かったし、合唱部分も良かったのだけど、添付されていた解説書がまたよかった。コンサートが始まるまで間があったので何気に読み始めたが、すぐに引き込まれた。後で確認したら「野本由紀夫」なる人の手によるものだったが、とにかく分かり易く、しかも面白かった(興味深い内容)。お陰で「第九」を全体の構成のなかで聴くことができた。そこだけ有名になってしまった第4楽章の意味も知ることができた。もしかしたら中学高校時代にちゃんと音楽の教科書を読んでいたら、この程度は常識なのかもしれないが、“スポンジ”のような自分には知的な満足感を得るのに充分だった。
有名な「喜びの歌」が歌われるのは1時間20分くらいかかる曲全体の最後の25分くらいで、そもそも交響曲(シンフォニー)とは、本来は楽器だけの音楽であって、第1楽章、2、3、と進み4で「歌」が入ること自体が「反則」なんだそうだ。解説書をそのまま引用すると
・・・・「そば」を食べていたら、どんぶりの下半分が「ラーメン」になっていたみたいな違和感が、初演時はあったはずである。ベートーヴェンもそのことを気にしていた。『第九』を毎年聴いている私たちはもはや慣れてしまって、別におかしいとも感じなくなっているが、「合唱なし」の第1楽章から第3楽章までと、「合唱付き」の第4楽章が異質であることは、作曲者本人がいちばんよくわかっていた。そりゃそうである。じつは第4楽章は、あとから取り替えられたのだから。ベートーヴェンは当初、合唱など入れるつもりはなかったのである。・・・・・・
解説は、このように続いていくんだけれど、読むうちにそうなのか、ならばどうして入れ替えたんだ?と思うよね。解説によるとベートーヴェンは交響曲第8番の完成の後、次のアイデアを1816年ごろからメモしながらも本格的な作曲には取り掛からなかったらしい。結局ロンドンのフィルハーモニー協会から作曲依頼があり、それで重い腰をあげ1823年から1824年の実質的に2年間で第1から第3までを集中的に作曲したとされる。最後の4になり、ここでこの人(ベートーヴェン)は30年もの間暖めてきたシラーの詩「歓喜に寄せて」に曲をつけるという構想を思い出してしまったらしい。そこでシラーの「歌」付き楽章を前編3楽章にドッキングさせたんだと。それで、その部分(4)は異質なものになってしまったらしい。流れが切れてしまうことを気にしたのであろう“この人”は、第4楽章の冒頭で、音楽でその“言い訳”を表現しているのだと(解説書では「レチタティーヴォ」となっている、一種のナレーションをさすらしい。本来は言葉で表現されるものを音楽だけでやったとなっている)。天才の考えることは、違うのだ・・・。
これ以上書いても、分かりにくくなるばかりなので、やめるが、興味のある方は簡単な解説書を読まれると面白いと思う。まぁ、「第九」とは、蕎麦だと思って食べていたらラーメンが出てくる構成なんだね。そういえば、追い出された形の“本来の”第4楽章を聴いてみるのも面白いと解説書には書いてある。それは弦楽四重奏曲第15番の最終楽章(第5楽章)に流用されているんだそうだ・・・むむむ。。。。分かる人はわかるんだろうね(当たり前だが・・)。 なんか、今日は、文化的だわ。
PS:良ろしけれな年末ジャンボが当たるよう、お祈り下さい(^^)
今年も様々なことがありましたが、全般的には近年のなかでは明るさの出た年ではなかったでしょうか。
ちなみに私は年末ジャンボは買っておりません、が意識しておきます。皆様も実りある年末と新しき年をお迎えください。